【本編完結】幼女戦記 比翼幸福勲章   作:海野波香

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第14話 作戦

 ターニャが曖昧な承諾をするや否や、ヴィーシャはなおも困惑するエーリッヒを追い出してしまった。

 

「いいですか、閣下。聞き耳を立てても覗きをしてもいけませんよ。ここから先は乙女の花園なんですから」

 

 どこの鶴だとツッコミを入れたくなったが、伝わるわけもないのでターニャはぐっとこらえた。

 

「眠くなったら気にせず寝るんだぞ、ターニャ」

「承知しております。今夜はゆっくりお休みになってください」

「なにかあったら呼んでくれ、深夜でも早朝でも。おやすみ、ターニャ」

 

 エーリッヒが自然な流れでいつも通りおやすみのハグをしてくれたので、ターニャは急速に顔が熱くなった。

 ヴィーシャが見ている。かつて戦場を共にした副官の前で、好きな人にハグされて蕩けた顔をしている。

 

「ひ、人前ですよ」

「安眠のおまじないだ」

「いつから帝国は原始宗教に染まったのですか!」

「ほら、ちゃんと返してくれるまで解放しないぞ」

 

 諦めて腕を回すと、頭を優しく撫でられて、そして解放された。

 恥ずかしくて誰の顔も見ることができず、ターニャは俯きながらエーリッヒに就寝の挨拶をした。辱めを受けたような気もするが、取り乱すことではない。愚かにもターニャは自分が多幸感に敗北していることを理解し、それに屈服した。

 エーリッヒが寝室の扉を閉める音が聞こえても、まだしばらくターニャは顔の火照りと心臓の早鐘が収まらず、俯いたまま椅子に上がった。

 

「……吹雪も融かせそうですね」

「いっそ殺せ」

「だめです、ターニャさんには長生きしてもらわないと」

 

 冗談めかしてはいたが、ヴィーシャの言葉は真剣だった。

 経過を知っている者にとっては死を口にするターニャを見れば些細なことでも気が気でないだろう。悪いことを口にしたと思い、謝罪しようとしたが、ヴィーシャは笑顔のまま手でそれを制してきた。

 

「大丈夫です、わかってますから。気心の知れた私だからそういう言葉が出てきたと思えば光栄でもありますし、レルゲン閣下には内緒ということにしておきますね」

「ああ……ありがとう。ハーブティーは好きか?」

「普段は飲みませんが、夜にはいいですね。いただきます」

 

 ポットをヴィーシャのほうに押しやって、ターニャは少しぬるくなったハーブティーを口にした。

 会ってみれば、思っていたより自然体で話せるものだ。ヴィーシャの来訪がターニャに小さな勇気を与えてくれた。

 

「その、申し上げてよいものか悩んだのですが」

「言ってみろ」

「ペン、いただけるならとても嬉しいです」

 

 ヴィーシャが盗み聞きをするような人間でないことはターニャもよく理解している。そんなに大きい声で話していただろうか。思い返せば、エーリッヒはターニャが水を飲んで咳き込んでいるのを聞き取ってターニャを助けた。静かなリビングルームでの会話くらいは聞こえるかもしれない。二人暮らしでは気づけないことだった。

 

「しかし、選びに行くにも……」

「ターニャさんは、リハビリテーションという考え方をご存知ですか?」

「ああ、まあ、知ってはいる」

 

 極めて新しそうな言葉がヴィーシャの口から聞こえたことにターニャは少しだけ驚いた。語源はラテン語であるはずだし、医療現場で使われていてもおかしくはないが、この世界で耳にするのは初めてだ。

 リハビリテーション、つまりリハビリ。ターニャも考えないわけではない。エーリッヒの負担を減らすことができる程度には社会的動物としての人間に復帰したいと思う。

 しかし、可能なのだろうか。また逆戻りするのではないかという不安と、失敗して迷惑をかけるのではないかという怯えが、扉に閂をかけていた。

 

「もちろん、お医者様とご相談の上、ゆっくり進めるべきだと思います。治療に焦りは禁物ですから」

「同感だ」

「でも、最初の一歩を踏み出すきっかけはもうお持ちですよね」

「まあ、ペンを見に行くというのは確かに――」

「そうではなく。レルゲン閣下とデート、したいのでは?」

 

 デート。逢引。ランデブー。

 頭の中に住み着いている冷静なターニャが久しぶりに出しゃばってきて、ランデブーの語義は待ち合わせであってこのグループには適さないと指摘するが、それは重要ではない。

 この指摘は、ターニャがいかなる感情をエーリッヒに向けているか、ばれていることを意味している。

 

「なぜそれを……情報部か? それとも盗聴?」

「いや、見ればわかります。むしろばれないと思ってらっしゃったんですか、見せつけられているのかとばかり……」

 

 床を転げまわって悲鳴を上げたいくらいの恥ずかしさだったが、そんなことをすればエーリッヒを起こしてしまう。ターニャはこれまで培ってきた能力を総動員してこらえにこらえた。

 しかし、これは好機でもある。はじめて己の恋路を相談する相手ができたのだ。

 

「……私とデートなどしても、彼は楽しくなかろうよ」

「そんなことないと思いますよ? レルゲン閣下はターニャさんのことを大切にしてらっしゃいますし」

「そう、大切にしてくれている。だからこそ、私と買い物に行くのはデートではない。子守りだ」

 

