診察室から出てきたターニャの顔色が明るかったので、エーリッヒは安堵とともに嬉しさを覚えた。いい傾向だろう。三食しっかり食べられるようになり、ふらつくこともだいぶ減った。骨の浮いていた体も華奢ながら年相応とは言える基準を満たしていたし、改めて見れば身長が伸びたようにも見える。
穏やかな表情で長く伸びた艶のある金糸を靡かせる様は、帝都の社交界で花を咲かせる令嬢たちに決して劣らない。それどころか、エーリッヒにはターニャのほうがよっぽど素敵に思えていた。
「お待たせしました」
「お疲れ様だ、ターニャ。先生はなんと」
「順調に回復しているため、薬の量を減らしてみよう、と」
「それはいい報せだな」
「はい。それと、次の段階に進んでよい、と」
次の段階、と反復すると、ターニャは頷いた。
「少しずつ、人目に触れる場所に出て慣らしていくのがよいようです」
「それは……そうか、そうか!」
「ええ。明日は駅までお見送りしますね」
エーリッヒは嬉しさのあまり手を伸ばして抱き上げようとしたが、それは子ども扱いしていることになるのではと思い、躊躇して手を止めた。せっかく朗らかな笑顔を見せてくれているのに、それを曇らせるようなことはしたくなかった。
そんなエーリッヒを見て、ターニャは首を傾げたあと、目を泳がせながらもエーリッヒに抱きついてきた。
エーリッヒの記憶が確かならば、ターニャが自らエーリッヒに抱きついたのは初めてだ。信頼されていることへの嬉しさを込めて、改めてエーリッヒは彼女を抱き上げた。
ひゃ、と可愛らしい声を上げて、慌てて口を押えるターニャは完全に年相応の少女だ。この素敵な人物から好意を向けられているのは、喜ばしくも心苦しい。
エーリッヒとて馬鹿ではない。彼女の好意には気づいている。最初は支えを失ったターニャの助けになるならば、家族のないターニャが愛着を示す相手となれるならばと思っていた。しかし、それが恋慕であると気づいてしまった。
問題は、エーリッヒもまた自分の内側に何か、親しみを超えたものを見つけてしまったことだ。それは日に日に膨れ上がり、エーリッヒの思考を圧迫しつつある。
「明日が楽しみだ」
またこうして微笑み、彼女を期待させてしまっている。あるいは、エーリッヒ自身が何かを期待してすらいる。
保護者としての役割だと自分に言い聞かせてはいたが、春めいて蕾も膨らみ始めた道をターニャと二人で手を繋ぎながら歩くことに、エーリッヒは間違いなく幸せを感じていた。
愚かなことだと自分でもわかっていた。年齢差は覆せない。ゼートゥーアの妻が苦しんだように、ターニャを苦しませることになるのかもしれないと思うと、感じたことのない痛みに襲われる。
それに、罪悪感もあった。これでは弱っているターニャにつけこんだようなものではないか。あまりに不誠実で、あまりにも邪悪だ。
自分が浮かれているのも間違いない。この関係が持続するかもわからないのに、皇帝の前で恋愛結婚のために政略から逃れることを望み、それを許されて歓喜したのだ。
エーリッヒは自分で自分がわからなくなりつつあった。ターニャに誠実であり続けながら彼女を傷つけず自らの希望を満たす、そんな夢のような話を妄想している。
「……エーリッヒ。あの、相談が」
「どうした?」
「もし、順調に社会へと復帰できたら……帝都で一緒に過ごす日を作っていただけませんか?」
わかる。不安と期待が織り交ぜられたこの声色がはっきりと伝えてくれる。彼女は逢引を求めているのだ。
応えてよいのだろうか。エーリッヒには正しさがわからなかった。
道の小石に躓いて転びそうになったターニャを抱き留める。柔らかな笑顔で小さく感謝を述べる彼女に、エーリッヒへの疑念など微塵も感じない。
あまりに純粋無垢な信頼が、エーリッヒを悩ませていた。
「……もちろん、お仕事が第一優先ですし、エーリッヒは立場のあるお方です。だから、これはただのわがままです。子どもの駄々でもあります」
