レルゲンが帝都に戻る日がやってきた。ターニャの手伝いもあって、荷造りは迅速に終わり、汽車の時間まで微妙な空白ができてしまった。とはいえ、無駄でも退屈でもない。
リビングルームでテーブルを挟んでいると、どちらともなく、昔話が始まった。
「士官学校時代を覚えているか、君が二号生の教育を任されていたころの」
「はい。当時は自分のことでいっぱいいっぱいでした」
「なるほど、張り詰めていたのはそれでか。士官学校で顔を合わせたことがあったが、正直、とんでもないやつだと思った」
「あの候補生には悪いことをしました」
一か月前であれば、ターニャが謝意を口にするなど想像もつかなかっただろう。
ターニャはどこか遠くを見つめていた。
「昔の私は少し、いや、かなり感情というものに無思慮でした。私にとって感情は計算に組み込む変数の一つでしかなかった」
「そうだな、私も当時はそう感じていた」
「こうして自らの心が根本から揺らいではじめて、感情としての感情に目を向けられるようになりました。皮肉なものです。私は、もう軍には戻れませんね」
「戻りたいか、ターニャ」
少し黙って、ターニャは静かに否を示した。まだ顔色は悪く、痩せこけてもいたが、穏やかな表情だった。
「適材適所。世の理です」
「そうか。それがよいと思う」
「はい。……皆によろしくお伝えください」
「もちろんだ、ターニャ・フォン・デグレチャフはいまだ健在なりと伝えよう」
くすくすと笑うターニャは、まるで年相応の少女のようだった。あるいはこちらが素だったのかもしれないとも思ったが、レルゲンには計り知れないことだ。
レルゲンが思うに、かつての冷徹な”白銀”もターニャの姿ではあったのだろう。徹底した合理をのみ貴ぶその態度は、今ここにあって変化を迎えつつある。
かつてのターニャは口ぶりから態度まで、仕事熱心な官僚そのものだった。帝国人の理想的な男性像を体現してすらいた。しかし、こうして触れ合ううちに、彼女が”デグレチャフ大佐”から”ターニャ”になっていくのがわかる。
これは理屈ではない。レルゲンは漠然と、そのような感覚を抱いたのだ。
「君は変わったな」
「変わったと思います。少し寂しさを感じるほどに」
「私は今の君のほうが好きだ。可愛らしく思う」
ターニャは不意打ちを食らったように目を見開いて、それから不満そうな視線をレルゲンに向けた。
「エーリッヒ、あなたは会う女性すべてに甘い言葉を投げかけてらっしゃるのでしょうね」
「そんなことはない!」
「奥様が嘆かれますよ」
「私は未婚だ!」
「未婚? あなたが? ……まあ、いろいろと納得ではありますが」
今度はレルゲンが不満の視線を向ける番だった。
ひとしきりからかいあって、ちょうどいい時間になった。出立だ。レルゲンは鞄を手に取り、しっかりとターニャの瞳を見つめた。
「また必ず来るから、それまでできるだけ健康にな」
「努力いたします」
「ああ、無理のない範囲で」
ターニャを駅には連れていけない。レルゲンとは打ち解けたが、まだ人の集まる場所に対する忌避はあるだろう。
奇妙な共同生活だった。しかし、妙に名残惜しく、傍らに立つターニャに目をやった。
「エーリッヒ、その……」
「なんだ」
逡巡ののち、ターニャは視線を迷わせながらレルゲンの裾を指先でつまんだ。
「私は、待っています。食器も、椅子も、ベッドも、二人分です。だから……きっと、また来てくださいますね?」
レルゲンは膝をつき、ターニャを抱きしめた。
ひゅっ、と息を呑む音がして、よくないことをしたかとも思ったが、やや間があって、ターニャの細く短い腕がレルゲンの首に回された。
「必ず帰ってくる、ここに」
「……私は、どうしてしまったのでしょうか」
「私も不思議でならない。何が起こっているのか、答えを見つけておいてくれ」
「ご命令とあらば、承知いたしました。……汽車に遅れます、エーリッヒ」
レルゲンは放り出した鞄を拾って、今度こそ家を出た。何か複雑怪奇な心理的変化が生じつつあると自覚しているが、今はそれを分析し検討する気分ではなかった。
道中、レルゲンは何度も振り返った。ターニャはいつまでも家の前に立っていた。
汽車の中で形式的な報告書をまとめながら、レルゲンはゼートゥーアとセレブリャコーフに何をどう伝えたものか悩んでいた。報告書にまとめながら思い返せば、すべて純粋な善意と親しみから為したこととはいえ、見方によっては少女性愛を疑われてもおかしくない。誤解は避けたかった。
