セレブリャコーフ少佐の狂暴化はとどまることを知らない、そうエーリッヒは確信した。准将をどつきまわす少佐は古今東西彼女くらいしかいないだろう。ルーデルドルフに目撃されたら大変なことになる。おそらく、ヴィーシャではなく、エーリッヒが。
「前任の憲兵総監に見られるなんて! 閣下は大馬鹿者です、昔のターニャさんだったらこんなもんじゃ済ませませんでしたよ!」
「わかっている! 少佐、私の左腕はそちらには曲がらないんだ!」
「職務においては右手と頭が残っていれば結構です」
「いたた……まったく、昔のターニャが乗り移ったのではないか?」
「ターニャ・フォン・デグレチャフはいまだ健在なり。閣下が流布なさったんでしょうに」
エーリッヒがずれた眼鏡を直して椅子に腰かけると、ヴィーシャは大きくため息をついた。
「なんでターニャさんはこの人に惚れてるんだろう……」
「そ、そんなに責めなくてもよいだろう。私は貴官の上司だぞ」
「プライベートの人間関係に軍規が介入するとでもお思いですか?」
「それはそうだが……」
ヴィーシャは器用にエーリッヒ宛ての書類を目的ごとに分別しながら、憤懣やるかたないという様子でなおも説教を続けた。
「いいですか、私は本気で怒ってるんです。閣下は己の名誉にかけてターニャさんの助けになると宣誓されました。そして、私はターニャさんをよろしくお願いしますとお伝えして、それに了解なさっていましたよね。しかも、皇帝陛下からお許しまでもらって! どの! どの口が! 言い訳をするんですか!」
「言い訳ではない! 年齢差は必ず彼女を苦しめる。それに……弱っているときに助けとなったのが私だった、それだけの話だろう」
帝国軍人であるエーリッヒが反応できない速さの衝撃と痛みで、エーリッヒは自分が頭を引っぱたかれたとわかった。
「本当はビンタして差し上げたいんですが、ターニャさんに心配をかけたくないので見えないところを選びました。感謝してくださいね。……弱っているときに助けとなった、それだけの話? 歴史的大馬鹿者! 命を救ってくれた人を愛する、それの何が悪いんですか!」
「弱みにつけ込んだようなもので――」
もう一発食らった。
「勝手な罪悪感で人の好意を踏みにじるなら、一生誰も助けないで生きればよかったじゃないですか!」
「ッ……」
あの温和で柔和で楽天的なヴィクトーリヤ・セレブリャコーフ少佐からこれほどまでに辛辣な言葉が飛んでくることに驚きつつも、そのすべてがエーリッヒの胸を穿っていた。
年齢差も、罪悪感も、結局はエーリッヒが独りよがりに抱えている杞憂なのだ。だのに、エーリッヒは正しさを探して、そこにたどり着きつつあった。
「ターニャさんは、確かに深い傷を負って苦しんでらっしゃいました。今もまだお辛いのでしょう。でも、あの方は弱くありません」
「ゼートゥーア閣下が語ってくださった話を忘れたのか」
「レルゲン閣下は歴史に学ぶことができる程度には賢明な方だと思っていました。ご自分でお守りになればいいじゃありませんか。周りにも協力を仰いで。少なくとも、私は全力でお手伝いしますよ。ターニャさんのために」
目から鱗が落ちる思いだった。
あまりにも馬鹿げた話だが、エーリッヒは自分がどうにかするという考えを忘れていた。いかにしてターニャが傷つかない状況にするかは考えていたし、いかにして自分がターニャを傷つけないようにするかも考えていたが、自分が何かしらの改善に尽力することを失念していたのだ。
そして、その無力で愚かなエーリッヒは、味方がいることも気づいていなかった。
言い訳をするなら、これは兵を動かす参謀の職業病だ。もちろん、常に後方の味方はいるし、連携もとる。しかし、前線で働く者のために力を尽くすのが役目であって、自ら銃を取ることはすべきでない。誰かに背中を預けた経験もほとんどないし、なんなら味方を味方として見たこともほとんどない。
エーリッヒはルーデルドルフの言葉を思い出した。己の世界の偏り。
「今朝の時点で閣下の確認と決済印が必要だと上がってきた書類はこれですべてです。片付いたら、作戦会議ですからね。私は今から総務次長に部長の補佐を任せて、ゼートゥーア閣下にお時間をいただけるか伺ってきますから」
ひどく情けない気分で、エーリッヒは謝罪の言葉を口にしようとした。
