食べ過ぎで少し苦しさを感じながらヴィーシャと二人でお茶を飲んでいると、エーリッヒの帰りの汽車の時間が近づいてきた。
「そろそろエーリッヒを出迎えに行く。ヴィーシャ、今夜は泊まっていくのか?」
「うーん、最初はそのつもりだったんですけど……閣下とターニャがお戻りになったら帰りますね」
「なら一緒に駅に行くか?」
「おかえりなさいのハグとキスを私の目の前でなさるんですか?」
それは確かにと頷いて、ターニャは一人で家を出た。
頭の中で色々と文面をこねくり回し、どうしたらエーリッヒに今の気持ちを伝えられるか模索する。これはなかなかに困難な課題だ。
悩んでいるうちに駅に着いた。この時間はほとんどいつもターニャ一人だ。朝は老婆が座っているベンチに腰かけ、懐中時計を取り出す。汽車が到着するまであと三分もない。途端に緊張してきた。
最大限の喜びと感謝を伝える言葉。なにかあるだろうか。こういうとき、頭の回転が遅くなったことを悔しく思ってならなかった。
下手な美辞麗句ではかえって上滑りする。エーリッヒは軍でおべっかに慣れているだろう。では、もっと詩的な言葉? ターニャにはそのセンスがない。それははっきりと自覚している。なんといってもまだ感情を自覚して一年経っていないのだ。
答えが見つからないうちに汽車が到着してしまった。
「ただいま、ターニャ」
「おかえりなさい。その、聞いてほしいことがあって」
エーリッヒは少し疲れた顔だったが、いつも通り頷いて、続きを促してくれた。
大きく息を吸う。正念場だ。
「わ、私! 幸せです!」
「ターニャ……」
「ごめんなさい、もっと早くに言うべきでした。あなたのおかげで、私はとても、とても幸せです」
「そうか……そうか」
突如、ターニャの視界が暗くなった。それが軍服の色で、自分が抱き寄せられたとわかったときにはもう脱出困難なほどしっかりと抱きしめられていた。
ターニャの頬に温かい雫が滴った。エーリッヒは泣いているのだろうか。
少し遅かったかもしれない。しかし、伝えることができてターニャはとても嬉しかった。これもまたターニャの幸せを構築する一要素だった。
「ありがとう、ターニャ、ありがとう」
「お礼を言うのは私です。ずっと頑張ってくださったのに、面と向かってお伝えするのがこんなに遅くなって」
「遅いなどとは思わん。ターニャ、これから君をさらなる幸福の高みへと連れていくと誓う。いや、一緒に行こう。その高みへ」
ターニャを決して放さんとばかりに抱きしめる彼の手がたまらなく愛おしかった。ターニャは彼の胸に顔を埋めながら、心からの返事を伝えた。
「はい。あなたとなら、喜んで」
抱き合っていたのはほんの数分だと思っていたのに、お互い落ち着いてから懐中時計を開くと汽車の到着から三十分も経っていた。街灯のない帰り道はすっかり暗くなっている。
家にヴィーシャを残してきたことを話すと、エーリッヒはターニャを抱き上げて早歩きで帰路についた。暗い夜道を歩けばターニャは躓きかねないし、歩くのも遅い。不快にはならなかった。
ヴィーシャはソファでうとうとしていた。どうやらお茶の片づけは済ませてくれたようで、テーブルが片付いている。
「ヴィーシャ。……ヴィーシャ!」
「はっ、ヴィクトーリヤ・イヴァーノヴナ・セレブリャコーフ中尉、帰投いたしました! ……あれ?」
「何を寝ぼけている、少佐」
「ああ、お戻りになったんですね。准将閣下、ちょっとお渡しするものがあるのでこちらに。えっと、この袋かな……あ、ターニャはあっち向いててくださいね。大丈夫、やましいことじゃありませんから」
なにを渡すのかはわからないが、ひとまずターニャはヴィーシャの言葉を信用して壁と睨めっこを始めた。
「これは……貴様、正気か?」
「閣下もご用意がないでしょう? いざというとき困ったことになりますよ、置いておかないと」
「だからといって、その、まだ早いのではないか」
「いつ使うかはお任せしますし、すぐに使い切る数ではありませんが、閣下のこだわりで女の子に恥をかかせないでくださいね。わかりましたか?」
「……まあ、貴官のおせっかいに感謝して、受け取っておくことにする」
