「も、もう少しだけ待ってくれ。深呼吸、深呼吸するから……」
「このくだりもう三回目ですよ、ターニャ」
「これで最後だから!」
完全に駄々をこねる子どもであることは自覚していたが、それでも緊張には勝てない。店の引き戸から少し離れたところでターニャはヴィーシャの裾をつまんで引き留めていた。
思い返せば、この世界での人生においてターニャは大衆食堂を含む飯屋の類に行ったことがない。外で食事をとったのはせいぜい静かで落ち着いた軽食喫茶くらいだ。興味本位でビアホールを覗いたこともあるが、騒々しさと酒臭さに参って早々に退散した。
つまり、ターニャの華々しい飯屋デビューが近づいている。
「やればできるやればできるやればできる。……よし、前進だ」
「はい、行きましょう!」
店先のボードを確認する。今日のおすすめはフリカデッレ、肉団子だ。肉団子に外れはないだろうと判断したターニャは、フリカデッレのセットを注文すると決めた。今のうちに注文を頭の中で復唱していればつっかえることはないはずだ。
ヴィーシャが戸を引くと、店内から熱気と騒音があふれ出してきた。人ごみとはこんなものだったか。ひどく雑然としている。エントロピーの増大が著しい。ターニャは自分が気圧されていると気づいた。
「いらっしゃい!」
「こんにちは、二人です。テーブル席空いてますか?」
「ちょっと待ってな。おい、じじいども! 可愛い嬢ちゃん二人にテーブル席空けてやんな!」
食事中だった客たちが次々に席を立つ。会計を済ませて出る準備をする客、カウンターに皿を置いて立ち食いする客、店の隅の木箱に腰かけてパンを頬張る客。
ヴィーシャは笑顔で彼らに挨拶し、礼を言い、手を振っている。ここで固まっているのはヴィーシャの友達としてよろしくない。ターニャは決死の覚悟で口を開いた。
「あ、ありがとうございます」
「おや……お前さん、去年の夏あたりに越してきた……なんつったか……」
「た、ターニャ・デグレチャフです」
「おお、そうだ、ターニャちゃん! うちの婆さんが世話になってるなあ。ほら、駅でいっつも日向ぼっこしてる」
「えっと……ああ、マダム・シュトラウスですか。私こそ、いつもお世話になっていて……」
「はっは、あの婆がマダムか、そりゃいいや! おい親父、このフロイラインたちのぶんもチップ置いとくからな! んじゃ、失礼するぜ。今度あの男前な旦那さんの話聞かせてくれよな」
なんと返せばいいものか悩んでターニャが曖昧な笑みを向けると、ちょうど店の主がテーブルを拭きに来た。
「ウド、よその幼妻口説いてる暇があったらさっさと席空けやがれ。ったく……気を悪くしないでくれよ。久しぶりに越してきた若い人が大変にお似合いで熱々な夫婦だってんで、みんなお友達になりたがってんのさ。俺はティモ・ハイツマン。ここらで一番の料理人だ」
「そりゃここらに飯屋は親父んとこしかねえからなあ」
「うるせえ、さっさとそのでけえケツ、おっと失礼、大きな尻をどけねえか」
なにがなにやらわからないが、どうやら歓迎されているようだった。
日本の記憶が残っているターニャとしては、賑やかな厚意が息苦しくすらある。それに、善意で話しかけてくれる人たちの言葉に怯えるのはあまりにみじめだ。しかし、前世を言い訳にするのは今を生きる中で得たすべてに失礼だとも思う。だから、無理をしない範囲で歩み寄る覚悟をした。
「その、お店のいい匂いで前から気になっていたんですが、なかなか入る機会がなくて。明るい雰囲気のお店でよかった」
「そりゃ嬉しいね、今後ともご贔屓に。おーいお連れの嬢ちゃん、席空いたぞ」
「ありがとうございます! やー、いいお店ですね。こういう食堂ってもっと狭くてこじんまりしてる印象があったんですけど」
「土地が余りに余ってるからなあ、先々代が馬鹿みてえにでかい店立てちまって。戦争が終わってからはおかげさまで満員御礼だがよ。さて、お飲み物は?」
失念していた。飲み物を考えていなかった。店頭のメニューすら確認していない。
「私は炭酸水で。ターニャはオレンジジュースとハーブティーどちらがいいですか?」
「あ……オレンジジュースで」
ヴィーシャに救われた。ターニャが目で謝ると、気にするなと言わんばかりの微笑が返ってきた。
「炭酸水とオレンジジュースね。食べ物は?」
「マウルタッシェと、レバーケーゼと、ブロートで」
「うちのレバーケーゼはレバー多めだけど大丈夫か?」
「多いほうが好きです!」
「そりゃいいや。ターニャちゃんは?」
ヴィーシャの流暢なやり取りに圧倒されている場合ではなかった。正念場だ。
「ふ、フリカデッレをお願いします」
「フリカデッレか。大人の一人前は結構多いからな……半皿にするか? 食い終わって足りなきゃもう半皿持ってくるよ」
「えっと、その、はい、それでお願いします。ありがとうございます」
「なに、礼を言われるほどの手間でもねえさ。パンはつけるかい?」
「じゃあ、ブロートを」
「了解。飲み物が炭酸水とオレンジジュース、そっちの嬢ちゃんがマウルタッシェ、レバーケーゼ、ブロート。ターニャちゃんがフリカデッレとブロートね。すぐできるから待ってな」
頷いてお礼を言うと、店主は手を振って厨房に消えた。
大勝利だ。ターニャは達成感と緊張の糸が切れた脱力感で一気にぐったりした。しかし、店内でため息をついたりうなだれるのもよろしくない。やればできるの暗示が少し役立っていた。
「楽しみですね、ターニャ!」