断る口実まで用意したつもりなのだろう。声の震えが隠しきれていないが、彼女の努力は確かににじみ出ていた。
間違っているのかもしれないと思いながら、それでも、彼女の望みを、そして己の望みを叶える言葉を口にしてしまう。
「明日、近いうちに休暇を取る予定があるとゼートゥーア閣下にお伝えしておく」
「あ、ありがとうございます! ……楽しみです、とても」
私もだ、と小さく返事をしながらも、胸が痛んだ。
二人で朝食を食べ、二人で食器を片付け、服薬を確認する。ここまではいつも通りだ。
朝からターニャが外出用の服に着替えているのが新鮮で、暇さえあれば彼女に視線が向いている自分がいる。きっと気味が悪いだろうと視線を外す努力をするが、あまり機能していない。
姿見の前で帽子の位置を調整していたターニャが小さく首を傾げた。
「変、でしょうか」
「そんなことはないさ。よく似合っている」
実際、よく似合っていた。金髪に白い帽子がよく映える。清潔なシャツに薄手のカーディガン、落ち着いた雰囲気のスカート。革靴は軍大学時代に履いていたものらしく、少しサイズが小さくなってきたらしい。
今後、都心部まで出ることができるようになれば、服も靴も新調できる。
「新しい服がほしいか?」
「思ったことがないわけではありません。ただ、軍服以外を知らなかったものですから、自分で服を選ぶことができるかどうか、自信がないのが正直なところです」
「今日の装いは素人目にもいいものだとわかるが」
「ヴィーシャに教わりました」
先日の”お泊り会”から、ターニャは少し雰囲気が変わった。
何事においてもやや積極性が増し、特に思ったことを自分から伝える努力を感じる。自分ではできなかったことをあの副官が一晩でこなしたのかと思うと、エーリッヒは少しだけ情けなくなった。
とはいえ、喜ばしい傾向ではある。昔とは違った意味でターニャの考えは読みづらい部分がある。エーリッヒはこれまで仕事一筋だった。女性慣れしていないのだ。だから、わかりやすいほうが接しやすくはある。加えて、ターニャからの好意がより明確になったのも、苦しいと思いつつ嬉しく思ってしまう。
「君さえよければ、帝都で過ごす日に服も新調するのはどうか」
「それは……よろしいのですか? 女性の服選びに付き合うなど、殿方には退屈でしかないと思いますが」
「私を退屈させない素敵なファッションショーにしてくれ。さ、そろそろ出よう」
通院以外で二人そろって家を出るのは初めてかもしれなかった。エーリッヒは左手に鞄を持ち、右手をターニャと繋いでいる。駅までターニャの足では三十分。時間に余裕はある。
「すっかり暖かくなりましたね。数週間前までは雪も残っていたのに」
「春だな。これが過ぎ去れば夏で、君は十四歳だ」
「先は長いですね、気が遠くなるほどに」
含みのある言い方だった。エーリッヒの自意識過剰でなければ、ターニャは大人になるまで、そして結婚適齢期になるまでの話をしている。
うまい返事が思いつかず、エーリッヒは話題を変えることにした。
「こうして並んで歩くとわかるのだが、背が伸びたのではないか?」
「本当ですか!」
「そのように思う。今夜、柱で背を測ってやろう」
ターニャは嬉しそうに頷いた。
駅に着くと、列車を待つ乗客は数人しかいなかったが、それでもターニャの手には力がこもっていた。握り返すと、自覚したのか、こわばった表情が少しほぐれた。それでも手は離さなかった。
ベンチに座る老婆から微笑ましげな視線を向けられているのに気づいて、エーリッヒは会釈をした。
「ターニャ、あちらのご婦人に手を振ってみなさい」
「は、はい」
体を硬直寸前まで固めながら、ターニャは老婆に小さく手を振った。老婆は皺の深い顔に浮かべた笑みを濃くして、手を振り返してくれた。
