帝国最高統帥会議に出席した首脳陣の興奮を前にすれば、ゼートゥーアのこらえたため息もこぼれかけるというものだった。講和条約とは名ばかりの挑発と暴言が積み重なり、軍部が文字通り命がけで掴み取った終戦の糸を断ち切ろうと、いや、導火線にしようとすらしている。
あまりに合理でない。
ふと、いつの間にやら己の懐刀となった少女軍人の顔が思い浮かんだ。無能を蔑み合理を貴ぶターニャ・フォン・デグレチャフがこの議会を見れば、切れ味の鋭い皮肉が機関銃のごとく放たれるだろう。あるいは戦争を知らない彼らのために機関銃そのものを披露するかもしれない。
東部戦線の指揮を本来の司令に返し、遠路はるばる帝都へ戻ってきたものの、どうやら骨折り損で終わりそうだった。帰りがけにルーデルドルフの執務室から頂戴してきた葉巻は上等だったが、状況が上等ではない。ルーデルドルフの視線を気にせず三本ほど消費し、いかにこの連中を転覆させてやれば帝国を守れるかに考えを移しはじめたところで、会議室にどよめきが生じた。秘書の耳打ちを受けて、宮内尚書が発言したのだ。
「陛下のお言葉を賜りましたので、宮内省を預かる者としてこの場をお借りいたしまして……。たとい焔の熱さを向けあおうとも、のちに友となる国々なれば、共にあって永らえることを以て良しとせよ、と」
ゼートゥーアは驚愕し、また己が驚愕している事実にも驚愕した。
たとえ会議を開き、首脳陣が国家を動かしていようとも、帝国の権力は皇帝を頂点とする。国家の意思決定とその責任は皇帝が担うのだ。首脳陣が何を言おうと、皇帝が否とするなら、それが是になることはない。
つまるところ、これは和平の成立を意味した。
「……であれば、陛下の御心に従い、終戦に向けて一致団結するのが臣民としての務めでしょうな。すでに提言いたしましたとおり、友好国イルドアを仲介としての和平は十分に可能な状況です。参謀本部としては講和に最大限の協力を申し出る次第ですが、皆様のお考えをお聞かせ願いたい」
ゼートゥーアの発言に会議室は沈黙した。出席したそれぞれの困惑と苦悩が紫煙となって空気を濁らせている。
最初に手を挙げたのは財務省だった。
「ざ、財務省としては、和平が結べるならそれに越したことはありません。しかし、賠償金を外すわけにはいきますまい。すでに帝国経済は国債に依存しているのですぞ」
「このようなことを軍部の人間として口にするのは心苦しいが、連邦は負けたのではない。勝っていないだけなのです。彼らに賠償金を請求すれば、当然反発を煽るでしょうな」
「ではどうするというのだね、ルーデルドルフ准将! そもそもは敗北を与えられない軍部の怠慢ではないのかね!」
「それは参謀本部への公式な非難声明と受け取ってよろしいのですかな? 我々帝国軍の精強と献身があってこそ、帝国は外敵から守られてきたのですぞ。それを打ち捨てるとあれば――」
ここを限界と見た。
ゼートゥーアは手を打ち鳴らした。ルーデルドルフも財務尚書も、他の首脳陣もゼートゥーアに目を向けている。もったいぶった咳払いをひとつ挟んで、ゼートゥーアは東部戦線から持ってきた書類を一束取り出した。
「これは軍の最高機密であり、筆者については現時点で回答いたしかねますが、終戦後の帝国経済についての開明的な論文が先日提出されました。私の専門からは外れると判断したため、後方参謀を介して国内の経済学者や資本家、信頼のおける有識者に査読を依頼した結果、彼らは論旨の妥当性と合理性を認め、賛意を表した署名まで残してくれました。こちらを」
