数か月をともにするうちに、最初は些細なことで早鐘を打っていたターニャの心臓もいくらか落ち着いた。いってらっしゃいとおかえりなさいが板についたとも自負している。しかし、自分がいってきますのハグとただいまのハグをねだったのはあまりに愚かであり、それになんの躊躇いもなく応えるエーリッヒもどうかしているとターニャは憤慨する次第だった。
「それでは、行ってくる」
「いってらっしゃい、エーリッヒ」
「ああ」
今日も結局ハグしてしまった。ターニャは自問する。なぜもっと遠慮深くならないのかと。しかし、それが当然であるかのように優しく抱きしめてくれる彼と、その温かさに文句のつけようがあるはずもなかった。そして、そのたびに訪れる胸の高鳴りが嘘であるはずもなかった。
朝食の食器を片付け、軽く掃除をすると、日課になりつつあるストレッチをこなす。すっかり体力は衰え、関節もこわばってしまったが、年齢から言えばこれからが本番であり、これまでがおかしかったのだ。
とはいえ、人は一度高みに上がると転げ落ちた先で満足するのは難しい。元通りとまではいかずとも、生活に不自由しない程度の身体能力はほしい。回復してくるといろいろな欲が出てくるものだ、とターニャは自分に呆れかえった。
諸々の家事を済ませ、セレブリャコーフから届いた手紙への返信を封筒に収め、外出の準備をする。目的は郵便ポストだ。買い物もしたくはあるが、接客に耐えられるかターニャには自信がなかった。
窓の外は雪化粧で染まっている。雪を見ると北方を思い出す。もはやターニャにとって懐かしい記憶ですらある。
「雪化粧、か。化粧……」
化粧の経験など、銀翼突撃勲章を授与されたあとのプロパガンダ映像で塗りたくられた屈辱のほかにない。しかし、いずれは覚えねばならないだろうとも考えていた。
さすがにそろそろ受け入れざるを得なかった。自分は正真正銘、女なのだ。
そして、恐れていた事態がやってきた。自らの性別を自覚したのがきっかけとなったのか、初潮が来たのだ。世の女性がこれほどの苦難を抱えて生きていたとは、想像だにしなかった。ターニャは心の底からセレブリャコーフを尊敬した。
慌てて状況を報告すると、エーリッヒはターニャよりさらに慌てふためき、椅子に足を引っかけて盛大に転び、医者を呼ぼうとまでした。そんな大事ではないと宥めたが、かえって叱られた。健康状態に影響が出る以上、心理的にどのような変化が生じるともわからない、相談はしておくべきだ、と。
幸いにして、この世界は女性の軍人が珍しくないため、生理用品も質、量ともに充実している。セレブリャコーフが箱で送ってくれたものを装着すると、痛みも不快感も解消された。軍の科学力はこんなところにまで及んでいるのかと感嘆するとともに、どこぞのマッドサイエンティストを思い出して微妙な気持ちになった。
今日の手紙にはその装備についての礼も書いてある。彼女の協力がなければ、ターニャは無謀にもキッチンペーパーでしばらくごまかそうとしていただろう。
帰り道、白い世界のなかでなにか色のあるものが見えた気がして目をやると、小さな店のショーウィンドウに女性ものの洋服が飾られていた。戦後、合衆国や連合王国から流れ込んできた流行がここまで及んでいるようだ。
戦時中の帝国で流行していた裾の長い地味な色のワンピースとは違い、ふわりと広がるスカートにはうるさくない程度に華やかな刺繍が施されている。合わせているタイトなシャツはフリル付き。柔らかそうな質感のコートも、帝国にはなかったものだ。
気にならないと言えば嘘になる。
しかし、店に入る勇気が出ず、結局そのまま帰宅した。
本を開いてぼんやりしていると、電話のベルが鳴った。
「はい、デグレチャフです」
「寛いでいるところすまないな、ターニャ。私だ」
「お勤めご苦労様です。何かありましたか?」
電話の向こうにいるエーリッヒは何事かを言いかけては言葉を濁し、どうしたものかと悩んでいるようだった。もしやなにか大きな問題が生じたのではないかと不安がこみ上げてきた矢先、聞き慣れた声がターニャの耳に届いた。
「ああもう、代わってください閣下! お久しぶりです、大佐殿。ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ少佐であります!」
