郊外であればあるいはと淡い期待も寄せたが、どこであっても帝国の夏は暑いようだった。ターニャのまだ幼い体は将校寮の冷房を欲していたが、それをねだるほど強欲でも惰弱でもない。前線で戦っていたころの知恵を総動員して可能な限りの快適と健康を確保した。
悪いとは思っていつつも、汗ばんで額に張り付いた前髪をそっと除けて眠っているエーリッヒの額に口づけを落とすのが幸せだった。軍人の倣いで眠れるときにしっかり眠るエーリッヒは、ターニャが少し触れた程度では目を覚まさない。それだけ信頼されているとも言えるだろう。
毎日の薬が減って慢性的な眠気が薄くなってきたターニャは、だいぶ早起きができるようになった。彼の腕からそっと抜け出し、シャワーを浴びて、地元の服飾店で購入した半袖のシャツと短いスカートに着替え、郵便受けの確認をする。時刻は五時。もう十五分もすればエーリッヒが起きてくるだろう。
新聞と郵便物をテーブルに置いて、小さい音でラジオを点け、朝食の準備をする。
「今朝の発表。帝国中央大学は合衆国との交換留学を認める方針。成立すれば戦後初の学生渡航者となり、学内では応募が殺到との報」
「殺到か。越えるべき壁は言語だけではないというのに、暢気なのか熱意があるのか」
帝国中央大学は大陸でも最大級の総合大学だ。ターニャも一度は憧れたが、情報を集めていくうちに学閥のプライドをかけた醜い争いが見えてきたために興味を失った。大学では学問に勤しみたいのであって、権力争いやいじめに首を突っ込みたくはない。
ザワークラウトと腸詰めのコンソメスープを手早く仕上げる。軍需品の固形コンソメが市場に出回りはじめたことで料理が幾分楽になった。
スープがひと煮立ちするまでの間にパンをケースから出してスライスし、バターとチーズを棚から出しておく。ターニャは一度迂闊にもバターをしまい忘れて、バターが油の塊だと再確認させられた。
「帝都周辺の天気予報。一日を通して晴天。風も弱く、例年以上の猛暑となる予想。外出の際は日差しに注意し、こまめな水分補給を」
「さらに暑くなるとは。午前中に家事を済ませてしまうとするか……しまった、トマトを切らした」
スープを火からおろす。取り分けるのは食べる直前だ。この暑さでは冷たいスープを飲みたいとも思うし、帝国の朝食は冷たい傾向にあるが、この家では夏バテせず乗り切るために温かいスープで朝を始めることにしている。
もう一品ほしい気がして、ターニャはピクルスを大きめに刻んでおいた。近所の食堂に二人で行った際、エーリッヒが特に気に入っていたのがこのピクルスだ。それを聞いて喜んだ店主が快く一瓶譲ってくれた。
このような感情に基づいた経済行為もまた数字によってモデル化できるということは前世の記憶から知ってはいるものの、それは経済行為の話であって、当事者としての気分のよさという極めて主観的な感覚はターニャの知るモデルに含まれていない。悪い気はしなかった。
「――おはよう、ターニャ」
「おはようございます、エーリッヒ。朝食の準備はできていますから、顔を洗ってきてくださいね」
「ああ、ありがとう」
寝起きにもかかわらずいつもと変わらない凛々しさのエーリッヒにタオルを手渡す。これぞできる妻。ターニャは自分が誇らしく、少しむずがゆかった。
仮に、これがわずかでも無理をしてのことであれば続かないのが人間の性であり、そのようにして破局するカップルがいるという話も”乙女街道の先輩”や最近知り合った彼女の友人から聞いている。実際、その友人女史は無理が祟って二度の失敗を経験しているとかなんとか。しかし、ターニャの理性、いや、ようやく育ってきた自分への信頼がその可能性を否定している。
「今日も暑くなりそうだな」
「例年以上の猛暑だそうです。日よけと水分補給が必須だと」
「そうか。家の中も暑くなるだろうから、体には気をつけなさい」
「はい、あなたも」
あなた、という言葉に特別な意味を持たせる日が来るとは、あらゆる意味でターニャは予想していなかったし、当然想像すらしなかった。
スープを取り分ける。ターニャが料理を担当しはじめたころ、エーリッヒは常に心配そうな顔をしていた。ターニャの腕前に不安があるのではなく、ターニャの身長で火や刃物を扱うことを危険視していたのだ。めまいやふらつきが減って、医師のお墨付きがあって、ようやくターニャはエーリッヒからナイフを扱う許可を得られた。
「いつもありがとう。よし、いただこうか」
「はい。いただきます」
「いただきます」
パンとスープと漬物のシンプルな食事だ。もう少し凝ることもできると思うが、エーリッヒが「これがいい」と言ってくれたので、ターニャはこのスタイルを貫くことにした。「これでいい」でないところがミソだ。