ターニャは安心したのか、それとも疲労が出たのか、繋いだ手から少し力が抜けていた。
煙と騒音を引き連れて汽車がやってくると、まだ少し硬くはあったが、ターニャは笑顔でエーリッヒを見上げた。
「お見送り、できました」
「ああ、ありがとう。よく頑張ってくれた。仕事がはかどるな」
「どうかご無理なさらぬよう。……その、いってきますの挨拶は、ここでもしてくださるのでしょうか」
エーリッヒは一瞬面食らった。乗客も見ている駅で抱き合うのは恥ずかしいのではないかと思っていたからだ。
しかし、彼女の勇気と努力に応えるためにも、日々の習慣を持続することに決めた。
膝をつき、ターニャの肩に腕を回し、後頭部にそっと手を添える。大事に、しかし少しだけ強めに。ターニャは壊れ物を扱うようにされるより、気持ちを体感するほうを好むとエーリッヒは日々の生活で学んだ。
「行ってくる、ターニャ」
「行ってらっしゃい、エーリッヒ」
春の日差しに照らされたターニャはぬくもりに満ちていて、ずっと抱きしめていたくなった。
発車ベルに急かされて、名残惜しさを感じながらも客車に乗る。車内で髭面の男がにやつきながらエーリッヒに声をかけた。
「朝からお熱いね、軍人さん。素敵な彼女さんじゃねえか」
「そう見えますか」
「おうさ。親子かとも思ったが、目を見りゃわかる。うちのかかあも若いころは……っと、おっさんと話してる暇あったら手え振ってやんな」
エーリッヒが窓から手を振ると、ターニャは少し照れを見せながらも、手を振り返してくれた。
「いい彼女さんじゃねえか、あんたみてえな色男にはぴったりだ」
「恐縮です」
「……軍人さん、気持ちを伝えんなら早めにしときな。周りの目なんざ気にするもんじゃねえぜ」
駅が遠くなってターニャが見えなくなったところで、髭面の男は声色を変えた。表情は相変わらずにやけていたが、態度は真剣だった。
適当を言っているとも思えない。あまりに的確だからだ。
「あの子が可愛くてしょうがない、彼女だって見られんのも嬉しい、だが俺の彼女だっつって頷くにはつっかえるもんがある。そうだろ? 声と目でわかる」
「……貴様、何者だ」
もしやターニャを狙って来たなんらかの刺客か。エーリッヒは念のため銃を抜く覚悟をした。とはいえ、男から悪意は感じないし、口にするのは助言のそれだ。
正体がわからない、ただそれだけが不気味だった。
「いいか、軍人さん。いや、レルゲン准将閣下。世間体もなんも気にするもんじゃねえやな。惚れた晴れたってのは当人同士の話だ、よそ様が首い突っ込むってんなら片っ端から切り落としてやりゃあいい。閣下にゃあ心強い味方が山ほどいるだろうが、ええ?」
男が懐に手を入れたので身構えたが、彼が取り出したのは板チョコだった。彼は豪快にかぶりついて、ちぇ、融けてやがらあと指をジャケットで拭った。
「いいか、好きあってんなら添い遂げろ。んでもって二人で幸せになるために持ってるカードはなんもかんも使い倒せ。……悪いね閣下、あの方にゃあ俺も小さくねえ借りがあるってもんだから、熱くなっちまった。俺がもっと早く駆けつけてりゃあ、あの方は撃たれずに済んだんだ」
ようやくこの男の正体がわかった。エーリッヒは過去にこの男と顔を合わせている。ターニャが人事部で仕事をしていたとき、襲撃犯を取り押さえた軍人だ。面接の順番を待っているときに銃声を耳にして突入し、犯人確保の功を認められたものの、自ら辞去したと耳にしていた。
「心配すんな。俺あもう軍の人間と繋がりはねえし、ただの工場作業員さ。元軍人の名誉にかけて、吹聴はしねえ。その代わり、あんたはあの方と幸せになれ。あんたが他の女と結婚したなんて知ったら、俺あ全力で言いふらすぜ。……っと、そろそろか。ここらへんで。セレブリャコーフの嬢ちゃんによろしくな!」
男は降りていった。
エーリッヒの思考は渦巻いていた。しかし、少しだけ、流れが変わったようにも思えた。