「ッ……」
喉からうまく声が出なかった。
懐かしい顔が頭に浮かんで、自分が忘れられていなかったことを嬉しく感じ、そして挨拶を返したいと思った。手紙のやり取りもあったし、自然に話せると思っていた。
いつぶりだろうか、ターニャの胸にみじめな気持ちがこみ上げてきた。
しかし、ここで折れては、エーリッヒに恥をかかせることになると思った。それだけは絶対に嫌だ。だからターニャはかすかに残ったありったけの勇気を振り絞って、声を上げた。
「相変わらず声が大きいな、少佐」
「ふふ、大佐殿の声は穏やかになられましたね。先日お送りした装備の試験運用はお済みですか?」
「ああ、大事に使わせてもらっている。……ありがとう、少佐」
ありがとう。ようやくこの一言が伝えられた。思い切ってみれば案外話せるもので、ターニャの気分はかなり晴れやかになった。
「いえいえ、本当はレルゲン閣下が気を回すべきところなんですけど……ちょっと、睨まないでください閣下、本当のことじゃないですか」
「上官を笑いの種にするとは……まったく、図太くなったな、セレブリャコーフ少佐」
「根性だけじゃなくておなか周りも少し図太くなりました。後方勤務って体が鈍りますね」
「もう出る前線もくぐる死線もない。喜ばしいことだよ、少佐。……後方勤務といえば、今は勤務時間のはずだが?」
「ご安心ください、先ほど午前の業務を片付けたところです。最近はレルゲン閣下がいきいきとしてらっしゃるので、総務部はみんな気合が入っていて。大佐殿のおかげです」
「は? 私の?」
「大佐殿はレルゲン閣下の活力源なんですよ! そうですよね、閣下?」
ややあって、くぐもった声でエーリッヒが同意するのが聞こえて、ターニャの心臓が跳ね上がった。
ここしばらく、ターニャの脳裏に介護疲れという単語がちらついていた。もし、エーリッヒに耐えきれない負担をかけていたら。そんな不安がひそかにこみ上げて、寝付けない夜もあったほどだ。
だから、この会話が作りものでないのなら、間違いなく喜ばしいことだった。
「――殿、大佐殿、聞こえてますか?」
「ん、ああ、何の話だったか」
「今夜お邪魔してもよろしいかというお伺いの話です」
「それはもちろん……今夜? どこに?」
「ご自宅にです」
あまりに急な話だった。
断ることはできる。セレブリャコーフであれば残念がりはするが、次の機会まで待つだろう。しかし、歓迎したかった。かつての上司として、もしくは、ともに戦ってきた仲間として。
受話器を持つ手の震えを筋力低下による疲労だと己に言い訳して、ターニャははっきりと返事をした。
「土産は期待しているからな、少佐」
「やったー! もちろんです、楽しみにしていてくださいね!」
「ああ、だから午後の業務も励め。彼に代わってくれ」
勇気を出した分の消耗を補給したかった。一時も早くエーリッヒの声を聞かねばならない。
数秒の間ももどかしく思いながら待つと、どこか心配そうな声色が聞こえてきた。
「大丈夫か、ターニャ」
「大丈夫、と答えるとますます心配なさるでしょうね。……緊張しているのは確かです。でも、会いたいのも確かですから」
「そうか。よし、夕食は豪華にしよう。揚げ物はどうだ?」
「それはやめてください、冬に家を失いたくありません」
「……まだ根に持っているのか」
「あと十年は」
数週間前、エーリッヒは初めての揚げ物に挑戦し、危うく小火を起こしかけたのだ。あれほど大きな声で制止したのは、ターニャも久しぶりだった。
少しだけ他愛もない話をして、夕食をセレブリャコーフが担当することが決まって、ターニャは来客に備えて片付けをするからと電話を切った。
エーリッヒ以外と顔を合わせるのは久しぶりだ。緊張、不安、恐怖。いずれも、エーリッヒの声を聞いたおかげで小さく萎んだ。この程度なら今のターニャにも乗り越えられる。
エーリッヒのために新調した姿見と向かい合う。かつての自信に満ちた”銀翼”はいない。狂気的な笑みとともに銃を携える”ラインの悪魔”もいない。髪を伸ばし、飾り気のない部屋着に身を包んだ”ターニャ”だけが見つめ返してくる。
セレブリャコーフの来訪とエーリッヒの帰宅が待ち遠しかった。