昔のターニャは何かを食べているエーリッヒの姿が想像できなかった。帝国軍人にありがちなコーヒーと葉巻で動いているイメージだ。そのイメージはしっかりと覆された。パンを片手に新聞を読む姿は実に様になっていて、ターニャは毎朝眼福な思いだった。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさま。今日もうまい食事をありがとう」
「どういたしまして。何か面白いニュースはありましたか?」
新聞を器用に片手で畳んだエーリッヒは、一瞬考えるそぶりを見せて、新聞を開きなおした。
「何面だったか……あった。ルーデルドルフ閣下のお孫さんがご婚約だそうだ」
「この方が? 落ち着いたお綺麗なご令嬢に見えますね」
新聞の写真には、がちがちに緊張した若手官僚の隣ではにかむいかにも令嬢といった具合の美人が映っていた。
「それが、ルーデルドルフ閣下曰く大変に勇ましい方なのだとか」
「あの閣下が仰るなら相当ですが、なにか勇ましさを発揮するような事態が?」
「これは軍機だが、ピーマンを残すとお説教を食らうそうだ」
あの大男がフォークでピーマンをこっそりよけて食べている姿を想像する。なんとも笑いがこみ上げてくる光景だった。
エーリッヒは苦手な食べ物がほとんどない。強いて言えば糧食に入っている味のない堅焼きのビスケットくらいか。あれは前線でこそ嗜好品だが、家で食べたいものではない。
「君宛ての荷物が届いていたぞ。本か?」
「書物に分類されるとは思いますが、一般的に指すところの本ではないかと」
「ほう、気になる言い方だな」
「下着のカタログです」
「なるほど、失礼した」
「ご趣味がわからないので夜にでも一緒に見ていただこうかと思ったのですが、ご迷惑でしょうか」
エーリッヒは言葉に詰まった様子だったが、結局は頷いた。
おしゃれは足元と下着からとはヴィーシャの言だ。足元はともかく、下着がおしゃれとはどういうことかと質問すると、「意中の人にだけ見せる姿だからこそ力を入れるべき」と力説された。であれば、エーリッヒ以外に見せることもないのだから、彼に選ぶのを手伝ってもらうのが早い。
先日、ヴィーシャを伴って近所の小さな服飾店に挑戦した際、採寸を担当した中年の女性に指摘されたのだ。そろそろ胸の下着も着用すべきだと。
何が楽しくて出血もしていないのに日がな一日胸を圧迫せねばならないのかとうんざりしたが、着用しないと短期的にも長期的にも問題が生じると知って血の気が引いた。世の女性を尊敬する気持ちがますます高まる。
「一つ聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「はい、なんでしょう」
「川は好きか?」
不思議な質問に皿を拭く手が止まった。
鍋を洗うエーリッヒを見上げると、そこはかとなく緊張しているようにも見えた。しかし、理由を問いただすほどのことでもない。
「自分で行ったことはありませんが、車窓に見た記憶を掘り返せばいい景色だったように思います」
「そうか。ありがとう」
「どういたしまして……?」
特に説明はなかったが、エーリッヒの表情が明るいので、ターニャは気にしないことにした。
帽子を被り、手提げかばんを持ち、財布を入れて、外出の準備は整った。エーリッヒと手を繋いで駅に向かう。玄関の扉を開けた途端襲い来る熱気は、まさに夏だ。
夏に入ってターニャは手を繋いでいいものかと悩んだ。手汗でエーリッヒを不快にするのではないかと思ったのだ。しかし、繋ぎたいのも事実で、ターニャは素直に打ち明けることにした。エーリッヒも同じことを考えていた。結局いまも繋いでいる。
「すさまじい暑さだな……」
「そうですね……お仕事中、お気を付けて」
「ああ、君もな……」
帝国は長い歴史を誇り、それと同じだけ帝国軍も積み重ねたものがある。当然建物も古く、新築の寮のほうがよっぽど涼しいのだ。冷房を置こうという話もあったようだが、予算が確保できず立ち消えになった。
コーヒーをリッター単位で消費する帝国軍人が脱水症状になることはまずないし、そう簡単に暑さで参るほど惰弱でもないが、それでも暑いものは暑い。
ハグとキスを交わし、汽車が豆粒になるのを見送って、ターニャは道を引き返した。直帰ではない。夕食の食材やそろそろ切れそうな諸々を補充するのだ。
この地域一帯の補給を担う生活雑貨店とも多少は馴染んできたように思う。ターニャにとって大きな進歩だ。
「あらあおはようターニャちゃん、今日もえらい暑いわねえ。レモン水飲む?」
「ありがとうございます、ご馳走になります」