ゼートゥーアの手からひったくるように論文を掴んだ財務尚書は、読み進めるうちに目を見開き、汗を垂らし、手を震わせはじめた。署名者のなかには彼の恩師や健康上の理由から勇退した前財務尚書までいる。それらの人物が賛意を表するだけの内容が明快かつ端的な文章で示されているのだから、彼の取り乱しようもむべなるかな、とゼートゥーアは小さく頷いた。
かくも恐ろしきはデグレチャフである。和平による経済効果の拡張、軍縮による労働力の増大、復興による雇用の増加、これらを適切に論じ、軍の組織構造も帝国法も引っ張り出して実現可能な提言にまとめる。才覚というよりは見識の功であろうか。
ゼートゥーアはかの中佐を高く評価している。柔軟で、機転が利き、規律に忠実で、取り繕うのが大変にうまい。人手不足と年齢不足さえなければ総務部で行政参謀にあたらせてもよかっただろうとすら思っている。
どこにあっても奮戦し、終戦への道をこじ開けた彼女のためにも、ここで勝負しなくてはならない。ゼートゥーアの覚悟は並大抵のものではなかった。
「いかがですかな、財務尚書殿」
「……可能だ」
会議室に衝撃が走った。
「もちろん、財務省の内部システムと噛み合わない部分や、人員上の都合で実現が困難な部分もある。しかし……この論文は理屈が通っている。論拠もしっかりしている。終戦によって帝国経済が回復する一つの方策となりうる」
「それは結構。方々に自ら頭を下げて回ったかいがあるというもの」
財政問題が解決した以上、あとは市民感情をどうするかが問題だ。しかし、幸いにして帝国の広告担当は無能とは程遠く、和平の方向に天秤が傾いたと見るや否や、市民を納得させるプロパガンダに全力を尽くすことを宣誓して見せた。
かくして、帝国の和平方針は固まったのである。
微妙な顔の首脳陣が三々五々に散るなか、ゼートゥーアはルーデルドルフと久しぶりに肩を並べていた。
「やはり、持つべきは有能な友人だな。葉巻のぶんは帳消しにしておいてやろう」
「有能な部下にも何か包んでやってくれ。あれはどうやら煙草を好まんらしい」
「ターニャ・フォン・デグレチャフか」
ルーデルドルフが首を傾げた。
「妙なこともあったものだ。生粋の軍人、それも猛犬の類と思っていたが、首脳陣の馬鹿どもより先に終戦を考えていたとは」
「賭けてもいい、レルゲン大佐が悔しがる」
「レルゲンが?」
「あれはデグレチャフ中佐をさんざ化け物だと主張してきただろう。いやはや、化け物に救われる国とは」
どちらともなくため息をつき、どちらともなく情けない笑いがこぼれた。
帝国と同じように、軍の双璧も疲弊しきっていた。あるいはこの疲弊が、幼い少女に血みどろの重圧を背負わせるなどという狂気を導いたのかもしれない。だとすれば、ターニャ・フォン・デグレチャフは被害者ではないか。
そこまで考えて、ゼートゥーアは頭を振った。
「ゼートゥーア。和平が成ったら俺は退役する」
「お前の口から退役などという単語が聞けるとは、明日は槍の雨が降るな」
「まあ聞け。若いころのボクサー気取りが祟ったようだ。脳に問題があると医者に言われた。悪くなると物忘れや判断ミスが増えるらしい」
「そうか。……そうか」
軍大学時代は荒くれの大男と思って苦手意識と憧憬意識の両方を抱いていた親友が、どこか小さく、縮んで思えた。
ゼートゥーアが柄にもなく背を叩いて笑んでみせると、ルーデルドルフは一瞬眉を上げたあと、吠えるような笑い声をあげた。
「お前に気を使わせるとは、俺も老いたものだな、ゼートゥーア。なに、気にすることはない。孫娘がこの戦争で夫を亡くしてな、勇ましいおじいさまと一緒に暮らせれば安心できるそうだ。可愛い盛りさ、俺自らいい男を見繕ってやってもいい」
「愛想を尽かされるなよ」
「馬鹿を言え。……参謀本部はお前に任せる。休みにでも顔を出せ」
「ああ。必ず行くさ」
帝国の戦争が、終わろうとしていた。