帝国風グラタンを二人で完食した後、エーリッヒから差し出された写真と地図にターニャは目を瞬かせた。
「旅行、ですか」
「そうだ。暑い日が続くからな、少し涼みに行こう」
確かに写真の中に広がる風景は涼むのに最適そうだった。木々は高く深く生い茂り、流れる川の向こうには小さく滝も見える。川原も綺麗そうだ。
「休暇はいただいてきた。小さいところだが貸別荘も予約してある」
「しかし、よろしいのでしょうか」
「何がだ?」
「その、うまく言えないのですが……」
妙な杞憂が胸をもやつかせて、素直に喜びを示すことができないのが悔しかった。
ターニャが凶弾を身に受けてもうすぐ一年になる。時折うっすらとだが悪夢を見ることもあり、仕事で疲れているであろうエーリッヒが相手をしてくれる。それがありがたくもあり、申し訳なくもあり、ここしばらくは少しだけ無理に気分を上げていた。
多くを得た。しかし、強さを失った。どうして強いまま多くを得られなかったのか。
「大切な人の誕生日だ」
「ご存知だったんですね。お伝えするのを忘れていました」
「スケジュール帳にしっかりとメモしておいたからな」
胸が痛んだ。
去年のターニャはエーリッヒの誕生日を知らなかった。まだただの同居人だったころだから無理もない。しかし、見出した輝きを自分でくすませたような虚しさがあった。ターニャの気分を絡めとらんとしているのは、忘れたと思っていたみじめさだ。
「もちろん、君の調子に合わせる。家でゆっくり過ごしてもいい」
「……ごめんなさい、気を使わせてしまって」
エーリッヒの観察眼であれば、ターニャの顔色や口ぶりから不調を読み取るだろう。しかし、朝から張りきったツケが回ってきたようで、ターニャはうまく取り繕えなかった。
優しく髪を撫でてくれるエーリッヒの手が愛おしいのは変わらない。しかし、根拠のない不安が囁くのだ。その手を受け入れる資格はあるのかと。
「ターニャ」
「はい」
「思っていることを片っ端から言葉にしてみなさい。うまく表現できなくても、繋がらなくてもいい」
視線を上げられなかったが、エーリッヒが穏やかな表情を見せようとしてくれていることは声でわかる。報いねばならない。ターニャはいつの間にか浅くなっていた呼吸をなんとか改善して、ゆっくりと口を開いた。
「杞憂が、とめどなくこみ上げてきて。……あなたが私を大事にしてくださっているのはわかっているつもりです。だからこそ、私はそれを受け入れることが許される存在なのか、自信が持てなくて。私は”ラインの悪魔”です。過去は変わらない」
ターニャは笑おうとして、笑い方を思い出せなかった。
「私は、弱いですね」
これ以上言うことが思いつかなくて、ターニャは再び俯いた。泣いてしまいそうだ。
一瞬間があって、ターニャの視界が急に広がった。エーリッヒの腕がターニャを抱き上げている。エーリッヒはそのまま自分の寝室へとターニャを運んだ。
「私は医師ではないから、正しい対応を知っているわけではない。もちろん、それを模索する努力は怠らない。現状で私ができる、そしてしたい対応を選ぶが、傷つけてしまったらすまない」
着替えることもせず、エーリッヒはターニャをベッドに寝かせた。そして、ターニャが何も言わないうちにエーリッヒも横になると、ターニャを抱き寄せて背に手を当てた。
「君の過去を全面的に肯定することはしない。そして、君の杞憂は君のものであって、私が口出ししたところで根本的な解決を見ることはないともわかっている。だから、言いたいことを言いたいように口にするが……私が君を求めている。許されるも許されないもない」
優しくも真剣な声にターニャはただただ耳を傾けた。
それはきっと免罪符だった。泡沫であるかもしれないし、児戯であるかもしれない。それでも、ターニャにとっては光明だ。
「私は今から君を苦しめる。すべてを私のせいにしてしまえ。この瞬間から君は囚われの身だ。もし逃げたければ、これが最後のチャンスだぞ」
言葉とは裏腹に、あまりに丁寧で繊細な指先がターニャの髪を解き、シャツのボタンを一つ一つ外していった。
「君の弱さは私のせいだ」
首筋に接吻が落とされる。ターニャは抵抗しなかった。抵抗できるはずもなかった。
「君の苦しさは私のせいだ」
スカートのホックを外され、太ももを擽るように指先が躍った。その焼けるような感覚にターニャは小さな悲鳴を上げた。
「君の辛さは私のせいだ」
熱がターニャを裂いた。ターニャの頬を涙が伝った。
いくら彼の唇を啄んでも、ターニャの喉からこみ上げる泣き声は収まらなかった。声を上げるたび、熱を感じるたび、胸中を濁らせていた何かが吐き出されていった。
あまりに幸せな免罪符だった。
翌朝、ターニャは乾ききったグラタン皿にこびりついたチーズを削ぎ落しながら、テーブルに置かれたままの写真に思いを馳せていた。
遠出をしてもよいか、医師に相談する必要がある。昨日一日だけでもターニャはひどく不安定だった。しばらくはエーリッヒに与えられた免罪符で暗雲と戦うことができそうだが、せっかくの旅行で暗い顔をしたくないし、エーリッヒにも楽しんでもらいたい。
ひとまず次の非番にヴィーシャを呼んで相談しようと決めたターニャは、異臭を放つホワイトソースの空き缶に取りかかる覚悟を決めた。これが片付いたら大量の洗濯物と戦わねばならない。やることがあるほうがずっと気が楽だった。
当然の話ではありますが、現実での医療の観点からこの行為が正しいと主張する気は毛頭ありませんことをご理解いただければと思います。