顔から火が出そうだった。
鏡を見たターニャは、まるで自分が熱病患者のようだと感じた。耳が赤いところも、頬がこけているところも。”彼”のおかげで少し肉付きは戻ってきたが、それでもまだ健康的とは言えない見た目だった。
なにより、正気ではなかった。この場合の正気でないとは、精神疾患を心無い言葉で表現するそれではない。
男に裸を見られたからなんだというのだ。何の目的があって名前で呼ばせたのだ。それに、”彼”が出立する直前、自分はなにをした?
感情の動きが少しずつ戻ってきたからこそ、これまでとは違う苦しさがターニャの胸を締め付けていた。黒歴史よりなおたちが悪い。なぜなら、いまこんなに恥じているにもかかわらず、”彼”と再会したら必ず同じことをするであろうと確信しているからだ。それも根拠のない確信を。
「……馬鹿馬鹿しい。思考ロジックまで十三歳の少女になったのか、私は」
この考えに至ったきっかけも、なんということはない、”彼”の歯ブラシを間違って使ってしまったからというだけのことだ。なぜ自分は来るかもわからない人の歯ブラシを置いているのか、ターニャにはさっぱり見当もつかなかった。すっかり”彼”の”帰宅”を心待ちにしている自分がそこにいるばかりで、それがひどく滑稽に思えた。
”彼”は帝国准将、参謀本部に詰める軍の中枢だ。事実上の傷痍退役で隠遁生活を送っているターニャに構う時間などない。そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、ターニャは胸が詰まるような気分になった。
そして、愚かにも(ターニャはこの行為を極めて愚かだと考えている)ターニャはいま自分の寝室を使っていない。”彼”が使っていた空き部屋の、”彼”が寝ていた折り畳みベッドで眠っているのだ。
”彼”が出発したとき、つまり、”彼”がターニャを優しく抱きしめたとき、その奇妙でくすぐったい感覚がいまのターニャを支えていた。そして、”彼”の匂いが残るベッドで眠ると、まるであの瞬間に戻ったようにすら思えるのだ。
「どうしてしまったんだ、私は……」
ベッドでシーツにくるまりながら、ターニャは小さくため息をついた。頭の中に住んでいる冷静なターニャが、心的外傷からくる依存であるとか、吊り橋効果であるとか、説明をつけようとしていた。しかし、正しい説明をつけられるなら、この感情は解決するはずだ。そうターニャは考えていた。
触れないようにしていた事実が少しずつ迫ってくる。ターニャとは、前世の記憶を持ってはいるが、十三歳の少女なのだという事実が。
狭い家が広くなったように感じるのは、”彼”を前提として生活しているからだ。服薬のチェックシートを記入すると少し嬉しくなるのは、”彼”の言いつけを守ることができたからだ。苦しくなると”彼”の部屋に潜り込むのも、すべて一言で説明がつく。
これまで感情をコストとしか見ていなかった自分がこんな状態になるとは思っていなかったし、本当であれば認めたくないところだが、事実は覆すことができない。
「エーリッヒ」
恋だった。
自分で自分が気持ち悪くすらある。ターニャはかつて男だった記憶を持っており、人格はそこから引き継がれているからだ。しかも、その過去を”彼”に、エーリッヒに知られたくないと怯えてすらいる。
しかし、しかめ面ばかり見てきた彼のぎこちない微笑みを思い出すだけで、足元から這い寄る無力感も、首にまとわりつく希死念慮も、耐えることができた。
悪夢も減った。見ることには見るし、悲鳴を上げて飛び起きることもあるが、毎朝絶望することはなくなった。
ひどく安直な話だが、エーリッヒへの恋心と思い出がターニャの回復を支えつつあった。
そして、多忙なエーリッヒを拘束することへの罪悪感を打ち消す理論武装もターニャの意思とは関係なく頭の中で勝手に進んでいた。回復のために必要であるなら、病人として頼るのは自然なことだ。これは医療行為だ。
だから、ターニャは今夜もエーリッヒのベッドで眠った。こんなことはセレブリャコーフとの文通ではとても書けない。
翌朝、郵便受けを確認したターニャは硬直した。参謀本部から手紙が届いていたのだ。
中身を破かないように手で(まだ刃物を握るのは怖いのでレターナイフも鋏もしまってあった)開封すると、それはゼートゥーアからの連絡だった。エーリッヒは後任に仕事を引き継いで総務部の仕事を終わらせ、それと同時に転居することになったと書かれている。
引っ越し先は、何度確認しても、このデグレチャフ宅だった。
読み終わって、まだ実感がわかないうちに、ターニャは表札をどうすべきか考えながら、スライス済みのライ麦パンを取り出し、バターを塗り、サラミを乗せ、かぶりついた。もちろん味が悪いわけではないが、エーリッヒと一緒に食べる朝食のほうが気分が上がる。
「一緒に食べる朝食。……一緒に食べる……一緒に?」
もう少し待てば、エーリッヒと食卓を囲む日々がやってくる。
ようやく理解したターニャは頬をつねろうとして、自分が腑抜けた笑みを浮かべていることに気づいた。しかし、不快にはならなかった。腑抜けていることも、喜んでいることも事実だ。
食事を済ませ、服薬し、チェックシートに記入して、カーテンを開いた。日差しが心地いいと感じたのは久しぶりだった。