何度己の無能を呪ったことかわからない。レルゲンは絆創膏だらけの指先を睨んだ。
家事というものを完全に舐めていたのは間違いない。敵戦力を過小評価した結果、隊は損耗しつつある。しかし、まだ勝利を諦めたわけではない。
幸いにして掃除と洗濯ははるか昔の記憶を呼び起こして試みることができた。女性ものの下着をどう洗えばよいものかわからず、恥を忍んでセレブリャコーフに電話をかけたこともあるが、少なくともターニャの衛生環境はいくぶん改善された。
問題は料理だ。焼けば焦がし、茹でれば縮み、どうにも加減が難しい。味付けもわからない。少々、ひとつまみ、適量、すべて謎だった。
教本を睨みつけながら炒め物に挑戦していたレルゲンを救ったのは、他でもないターニャだった。相変わらず表情は動かないが、口数は増えてきた。
「閣下、火が強すぎます」
「そうなのか?」
「中火で炒めるものを強火にしたところで早く火が通るわけではありません」
「そういうものなのか……」
レルゲンは慌てて魔導コンロの火を弱めた。早く食べさせたいと思って焦っていたのだ。ターニャはそれを見て小さく頷くと、提言を続けた。
「はい。それから、味付けの際は味見をしながら微調整されるのがよろしいかと」
「味見、そうか、確かに。……しまった、塩を入れすぎたか」
失敗の予感に胃が痛くなった。失敗した料理は責任を持ってレルゲンが片付けている。その場合、ターニャは缶詰のパイとスープを食べているが、それではレルゲンが来た意味がない。
しかし、まだ救いの手はあるようだった。
「卵を増やしましょう。全体の量が増えて味が和らぎます」
「なるほど、そうしよう。君はひょっとして料理上手なのか?」
「孤児院では料理も当番制でした。火の扱いが許された数か月後には軍に入りましたが」
「そうか。経験は活きるものだな」
「閣下の経験も活きてらっしゃいますね。この料理はひょっとしてビヤホールのメニューでは」
レルゲンが作っているのはツヴィーヴェル・フライシュ、牛肉と玉ねぎ、ジャガイモを炒めて溶き卵で閉じたものだ。安く、ボリュームがあるため、学生時代はしばしばこれを食べていた。
なんとか形になったそれを皿によそり、テーブルに運んだ。レルゲンが自腹で購入した椅子に座る。安全のため、カトラリーは木製のものに買い替えた。
「いただきます」
「いただきます」
ターニャの癖がうつったのだろう、レルゲンも食前食後に挨拶をするようになった。悪い気分はしなかった。
成功らしい成功は初めてで、気分がよかった。ジャガイモも不揃いだし、牛肉も火が通りすぎているが、それでも食べられる味には仕上がった。心なしか、ターニャの顔色もいいように見える。
しかし、しばらくするとターニャの手が進まなくなった。
「どうした、デグレチャフ」
「いえ……問題ありません」
「気にするな、言ってみろ。味付けが合わなかったのなら今後の参考にしたい。料理は君のほうがうまいからな」
しかし、ターニャは答えない。先ほどまでよかった顔色も元に戻ってしまった。
なおも回答を求めようとしたレルゲンは、ふと胃に重みを感じた。まだ三分の二ほどしか食べていないのに、満腹感がある。そこでようやく理解した。
彼女はまだ十三歳の少女であり、成人男性が食べる量を平らげることなど物理的に不可能なのだ。レルゲンはすっかり失念していたこの事実に情けなくなった。
「そうか、卵を増やした分、量が多かったな」
「申し訳ありません。大丈夫です、完食できます」
「無理をするな、デグレチャフ。……これは、ある小説で読んだのだがな。食事とは栄養の補給だけでなく、充足感と幸福感のための娯楽でもあるそうだ。無理に行う娯楽などあるまい」
ターニャは皿から顔を上げて、レルゲンの顔を見つめた。
しばらく二人は沈黙していたが、ターニャが小さな笑い声をこぼしたことで、レルゲンは思わず驚きが顔に出た。