「ヴィーシャは元気だな……それに人と喋るのもうまいし、笑顔が溌溂としている……私は羨ましくてならん……」
「でも、喋りや笑顔があってもなくても彼がターニャを愛しているのは変わりませんよ?」
「え、エーリッヒを引き合いに出すのは卑怯だぞ」
卑怯なんてものはありません、とご機嫌な様子のヴィーシャを見て、ターニャは部下の教育を間違ったのではないかと思い始めた。卑怯な行為など存在しないという活動方針は確かにターニャが打ち立てたものだが、それは軍事行動における考え方であって、日常生活で友人をおちょくるときに使うことは前提としていない。
ヴィーシャにからかわれてため息をつくと、思ったより自分が疲労していないことに気づいた。それほど苦しくも辛くもないし、緊張してもいない。依然として騒がしい店内にいるにもかかわらず、周りの目を気にして怯えていない。まだこの空気に親しみを感じることはできないが、居心地が悪いとまでは思わなかった。
「どうですか、ターニャ」
何とは言わないが、ヴィーシャが何を聞きたいのかはわかる。やってみれば案外いけるものだった。思っていたより自分は回復しているのかもしれない。ターニャの気分はいつになく晴れやかだった。
「いいと思う」
「それは……よかったです!」
「ああ。なんというか、その、誘ってくれてありがとう、ヴィーシャ」
ヴィーシャが自分を大切に、大事に扱ってくれていることはターニャも感じている。それはもしかすると対等な友人関係ではないのかもしれないが、ターニャはみじめにはならなかった。これから対等になることもできるし、ヴィーシャが困ったときに助けることもできる。
手伝いらしい若い女の子が運んできた飲み物をヴィーシャが受け取った。ジュースが果実のうまみに満ちているのは、この世界のいいところのひとつだ。
オレンジジュースを味わいながら、ターニャは呟いた。
「いい友達を持って幸せだよ、私は」
「あ……あー!」
「なんだ、人を指さすな」
「幸せって、いま幸せって!」
「ああ、まあ、そんなことも言った気がするが」
「だめですよ、先に閣下に言ってあげないと!」
「先も何もないだろう……ちゃんと彼にも言うさ」
「ターニャ」
ヴィーシャが腕を伸ばして自分の両頬に手を添えたので、ターニャはびっくりしながら彼女の目を見た。
ヴィーシャの目はとても真剣だった。
「ターニャ。お願いですから、しっかりと閣下に今の言葉を言ってあげてください。言われるまでもないと思いますが、閣下はターニャが幸せになるために身命を賭して奮闘してきました。もしターニャが幸せなら、それを伝えるんです。それが報いるということなんじゃないでしょうか」
ヴィーシャの言葉はターニャの心にしっかりと刺さった。それは知らない間に膨らんでいた驕りという風船を割り、ターニャの胸に新たな風を吹きいれた。
「そうだな、その通りだ。ありがとう、ヴィーシャ。彼が帰ってきたら必ず伝える」
「はい!」
ヴィーシャの手はそっとターニャの頬を撫でてから、彼女の膝の上に戻った。
不思議な気分だった。前世を含めればターニャのほうが年上のはずなのに、今のヴィーシャは姉のようだ。かつての副官であり、今の姉であり、そして交際相手の部下でもある。あまりに複雑だ。
「それはそれとして、私もターニャと友達になれて幸せです。ああ、演算宝珠の録画機能が民間に出回ればなあ」
「出回ったところで何に使うんだ、あんなもの」
「それはもちろん、ターニャと彼の愛に満ちた日々を撮影して、結婚式でですね……」
「冗談じゃない、恥ずかしくて埋まりたくなる」
テーブルに崩れ落ちそうになったが、店主が料理を運んできたのでターニャは椅子に座りなおした。店主の手が大きなトレイから次々に皿を下ろしていく。予想していた倍の量がテーブルに現れ、最初はあったはずの完食する自信が目減りしていった。
「ちらっと聞こえたが、ターニャちゃんは結婚式まだなのかい」
「はい、その……」
事情を説明するわけにもいかず、かといってちょうどいい嘘を思いつくほど頭は回らず、口ごもると、ヴィーシャが助け舟を出してくれた。
「彼は私の上司なんですけど、いまちょうど繁忙期で。私もなんとか休暇をもぎ取って遊びに来たんですよ」
「ほう、そいつは大変だ。なんつったって戦後だからなあ、忙しいのはどこも同じか」
何の仕事か聞かないあたり気の利く店主なのだな、とターニャは他人事のようにぼんやりしていた。とはいえ、軍服で出勤するエーリッヒを見かけたことがあれば職業は容易に分かる。
「それに、やっぱり女の子は婚約期間も楽しみたいものですから。ね、ターニャ」
「え、あ、うん。そうだな」
「はっは、そいつは昔から変わらんな。俺も若いころ女房に言われたもんだ。んじゃごゆっくり」
「どうもー」
いずれはターニャもヴィーシャのように自然な会話ができるようになるのだろうか。イメージは浮かばなかったが、ヴィーシャの振る舞いから学べるものは学ぼうという心構えはある。
しかし、今はそれより食事だった。熱々のフリカデッレから漂う食欲を誘う香りに負けて、ターニャのおなかが小さく鳴いた。
「いただきましょうか」
「ああ。いただきます」
フリカデッレにかぶりつく。舌を火傷しそうな熱さだったが、予想をはるかに上回るおいしさに手が止まらない。肉汁とスパイスが口の中を支配している。
完食できずに残りはヴィーシャに任せたが、自信を持っておいしいと断言できる店だ。近いうちにエーリッヒと来よう、そう思っている自分に気づいたターニャは、もう外出への恐怖を感じていなかった。