結局、答えが見つからないまま、レルゲンはゼートゥーアの執務室に到着してしまった。
「エーリッヒ・フォン・レルゲン准将、帰還いたしました。この度のご高配、心より感謝いたします」
「うむ、ご苦労。二度手間になる、セレブリャコーフ少佐が来てから報告を受けよう」
「承知いたしました」
ゼートゥーアの表情は穏やかで、レルゲンにはまったく彼の考えが読めなかった。基本的にゼートゥーアが部下を叱責することはない。それはこれまでルーデルドルフの役目だった。とはいえども、ゼートゥーアの怒りを買いたくないのも事実だ。
だからといって虚偽の報告をするつもりもない。偽る必要のあることは何もしていないのだ。
レルゲンが思案を続けていると、おもむろにゼートゥーアが口を開いた。
「落ち着かんようだな」
「いえ、はい」
「先ほど、デグレチャフ大佐から電話があった。貴官に心から感謝していると。そして、貴官を二か月も拘束したことをお詫びすると。最後に、貴官の任務のために尽力してくれたすべての人々に礼を言いたいと。ずいぶんと懐かれたようだな、レルゲン准将」
「は、親交を深めることができました」
ちょうどその時、セレブリャコーフ少佐が到着した。急いで来たのだろう、少し髪が乱れているし、汗までかいている。セレブリャコーフ少佐の敬礼に答礼し、小規模ながら重要な報告会が始まった。
「では、大佐殿は回復されたと」
「ああ、いくらかはよくなったと思う」
「なるほど。滞在期間を延ばすべきだったやもしれん」
「と仰ると」
「戦後が最も燻るように、回復したように見える時が一番危険なのだ、レルゲン准将」
「よし、もう一度行きましょう閣下。仕事は私が代行しておきますから! 決裁印はゼートゥーア閣下にお願いすればよろしいですか?」
何やら話がおかしな方向に進んでいる。
「落ち着け、少佐。私とてターニャのことは心配だが、仕事は仕事だろう」
「……ターニャ?」
「あ、いや、デグレチャフ大佐の話だったな」
「准将閣下は、大佐殿のことをターニャと呼んでらっしゃるのですか!」
「まあ、その、なんだ。そう呼ぶことを許されたのは事実だ」
セレブリャコーフが言葉になっていない歓声のような奇声を上げたので、レルゲンはげんなりした。完全なる失言だ。
くつくつと含み笑いが聞こえて目を向けると、ゼートゥーアが肩を震わせていた。
「いや、すまんな、貴官が人情家であることは知っているつもりだったが、なかなかどうして、やり手だな。あのデグレチャフを誑し込むとは」
「そういうわけでは」
「わかっている。それほど親密な関係を構築できたのなら、貴官に任せて正解であった。セレブリャコーフ少佐ではあれに近すぎる。仮に私が行けば、今度は遠すぎる。適任であったな」
ゼートゥーアは一人で何度か頷き、なにか納得したようなそぶりを見せた。何がこの男を得心させたのかレルゲンにはわからない。しかし、どうやらゼートゥーアは上機嫌のようだった。
落ち着きを取り戻したセレブリャコーフの提案を受けて、三人はコーヒーを飲みながら今後の計画を検討することになった。やはりゼートゥーアの私物は上等で、これほどおいしいコーヒーを飲むのはいつぶりかわからないほどだ。
「ここ一か月の働きを見る限り、セレブリャコーフ少佐に総務部を預けるのは悪い選択ではないだろうと思うが、どうかね」
「小官も同様の意見です。少佐、預けていた間、何か問題はあったか」
「やはり、階級が下の新人が仕事を回していることに不満を抱かれる方もいました。それに私自身まだ経験不足です。どうしても効率は落ちるかと」
「ふむ。なにかいい案があれば聞かせてくれ」
「では、失礼して……。セレブリャコーフ少佐の能力は補佐として働いているときにこそ最大限発揮されると私は見立てています。総務部を預けても安心できる、階級も経験も備えた人員に心当たりがないわけではありません。その者をひとまず立て、補佐に少佐をつけて動かす。無難ではありますが、失敗は少ないかと」
ゼートゥーアは黙って顎を撫でながら聞いていたが、頷くと、セレブリャコーフに目を向けた。
「セレブリャコーフ少佐、聞いてのとおりだ。貴官はこの計画をどう思う」
「賛同いたします。小官としても全力を尽くす所存です」
「結構。レルゲン准将、候補を見繕ってくれ。面接は私が行う。引継ぎが終わり次第、貴官はデグレチャフ大佐のもとへ向かいたまえ」
