二人の関係に大きな変化が生じたかというと、そういうわけではなかった。出勤の見送りと出迎えの際に軽いキスをする習慣が加わったことと、眠れない夜にターニャがエーリッヒのベッドに潜り込むようになったことを除けば、大方今まで通りだった。
ターニャも恋人生活を楽しみたくはあったが、世の恋人が何をするかなどという知識は持ち合わせていない。
「それで、私を頼ったと」
「そうだ、ヴィーシャ。有能な貴官なら、なにかいい知恵を持っているだろう」
非番と聞いて呼びつけたヴィーシャは泊まりの用意を済ませて飛んできた。ここしばらくの報告をすると、にこにこしたりうんざりしたり、表情筋が忙しそうだった。その豊かさを自分とエーリッヒに分けてもらいたいほどだ。
「うーん、まあ、いいですけど……そうだ、条件が」
「何でも言ってくれ」
「呼び捨てにしていいですか?」
「は?」
「恋に悩む可愛い乙女仲間です、親しみを込めてターニャとお呼びさせていただきます。あ、もちろんここは軍ではありませんから、貴官ではなくあなたとか、お前とか、君とか、お好きなように」
奇妙な注文だったが、それくらいなら安いものだった。
「まあ、好きにしろ。それで、ヴィーシャ。君が思う恋人関係とはどういうものだ? 忌憚なき意見を聞かせてほしい」
「では遠慮なく。もう十分恋人関係というか、見ていて胸やけするレベルの熱々ぶりです」
「恋人になる前とほとんど変わらんのにか?」
「恋人になる前からイチャイチャしてらしたわけですから、当たり前かと。外出中はほとんどずっと手を繋いで、一日に三回も抱きしめあって、一緒に料理して一緒に食事して一緒に……」
「あーもういい、いかに自分が恥ずかしいことをしていたかよくわかった」
なるほど、恋は盲目。
「そこにほとんど毎日駅前でキスまでして」
「わかったと言っているだろう! まったく、貴官……じゃない、君はずいぶんと遠慮がなくなったな」
「もちろん、ターニャのことは尊敬していますよ? でも、乙女街道では私が先任ですから!」
ターニャは頭を抱えてため息をついた。追い出さないと今日は一日この調子だろう。しかし、呼びつけた以上帰らせるわけにもいかない。
ターニャはヴィーシャが手土産に持ってきたブラウニーを一切れつまんで、思った以上の濃厚さに慌てて牛乳を飲んだ。おいしくはあるが、強い。ヴィーシャと同じだ。
「それで、婚前交渉はもうお済みですか?」
ターニャは盛大に牛乳を噴き出した。
「わっ、大丈夫ですか? ハンカチです、どうぞ」
「ああ、ありがとう……じゃない!」
「すごい、いまどきイルドア人でもそんなノリツッコミしませんよ」
「この……」
顔を拭いたハンカチでそのまま机の牛乳も拭き取って突き返すと、ヴィーシャは微妙な笑いを浮かべながらそれを受け取った。
「ターニャは本当に穏和さを獲得されましたね。昔だったら私はもう死んでいたのでは?」
「……君が死ねば帝国が困る。それだけだ」
「そうですね、ターニャのおかげで仕事は休暇をもらえるくらい順調です、ありがとうございます。それで、婚前交渉はもうしたんですか?」
「続けるのか、その話を」
女子会というものはこんなに明け透けに性の話をするのか、とターニャは恐怖した。もう顔も覚えていないが、前世で女子会のためにおいしくておしゃれなお店を探していると頼ってきた事務員がいたような気がする。彼女たちもこんな話をしていたのだろうか。素直に怖い。
「実際のところ、結婚するまでそういう行為はしないという建前は残っていますが、先の大戦で完全に有名無実となったようにも思います。だって、出立する兵士が恋人だったら、帰ってくるかもわからないのにそんな建前に従うわけがないですよ」
「まあ、それはそうだが、今は平時だろう。というか、まだ昼食も食べていないのにこんな話をするのか」
食後よりいいじゃないですか、と嘯くヴィーシャがあの第二〇三航空魔導大隊の副官だったなど、到底想像もつかない。
激動の時代にしたってもっとまともな変化を期待していただけに、ターニャはひどく脱力した。変化というより、変だ。
「食事と言えば、駅から来る途中おいしそうな匂いがして」
「ああ、そういえばあのあたりに食堂があったな。この辺鄙な土地で、よく商売が成立するものだ」
「経験上、ああいうお店って地元の人に愛されているから続くんですよ。つまり、おいしいんです」
「……それで?」
だいたい予想はついていたが、続きを促した。
「食べに行きましょう! ターニャの奢りで!」
「行かないし奢らない。……飯時の食堂など、混みあっているに決まっているだろう」
朝の駅から一人で帰るのも、夕方の駅まで一人で迎えに行くのも、もう十分慣れてきた。毎日のようにベンチで日向ぼっこしている老婆とも挨拶を交わすくらいにはなった。しかし、まだその段階だ。