「それがよろしいでしょうね。それじゃあ、しまってきてください。見えるところに置いておくものでもありませんから。……一応伺いますけど、使い方わかりますよね?」
「さすがにわかる、馬鹿にするな。もうこちらを向いていいぞ、ターニャ」
何の会話をしていたのかさっぱりだ。
女の子に恥をかかせないためのもので、使い捨てで、隠しておくものらしいが、ターニャはなにもぴんと来なかった。まだ女の子歴が浅い。
エーリッヒが小箱を手に部屋へと消えるのを目で追いながら、ターニャはヴィーシャに問いかけた。
「何を渡したのか聞いてはだめか?」
「こればかりはお教えできません。レルゲン閣下にも名誉がありますから。とはいえ、じきにばれるとは思いますけど……」
「名誉にかかわるものなのか」
「はい。そして、お二人の幸せと健康を支える大事なものです。本当はさすがに気まずいんですが、どうやら閣下は用意してらっしゃらないみたいですし、ターニャも考えてすらいないようでしたので、出しゃばってしまいました」
少し考えたが、やはりわからない。しかし、ターニャとエーリッヒを害するものではないだろう。ターニャは頭を振って、感謝の言葉を口にした。
どこか急いだ様子で帰っていったヴィーシャを玄関で見送った。
「セレブリャコーフは帰ったか」
「はい。……お疲れのご様子ですね」
「いや、さほど疲労はない。セレブリャコーフに振り回されただけだ。食事にしよう、今日は帰りがけにうまそうなものを見つけて買ってきたんだ」
エーリッヒが鞄から取り出した包みにはフリカデッレが入っていた。それも大人三人分はある。なんとも奇遇な巡りあわせに思わず微妙な笑いがこぼれた。
「てっきりセレブリャコーフが泊まっていくと思っていた。明らかに多いが……どうした?」
「いえ、フリカデッレに縁があるもので。少し長い話になりますから、食べながらでよろしいですか?」
「もちろんだ」
ヴィーシャと二人で食事に行ったことを話すと、エーリッヒは驚き、そして嬉しそうにターニャを褒める言葉を口にした。ターニャからすれば連れ出してくれたヴィーシャのおかげで、自分の努力など些細なものに思えたが、エーリッヒにとってはそうではないようだった。
「そうか、それでフリカデッレを。今度、そこで夕食にしよう」
「エーリッヒには少し大衆的すぎるのでは」
「私は少し前までビヤホールの常連だった男だ。それほど違いはないさ。……残りのフリカデッレは明日にしよう」
「そうですね。ごちそうさまでした」
「ごちそうさま」
食器を片付ける。ヴィーシャのある言葉がまだ脳裏から離れなかった。それどころか、こうしてエーリッヒのそばにいると、ますますそれが大きくなった。
「あの、エーリッヒ」
「どうした?」
「駅で話したことと関連するのですが……とてもお礼がしたい気分なんです」
エーリッヒは最後の食器を棚にしまって、ターニャに目を向けた。
「それは嬉しく思うが……」
「だから、その。今夜、お部屋に行ってもよろしいでしょうか」
ひどく気まずい沈黙が流れた。
ターニャも断られるだろうとは思っているし、それで傷つくこともない。しかし、期待していないと言えば嘘になる。
妙な汗が背中ににじんだ。
「それは、つまり、そういうことなのか」
「……婚前交渉ははしたないとお思いでしょうか」
「建前として、理解してはいる」
エーリッヒが大きくため息をついた。
どうやらなしのようだと気持ちを切り替えかけたところで、エーリッヒが笑った。
「ああ、いや、すまん。セレブリャコーフに感謝すべきか叱責すべきかわからなくなっただけだ。こういうときにかけるべき言葉を持ち合わせていないが……君がそれを望んでくれるなら、そうしよう。私もそうしたいと思う」
「本当に?」
「ああ」
「無理をしていませんか?」
「恥ずかしくなるからそれ以上はやめてくれ」
ターニャはしばらくエーリッヒを見上げていたが、ひどく恥ずかしくなって、顔を背けた。少ししたらもっと近くで見ることになるはずなのに、どうにも視線を戻せない。
「……シャワー、先にどうぞ」
「あ、ああ。ありがとう」
まったく悪い気分ではないが、緊張とむずがゆさで体の動かし方を忘れそうだった。