「いえ、失礼しました。その、閣下が小説を読まれるのが意外で」
「ルーデルドルフ閣下からおすすめいただいたのだ。その閣下はお孫様からおすすめされたそうだが」
「それも意外です。……ありがとうございます、レルゲン閣下」
ターニャはカトラリーを置いて、レルゲンに深く頭を下げた。
「しばらく缶詰で飢えを満たしていましたが、味もわからず、吐き気をこらえながら嚥下するばかりの日々でした。次第に飢えも感じなくなって、このまま死ぬのだろうと……それがよいだろうとも、思っていました」
「それは……」
「しかし、閣下のぎこちなく不格好な料理は、味がします。それに、温かいです」
顔を上げたターニャの頬は涙で濡れていた。ここしばらくの生活で、レルゲンは理解しつつあった。泣くという行為は今の彼女にとって最大限の感情表現なのだ。
そして、彼女の感情が動いていることにレルゲンは喜びを感じていた。達成感とも安堵とも違う、ただの「嬉しい」がそこにあった。軍人になってなくしたと思っていたものだ。
気づくと、レルゲンはターニャの頭を撫でていた。
「ターニャという少女が無邪気に笑えるその日を、必ず掴もう。戦争を一つ片づけた我々ならできるはずだ」
涙の向こうで、ターニャがかすかに微笑んだ。
「プロポーズのようですね」
「な、なにを! ああ、いや、そういうわけでは」
「ジョークです、閣下」
レルゲンは安堵し、そして彼女の発言を反芻し、驚愕した。ターニャがジョークを口にした。最低限の会話もままならなかったターニャが。
この歓喜をどう表現すべきか、レルゲンは悩み、結局微笑みを返した。
「デグレチャフ、私は――」
「……もう、ターニャとは呼んでくださらないのですか?」
「それもジョークか?」
ターニャは数秒沈黙して、当惑したような表情を浮かべた。
「自分でも自分がよくわからないのですが……どうやら、本心から出た言葉のようです。いや、閣下への甘えが出てしまったのでしょうね、お忘れください」
「……いや、確かに私は聞いたぞ。ターニャ」
ちょっとした悪戯心、ちょっとした好奇心、そして多めのぬくもりを込めて、レルゲンはこの少女をターニャと呼ぶことに決めた。呼んでみれば案外なじむものだ。
ターニャは不服そうな、恥ずかしそうな目をレルゲンに向けたが、それでも異を唱えることはしなかった。
レルゲンは二人前を何とか腹に収め、ターニャと並んで皿を洗いながら、壁に掛けられたカレンダーに目をやった。帝都に帰還するまであと一週間。
「食後に食事の話をするのもなんだが、一週間後の夜は好きなものを食べてほしいと思う。なにか食べたいものはあるか?」
「一週間後……ああ、そうでしたね。閣下が帝都に帰還なさる日……」
皿を拭くターニャの手が止まった。
余計なことを口走ったかもしれない。レルゲンはかすかな焦りを覚えた。
しかし、ここしばらくで学んだことがある。おっかなびっくり、腫物を触るような扱いでは、何もターニャのためになることはできないのだ。
しばらくして、ターニャが口を開いた。
「食べたいものはありません。しかし……」
「なんだ?」
「その、もし近くを通るなどして、またいらっしゃる機会があれば、帝都の話をお聞かせ願えればと。……いえ、厚かましいことを口走りましたね」
レルゲンは二人分の食器をすすぎながら、それに答えた。
「必ず来るとも。土産話には期待してくれて構わない」
「……ごめんなさい、いえ、ありがとうございます、閣下」
「エーリッヒ」
「は?」
「君は知らないかもしれないが、私のフルネームはエーリッヒ・フォン・レルゲンだ。レルゲンと呼び捨てるのは立場上難しいかもしれないが、エーリッヒと呼ぶ分には問題ない。これでおあいこだろう、ターニャ」
ターニャはしばらくうつむいていたが、消え入るような声で返事をした。
「ありがとうございます、エーリッヒ」