「セレブリャコーフ少佐、その」
「閣下に謝り癖があることはターニャさんから手紙で聞いていますが、謝る相手は心得てくださいね」
「……ああ、もちろんだ」
ヴィーシャは頷くと、エーリッヒの執務室を後にした。
現実逃避気味にヴィーシャの成長を考える。ターニャの副官時代にこれほど苛烈な人物だったとは思えないし、総務部での副官としての働きも有能ではあったが攻撃的ではなかった。
きっと、ヴィーシャは心の底からターニャを大事に思っているのだろう。英雄、上司、そんな役柄としてではなく、ターニャという人物を。
覚悟が足りなかった。エーリッヒは決済印を捺しながら、深く強く後悔した。そして、改めて、ターニャに誠実であろうと誓った。
ゼートゥーアが腹を抱えて大笑いしているのは初めて見た。この男がここまで強く感情を表現することがあるとは。エーリッヒが困惑していると、ゼートゥーアは目頭を拭いながらエーリッヒに向きなおった。
「いやあ、傑作傑作。セレブリャコーフ少佐が帝国史の教科書に載る際はこのエピソードは外せんだろうな。かつての上司を幸せにしろと今の上司を殴りつけ、その愚痴を軍のトップに垂れる。ことデグレチャフ大佐がらみの話では、セレブリャコーフ少佐が軍を動かしていると言ってもいい」
「小官の不徳の致すところであります……」
「うむ、存分に反省したまえ。妻の話をしたのは貴官に逃げる言い訳を与えるためではないことをよく理解するように。……それで、いつ求婚するのだね」
口調は真面目ぶっていたが、ゼートゥーアは確実にエーリッヒをからかっていた。ここしばらく情報部を中心に広まりはじめた”鉄壁のゼートゥーア”の二つ名を背負う男とは思えない。婿をおちょくる舅のようだ。いや、むしろ宴席でしか会わない親類か。
しかし、彼の言葉が正しいこともエーリッヒは理解していた。一つ屋根の下で暮らしている、おそらく好きあっている、覚悟もできた。
「――恐れながら申し上げます、閣下」
「うむ、聞かせてくれセレブリャコーフ少佐。こと恋愛においては我々男二人よりも貴官のほうが優秀と見た」
「恐縮です。おそらく、求婚はまだ早いかと」
ヴィーシャの言葉にエーリッヒはかすかな不安を覚えた。もしや、ターニャにふさわしいか己が見極めると言い出すのではないか、と。
しかし、ヴィーシャの意見は至極真っ当に思えるものだった。
「あの方はすぐに結婚するより、ちゃんと恋人として付き合いたいと思ってらっしゃるのではないでしょうか。楽しめる、意味のあるステップを飛ばすことをよしとはしないでしょうから」
「なるほど。だそうだ、レルゲン准将。時代は変わったものだ。ルーデルドルフが恋人と密会するたびにどれだけ私が隠蔽工作で奔走したか。今からでも請求書を出そうかと思うくらいだ」
その後、本来の職務についていくつか確認をし、短い会議が終わった。
退室の間際、エーリッヒはゼートゥーアに呼び止められた。
「これは命令ではないが、デグレチャフ大佐の幸福が成ることを私も願っている」
「は、身命を賭してあたります」
「それではいかん」
「不足でありましょうか」
「過剰なのだ。心意気は十分だが、貴官が幸せでなければデグレチャフ大佐は幸せでない。わかるな? 手を抜けと言っているのではないぞ」
「……ご高配に心より感謝いたします。身に余る光栄です」
ゼートゥーアの表情はひどく穏やかだった。日向ぼっこをする老人を思わせた。あるいは、戦争という日陰から日向に帰ってきたのだろうか。
「妻が他界した後、一人になった私に養子を取らないかという話があった。後継者の育成だ。利発で礼儀正しい青年だった。断らざるを得なかった。受ければ彼を大切にしてしまう。年の離れた友人として文通を続けた。貴官より少し年下だったな。前線で兵站を担当していたが、砲撃を受けた。……故人に重ねて見られるのは不快か、准将」
「いえ、そんなことは」
「ないか。貴官は人情家だな。それなら、いずれ私に初孫を抱かせてくれることを楽しみにするとしよう。まだしばらくはこの椅子で努めねばなるまい」
奇妙な気持ちになりながら、レルゲンはゼートゥーアの執務室を辞去した。ゼートゥーアに信頼されているのだろうか。ゼートゥーアが多弁になったのはルーデルドルフが軍を去ったからだろうか。ターニャは今の彼を見てどう思うだろうか。