食事客の雑然とした会話と一瞬飛んでくる好奇の視線、それらを無視して席につき、声を張り上げて注文を伝え、人目を気にせず食事しなければならない。越えるべきハードルの多さにめまいがする。
「そろそろ閣下からデートのお誘いが来そうだと思いますけど、対策はお済みですか?」
「……それは、確かに十分とは言えない。しかし、無理をすれば彼に迷惑がかかる」
「それはもちろんです。だから、今であれば私と一緒に食堂で練習できますよ」
魅力的な提案ではあった。
ターニャも考えてはいる。帝都で一緒に過ごす時間を楽しいものにしたい。そのためには人ごみや接客に慣れる必要がある。それに、はぐれた場合自分で行動しなくてはならない。ただ待つだけの女にはなりたくなかった。
悩みに悩み、唸りに唸って、ようやく決意が成立。
「その……頼ってもいいのか?」
「ああ、これはレルゲン閣下が撃墜されるわけだ……」
「ヴィーシャ?」
「お任せください。ヴィーシャはずっとあなたの副官で、乙女街道の先輩ですから!」
促されるままに外出の準備をしていると、乙女街道の先輩様からご指摘が入った。
「白いシャツがお好きなんですか?」
「ああ、まあ、清潔感があるからな」
エーリッヒに着替えさせられたあの日を思い出すたびに、清潔を徹底しようと誓った。その結果が同じサイズの白いシャツばかり並んだ衣装棚だ。
前世の記憶が正しければ、世に天才と呼ばれる成功者の中には同じ服をいくつも買って悩むコストをカットしている者がいた。ターニャは服を選ぶセンスがないことの言い訳にこの記憶を使っていた。
「戦時中、休暇はどのような格好で過ごしてらしたのか、伺っても?」
「常に軍服だったな。いや、寝ているときはちゃんとパジャマだった」
「パジャマと軍服以外です」
「……入浴時は裸だ」
「つまり、私服はお持ちでなかった」
これは磨きがいがあります、と呟いたヴィーシャが妙に怖くて、ターニャは後ずさりした。
「大衆食堂は狭いので、気を付けないと普通のレストランより汚れやすいんです。それに、緊張すると食べこぼしがあるかもしれませんし、できれば汚れの目立たない服を選びたかったんですが……」
「だ、大丈夫だ、気を付ければよいのだろう」
「これはリハビリテーションでもありますから、考えることはできるだけ減らしたいんです。紙エプロンがありそうな店構えでもなかったし、持参したほうがいいかな。用意してくるので、狭い空間での活動を前提とした装備を選んでいてください」
状況が変われど、ヴィーシャが有能なことは間違いなかった。
今回の食事には適していないらしい白のシャツを着る。最近、少し胸がきつい気がして、成長期を予期せずに何枚も同じ服を買った昔の自分が少し恨めしかった。
心なしか大きくなった胸に手を当てる。エーリッヒは大きいほうが好きなのだろうか。
婚前交渉。
考えが急速に不健全な方向に進んでいることに気づいて、ターニャは慌ててシャツのボタンを閉めた。耳まで真っ赤になっているであろうことは顔の熱さで容易に分かった。
汚れが目立たない色と指定されていたが、迷彩やベージュというわけにもいかないだろう。そもそもそんな色の服は持っていない。悩んだ末、紺のスカートを選んだ。スカートにも色々種類があるらしいが、ターニャはその名称を知らない。
「白のシャツに、紺のスカートか。靴下とローファーを合わせれば女学生だな……何を言っているんだ、私は」
馬鹿げていると思いながらも黒の靴下を履いた。鏡台の前でくるりと回ると、なかなか悪くないように思える。髪はまとめたほうがいいだろうか。
「わあ、可愛い! 似合ってますよ、ターニャ!」
「ふふ、そうか? まあ、そうかもしれない……いつから見ていた?」
完全に浮かれていた自分に気づいて、それをヴィーシャに見られたことをひどく恥ずかしく思った。まったく気づかなかった。ターニャが備えていた軍人としての嗅覚はすっかり鈍ってしまったらしい。
「一回転からです。それより、いいものを持ってきました。ちょっと動かないでくださいね」
ヴィーシャはターニャの首に手を回すと、シャツの襟をいじり、最後に首元で何かを結んだ。
「はい、いいですよ。どうですか?」
鏡に映っていたのは、ネクタイの代わりに紐のようなリボンを着けたターニャだった。飾り気のない黒のリボンが白のシャツを引き締めて、落ち着いた大人に見える。
ターニャは、自分が可愛いのではないかと思い始めた。
「ヴィーシャ、その……」
「どうしましたか?」
「エーリッヒが帰ってくるまで、借りていてもいいか? 彼に見せたくて……」
ヴィーシャはぽかんとしたあと、嬉しくてたまらないといった具合で頬を緩めた。
「もとから差し上げるつもりで持ってきたんです。あとで着け方を教えて差し上げますね。髪まとめちゃいますから、座ってください」
「……ありがとう、ヴィーシャ。その……なんというか……君が友達でよかったと思う」
髪に取りかかったヴィーシャの顔は見えないが、ターニャは彼女がいま笑顔であると確信していた。