「承知しました。候補を検討するため、滞在期間を見積もっておきたいのですが、閣下はどの程度がよろしいとお考えでしょうか」
「ん、そうだな……」
ゼートゥーアが執務机の上から書類を引っ張り出した。レルゲンからは内容が見えないが、どうやらその一枚がこれからを決定するようだ。
「デグレチャフの自宅から帝都まで二時間とかからんか。レルゲン准将、これは提案であり、強制はしないが……どうだろう、この際転居してしまうというのは」
「は……転居でありますか」
「参謀次長である准将が総務部で事務仕事をしていること自体が人事再編の皺寄せだった。それが解決した以上、貴官の業務上の時間拘束は大幅に減る。通勤時間が多少延びたところで、さしたる問題ではあるまい」
「恐れながら、それでは有事の対応が」
「戦後処理も進みつつある。これはまだ正式発表ではないが、近々連邦との親和条約も締結される手はずだ。ここで有事が生じるのなら、それは終戦を推し進めた私の致命的失敗を意味する。貴官が通勤してくる間くらいはこの老いぼれでも義務を果たすことができるだろう。なにか異議は?」
異議のつけようはある。しかし、どうやらこれは決定事項のようだった。あっけにとられた様子のセレブリャコーフを放置して、レルゲンは一番の疑問をゼートゥーアに投げかけた。
「閣下はなぜそこまで彼女のことを重視してらっしゃるのです。僭越ながら申し上げますが、まだ彼女に利用価値を見出してらっしゃるのなら、それは――」
「准将」
思わず熱くなっている自分がいることに気づいたレルゲンは、ゼートゥーアの静かな制止に逆らいたい気持ちを押し殺してなんとか従った。これ以上は今後の職務に支障をきたす。
ゼートゥーアが何も考えずこのような振る舞いをするはずもなかった。レルゲンの知るゼートゥーアはかつてのターニャを上回る合理主義者だ。
「……失礼しました」
「構わん。有能な准将であれば理解していると思うが、これらの対応は帝国法、そして我々の軍規の範疇で、私が振るえる権力の内でのことだ。しかし、それを聞いているわけでもなかろう。……昔の話だ。私にも妻がいた」
初耳だった。返事をするのも忘れて、レルゲンはゼートゥーアを見つめた。
「気立てのいい、奥ゆかしい、しかし芯のあるいい女だった。私はあれの強さに任せて、ひたすら仕事に打ちこんでいた。社交界での僻み妬みから守ってやるなど、考えもしなかった。……あれは心を病んだ。しかし、私がそばにいてやれるわけではない。実家に帰らせた」
淡々と語るゼートゥーアは、表情が抜け落ちて、まるで人形のようだった。細かに走る皺は樹皮を思わせ、レルゲンは初めてゼートゥーアを老人だと感じた。
「家族の甲斐甲斐しい世話で、一時は回復した。それほど苦しんだにもかかわらず、あれは私のそばに戻ることを望み、私も受け入れてしまった。半年後、ひどく寒い冬の日だった。帰ると、ワイングラスを握って冷たくなっていた。空の薬瓶と、私にあてた詫びの手紙だけが残されていた」
レルゲンはゼートゥーアを何も知らなかったと実感した。
確かに、ゼートゥーアという男は敏腕で、冷徹だ。しかし、それは能力であって、人物ではない。かつてターニャが感情を変数として見ていたと口にしたように、レルゲンもまたゼートゥーアを国家の機能の一部か何かのように見ていた。
そしてなにより、いまはターニャが心配だった。
「私は学んだのだ、准将、少佐。心を侮ってはならない。見えないからこそ、その傷を塞ぐことは困難だ。そして、傷を無視すれば、当然のように喪失が生じる。これは道徳の話ではない。我々が多少の労力を支払えば、救うべき命を救うことが可能になるという話だ。……さて、それでは仕事にかかってもらうとしよう。急ぎの仕事だ、よろしく頼む。セレブリャコーフ少佐、コーヒーをありがとう」
なんともない表情でゼートゥーアが職務に戻ったので、レルゲンはセレブリャコーフを連れて退室した。二人ともレルゲンの執務室に着くまで無言だった。
レルゲンが座るのも待たずに、セレブリャコーフは総務部の名簿をレルゲンに差し出した。レルゲンはそれを咎めず、手早く新たな総務部長の候補を選出した。
「閣下」
「なんだ、セレブリャコーフ少佐」
「大佐殿を、よろしくお願いします。あの方は私にとっても、ううん、私たちにとってもかけがえのない存在です」
いつになく真剣な表情のセレブリャコーフに、レルゲンはしっかりと頷いてみせた。