 エーリッヒに子どもだと思われているかもしれない。それがターニャにとって一番の懸念事項であり、払拭できない不安であり、苦悩の種だ。

 ターニャは子どもである、この命題は真だ。もうすぐ終わる冬を越え、春が過ぎ去れば、ターニャは十四歳になる。十四歳はターニャから見ても子どもだ。

 もちろん、エーリッヒに大人の女性として見てもらいたいという気持ちはある。しかし、大人として見てほしいなどとせがむのは子どもそのものだ。

 

「レルゲン閣下はターニャさんのことを子どもとは思っていないと思いますよ」

「なぜそう言える」

「お風呂の話、すごく悔やんでました。思いっきりビンタして差し上げたんですが、貴官に叩かれても罪を償ったことにはならないってどんよりした声で仰ってましたよ。でもどうしたらいいかわからなくて、女性で副官だった貴官にだけ相談したんだ、と」

 

 様々なショックがターニャを襲って、思考が停止した。

 あの件でエーリッヒを苦悩させたのは間違いない。そして、一人で解決できないなら誰かに相談するよりほかなく、適任がヴィーシャしかいないのもわかる。しかし、かすかにみじめさが首をもたげる音がする。それとは別にヴィーシャが上官をビンタする軍人になってしまったことへの驚きもある。

 言われてみれば、最初の二か月よりも引っ越してきてからのほうが丁寧な気遣いになったように思う。最初の二か月はどちらかというとおっかなびっくり甘やかすような空気を感じたが、引っ越してきてからはターニャの意見を尊重したうえでできることをしてくれているのだ。

 しかし、だとすれば、引っかかるところもある。

 

「その、あれだ、ハグは完全な子ども扱いだろう。父親が娘にするそれだ」

「ターニャさんはデレデレでしたけど。私の前なのに胸元に顔をうずめて」

「う、うるさいぞ。……してくれるのは私が求めたからだ」

 

 幸福感と悲壮感がない交ぜになる。薬も症状もあって、昔ほど頭の回転がよくない。処理能力の不足で思考回路が焼け付きそうだった。

 

「うーん……レルゲン閣下、総務部を離れはしましたが、今も職員と付き合いはあって。ちょっとした話題になってるんです。引っ越して恋人と同棲してるって。もちろん、ターニャさんのことはばれていません。ゼートゥーア閣下が動いているので、情報部ではゼートゥーア閣下のお孫さんではないかなんて噂も」

「……それで」

「レルゲン閣下、否定なさらないんです。自覚してらっしゃるのかはわかりませんが」

「私の耳に入ったら傷つくとか、そんな理由ではないのか」

 

 自分がネガティブに振り切っているのはターニャも自覚している。しかし、勝手に期待して勝手に裏切られるなんて馬鹿な真似はしたくない。渡る勇気があるかはさておき、石橋は叩いて叩きすぎることはないのだ。

 

「よく、よーく考えてくださいね、ターニャさん。レルゲン閣下は帝国貴族です。終戦した今、他国も含め社交界ではとても評判なんです。その人との婚姻は政治的に価値がありますよね? するかしないかはともかく、他国の有力者を引き付けるカードにはなります。じゃあ、なんで恋人の噂を否定しないんですか?」

「それは……いまがカードの切り時でないからだろう」

「皇帝陛下にお目通りまでして政略結婚を断ってるのに?」

 

 今度こそターニャは硬直した。

 皇帝陛下。つまり、帝国の最高権力。王の王。その頂点に、拝謁してまで見合いを断った。何が起きているのかさっぱりだった。

 

「詳しく聞かせろ、すべての経緯を」

「終戦を決定したのが陛下の勅だったんです。そして和平工作の功で参謀本部の上層は謁見が許されました。ゼートゥーア閣下、ルーデルドルフ閣下、そしてレルゲン閣下。ゼートゥーア閣下が何を望まれたかはわかりませんが、ルーデルドルフ閣下は勇退を許され、レルゲン閣下は……」

 

 ヴィーシャは言葉を切って、悪戯な笑みを浮かべた。

 

「レルゲン閣下は、恋愛結婚のために政略から外れることのお許しをいただいたんです。副官として宮内尚書と一緒にその場に立ち会いましたから間違いありません」

 

 もうターニャの脳は限界だった。すっかり冷めたハーブティーを無意識に飲み干し、そこでようやく呼吸の感覚が戻ってくると、今度は一気に血流が燃え上がった。

 

「ターニャさんが口にした通り、子どもというのは大きなハンデです。若手とはいえレルゲン閣下も経歴分の年齢は重ねてらっしゃいますし、公表すれば口さがない連中も湧くでしょう。だから、レルゲン閣下も考えないようにしているんだと思います。もしくは、十分な年齢になるのを待っているのかも」

 

 光源氏計画。もはや記憶とも呼べない前世の断片的な高等教育の情報が朧げに浮かんだ。

 すべては憶測でしかない。しかし、ここまで聞いてしまえば、心は動き始めてしまう。

 

「待てますか?」

「……無理だ」

「デート、したいですか?」

「……したい」

「じゃあ、どうしますか?」

 

 冷静なターニャと燃え上がるターニャがせめぎあい、ターニャの頭をはちきれそうなほど稼働させ、そして答えを出した。

 

「早急に作戦が必要だ。立案に付き合ってくれるか、ヴィーシャ」

「喜んでお供します、ターニャさん」

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