意識が覚醒して最初にターニャが知覚したのは、全身の疲労と痛みだった。
ゆっくりと起き上がって、大きなあくびをする。とても長い眠りだったような気がした。そして、身体中がきしむにも関わらず、穏やかな幸福感が残っていた。
肌に擦れるシーツが心地よい。二度寝してしまおうかとも思ったところで、異変に気が付いた。
「裸?」
眠気が消し飛び、記憶が帰ってきた。甘く爛れた記憶。
エーリッヒの瞳に映り込む乱れた自分の姿が蘇って、頭を抱えてベッドの上を転がった。
「何をしているんだ私は! 十四歳、いや、まだ十三歳だぞ……エーリッヒが逮捕される……いや、違法ではない、違法ではないが、帝国法で言及されていないのは合法だからではなく言うまでもないからだ! あああ、馬鹿、私は馬鹿だ……」
ベッドからエーリッヒの匂いと情事の残り香を感じるのも、恥ずかしさと申し訳なさを助長していた。
エーリッヒが無理をしているわけではないことは体で理解したが、それを浅はかにも喜んでいた昨晩の自分が恥ずかしくてしょうがない。ターニャは悶え苦しみ、呻き、悲鳴を上げ、そこでようやくカーテンの外がやたら明るいことに気が付いた。
時計に目をやる。もうすぐ十二時だ。
「ああもう、なんてことだ……私は一応まだ帝国軍の大佐だぞ……」
あまり空腹感はないが、食べねば体が動かないこともターニャは承知している。シャワーを浴び、服を着て食事をとったら、全力で掃除と洗濯と換気をすることに決めた。
リビングルームに出ると、書置きが残してあった。エーリッヒの字で間違いない。ターニャはそれを手に取った。
おはよう、ターニャ。ひどく疲れさせてしまったようだから、眠っている君を起こさず出勤することにした。
夕飯になにか買って帰るから、用意はいらない。もちろんフリカデッレ以外を選ぶ。楽しみにしていてくれ。
君のそばにいて、君を愛することができて、私はとても幸せだ。もし君が同じように思っていてくれるなら、これほど嬉しいことはない。
それでは、行ってくる。
紙面上にインクで記された文字だというのに、容易に彼の声で再生される。ターニャは自分に呆れながらも、頭の中に響く声はかき消そうとしなかった。
こうして期待していたことが実現していくと、さらなる欲が湧いてくる。
かつては慶事への興奮に目を付けたブライダル業界のマーケティングだと鼻で笑っていたウェディングドレスへの憧れも、いまはよくわかる。自分の背に合うドレスがあるのか、ターニャはそれが不安でならない。
多忙な帝国軍人の妻、そう、妻として彼のためにできることを増やしたいとも思う。はるか昔、結婚は社会制度への屈服だと馬鹿にしていたような気がするが、はっきりとは思い出せない。思い出さないほうがよさそうだ。
ターニャの目下最大の不安は、自分に育児ができるのかということだった。
シャワーの水滴が伝うおなかを見つめる。ここから生まれてくる我が子に、親としてよい接し方ができるだろうか。自分のように屈曲することなく、健やかに育つ環境を構築できるだろうか。
「……浮かれているな」
シャワーの温度を下げ、頭を冷やす。
まだ恋人でしかない。婚約とすればエーリッヒは何かしらの発表をせねばならず、ターニャの存在が明るみに出る。それに、ターニャには家族がいない。帝国貴族の婚約には家族の同意が必要になる。
これから家族になる人との関係を示すのに既存の家族が要求されるシステムは根本から間違っていると思いつつも、それが成立している現状を変えられるわけではなく、恋人と称すべき関係が続いた。
恋人生活はとても楽しく、そして幸せだ。しかし、昨晩を経てターニャはそろそろ次の段階に進みたくなった。
もちろん、エーリッヒの意思を尊重して、時期はゆっくり検討する。結婚しないという考えは持ち合わせていない。エーリッヒへの厚かましい信頼がそれを支持していることをターニャは自覚していたが、あえて修正しようとは思わなかった。
曇った鏡を手で拭う。
傷痕だらけの、幼い、幸せそうな笑みをたたえた少女がターニャを見つめ返していた。
「変わったな、ターニャ。ああ、変わったよ、ターニャ」
かつて、ターニャは日本で働くサラリーマンだった。感情をコストとして計算する乾燥した冷酷な生き物だった。誰かを愛したことがなかった。男だった。
すべてが取るに足らない過去として記憶の隅に片付けられていく。
ターニャにはひどく悩んだ時期があった。問題の争点は、前世の話をエーリッヒにすべきか否かだ。悩んでいるうちに前世の価値、意味、重み、そういったものがどんどん薄れていって、気にしなければ思い出さないほどになりつつある。
存在Xの精神汚染によるものかとも疑ったが、存在Xが語りかけてくることはない。それに、これが精神汚染であるのなら、歓迎してもいいとすら思っている。もちろん、思考を操作され介入されるのは大嫌いだ。しかし、この変化がなければ、いまの幸福はなかった。天秤にかけてぎりぎり好意的な感情が勝ったのだ。
体を拭き、着替えてキッチンに立つ。どうやらエーリッヒが忙しい中肉団子スープを用意してくれたようだ。ターニャはそれを温めなおし、パンとともに昼食とした。
「ごちそうさまでした」
食器を片付けながら、午後の時間が洗濯と掃除で消し飛ぶことを再確認した。少し気が滅入るが、身から出た錆だ。
いつもならシーツはまとめて洗うが、さすがに放置するわけにもいかず、一枚だけ洗濯桶に放り込んで裸足で踏む。そのまま服や下着もやっつけた。不思議なことに洗濯機はないが乾燥機はある。思えば軍でも洗濯機を見かけたことはなかった。水を大量に要求する機械より水を排出する機械のほうが作りやすいのだろうか。答えは分からないが、便利ではあった。
だいぶ板についてきた掃除も手早く済ませ、時計を確認する。出迎えの時間だ。ターニャは着替えて駅へと向かった。
心なしか転ぶことも減ったし、歩くのも早くなったような気がする。気分がよかった。
汽車から降りたエーリッヒに飛びつく。
「おかえりなさい」
「ただいま」
この瞬間を一日ずっと期待していた。