「本当にターニャちゃんはお行儀がよくて、うちの娘にも見習わせたいもんだわ。はい、どうぞ」
レモンを絞ってほんのわずかな塩を融かしただけのぬるい水だが、これが夏はとてもおいしいことを知った。この地域の家庭の味らしく、子どもはこれを飲んで育つそうだ。
感謝の言葉とともにコップを返すと、事実上のボスである店主夫人は笑みをさらに深めた。
「うちの娘がターニャちゃんくらいのころは生意気で生意気で、私の拳骨が痛くなるくらいだったわよ。なのにうちの人ったら甘やかしてばっかり。ねえ、聞いてるの、あんたー!」
「はいはいはい、ここら一帯に空襲警報みたいな声張り上げて、まったく。お前が叱ってばかりだから俺が慰めてたんじゃないか」
「子育てってのはね、ガラス細工作ってんじゃないのよ。ターニャちゃんも覚えておきなさいね、男親って胸張ってばかりでこっちが言わなきゃ説教もしないんだから」
「夫婦で助け合ってこその子育て、ですね」
なんとか無難な言葉をひねり出すと、しかめ面で店主を睨んでいた夫人が再び笑顔になった。
「あらあーいいこと言うわね! ターニャちゃんならいい母親になれるわよ。でもちょっと早いかしら」
「ターニャちゃん、いまいくつだい」
「今月末で十四歳です」
「ちょっとあんた、女性に年を訊くもんじゃないわよ。でも、そうねえ、十三歳はまだちょっと早いかもしれないけど……でも、大事なのは自分たちよ、自分たち」
声も体も大きい夫人だが、彼女の言葉は正しいように思えた。
買い物を済ませたターニャはもらった飴を舐めながら帰路についた。結婚やら子育てやら、次から次に考えが浮かんでくる。とはいえ、人生を左右する重要なことを暑さに汗を垂らしながら検討するのもよろしくない。
ターニャの誕生日が近いが、それをエーリッヒに伝えたことはない。去年は彼の誕生日を聞き損ねたせいでお祝いできなかったのだ。それに、もとより誕生日のお祝いをする習慣を持ち合わせていなかった。
家事を済ませ、ラジオを聞きながらありもので昼食を済ませる。戦後になってニュース以外のラジオ番組も増えてきた。
「――いやあ、私の娘も婚約者がようやく帰ってきたというのでね、とうとう結婚を許さざるをえなくなって。ところがここにきて式場が満杯ときた。結婚式を相席ってわけにもいきません。これも一つの戦争ですなあ。そんなところで曲のリクエストが入りました。本日五曲目のナンバーをどうぞ」
「口が達者なものだ……式場が満杯、か」
戦争が始まるから挙式というのはどうにも悲壮だが、戦争が終わったから挙式となると俄然明るくなる。とはいえ、この需要に合わせて式場ばかり立ててものちのち経営に響くだろう。
ターニャが抱える懸念事項の一つに結婚式がある。ヴィーシャから聞く限りでは、帝国の結婚式は教会で挙げるのが一般的らしい。ターニャは存在Xへの憎悪こそなくしたものの、和解したわけでもないし、なにか声をかけられたわけでもない。一生に一度の思い出を教会で作るのも違う気がしていた。
とはいえ、エーリッヒに相談するのも気が早いというものだ。あまり先のことを言って彼を困らせるのは本意ではない。どうにも暑さでやられたようで、ターニャは先のことばかり考えていた。
考えるのはやめよう、でももう少し。そんなことをしているうちにうとうとし、瞼が重くなり、こくりこくりと頭が落ち。
「――ターニャ、ターニャ」
「ん……」
「ほら、起きなさい、夕飯の支度が整ったぞ」
水から浮くような感覚とともに意識が戻ってくる。ホワイトソースとチーズの匂い、そしてエーリッヒの匂いがターニャを眠りから引っ張り出した。
「おはようございます……今何時ですか」
「二十時を少し過ぎたところだ」
「にじゅう……二十時!?」
ターニャが飛び起きると、窓の外は真っ暗だった。虫の声すら聞こえる。完全に夏の夜だ。
「ごめんなさいエーリッヒ、いつの間に寝たのかさっぱり……」
「気にするな。駅に着いても誰もいないから肝を冷やしたが、ぐっすり寝ていて安心した。体調はどうだ?」
「少し頭痛が。水分不足かもしれません」
エーリッヒからレモン水を受け取って飲み干すと、かすかに感じていた頭痛が和らいだ気がした。
失態だ。出迎えにも行かず、夕食の支度もせず、惰眠をむさぼっていたとは。朝は非の付け所がない妻ができていたぶん、ターニャは落差でダメージを受けた。
くしゃりと頭を撫でる手が、そのまま頬へと流れる。先ほどまで厨房に立っていたのだろう、いろいろなにおいが混ざっていた。
「そんな顔をしないでくれ。ほら、ただいま」
「……おかえりなさい、エーリッヒ」
へこんだ気分を埋めるように、いつもより長めのキスをした。