エーリッヒから見て、ターニャは再び翳りはじめていた。心配をかけないようにしているのか、表向きは明るく振舞っている。近隣住民とのコミュニケーションも問題なく成立しているし、食事量も変わらない。しかし、咄嗟の反応が鈍くなり、些細な失敗が増えた。
表立って心配すればターニャを傷つけかねないが、黙っていれば無理が祟るのもそう遠い話ではない。難しい問題だった。以前のように衰弱してしまうのではないかという焦りもある。エーリッヒは帝都の懇意にしている医者と地元の医者の両方に相談したが、適切な対応は個々人で異なるらしく、答えは見えなかった。
「レルゲン閣下、今朝時点の決裁書類は以上です」
「ああ、ご苦労。セレブリャコーフ少佐、このあと少し空けられるか」
「はい、問題なく」
空けてあるのは分かっているが、業務時間内であることは事実だ。形式上の確認を済ませ、執務室の鍵を閉めた。
「状況は変わらず、ですか」
「ああ。……医師に言わせれば、むしろ今までの回復が早すぎたくらいだそうだ。あの事件が起きた日が近い以上、揺り戻しは覚悟すべきだと」
エーリッヒの執務室に重苦しい空気が流れた。コーヒーを飲む気にもなれず、水を喉に流し込む。今朝の大雨が涼しさを運んでくれるかとも思ったが、期待外れの蒸し暑さが脳を締め付けている。
「ままならんな。自分の矮小さを痛感する」
「閣下の努力がこれまでターニャを支えてきたのも事実です」
「……貴官に叱られると思っていた」
「八つ当たりはしません。私はターニャの副官ですから。それに、力不足なのは私も同じです」
落ち込んでいても状況は打開されない。エーリッヒも頭では理解しているが、歯がゆさにため息が漏れる。
エーリッヒが見てきた限り、ターニャは何かやることがあったほうが楽なようだった。精力的に家事をこなすことができる原動力にはそれも含まれているのかもしれない。
何もしない時間、特に眠気に襲われているときの弱々しさは顕著なもので、営みの有無にかかわらずターニャとエーリッヒはほぼ毎晩同衾していた。
「先日、月のものが始まったときの話だ。彼女は自分の寝室で就寝した。深夜、悲鳴を聞いて駆け込むと、ベッドの上で右肩を押さえていた。……やはり、傷は深いらしい」
「健康な人間ですら嫌な記憶の時期は気が滅入ります。ターニャにとってはなおさらかと……」
どうせ悩むなら動くべきだ。エーリッヒは己の頬を張って気合を入れると、引き出しから白紙を何枚か取り出した。
「状況を整理しよう。一年前、ターニャは共和国の愛国者に銃撃され、それをきっかけに戦争で積み重なった感情が爆発した。他者への恐怖心、殺してきた敵兵や殺させてきた部下への罪悪感が主だろう」
時系列で図式化していく。
ヴィーシャは使い捨てのペンを胸ポケットから取り出して、エーリッヒの書いた図に書き加えていった。
「銃撃の記憶を消すことも好転させることも不可能です。これについては風化を待つほかありませんね。恐怖心はどうでしょうか」
「地元の商店にも一人で出入りするようになった。内実はともかく、コミュニケーションが取れる程度には落ち着いているようだ。しかし、初対面の人間と接してどうなるかはまだわからんな」
「なるほど。では、罪悪感は」
「判明している中ではこれが一番大きいと思われる。初めて彼女を訪問した際に彼女が口にした話とも一致する部分がある」
罪悪感に傍線が引かれる。
おそらく、戦争でターニャも気づかないうちに積み重なった罪悪感だけでなく、ターニャが感情を自覚してから芽生え、育った罪悪感もあるだろう。一番とりかかりやすいのはこれかもしれない。
エーリッヒがこの仮説をヴィーシャに投げると、彼女も同意した。
「加えて、ターニャは仕事を振り分けるのは得意でしたが、誰かに頼る様子は昔からほとんど見られませんでした。慣れないことをすれば誰でも疲れます。それに、頼ってばかりでは申し訳なく感じるでしょうし、自分の能力や信頼関係に疑念が生じてプライドが傷つくこともあるかと」
「ターニャが心の底から傷ついているときに口にする言葉がある。”みじめ”だ。言葉通りに受け取るなら、彼女の傷はプライドと結びついている」
もしかして、とヴィーシャはペンを動かし始めた。
「ターニャの傷はおおまかにわけて二つあるのではないでしょうか」
「聞かせてくれ」
「銃撃をきっかけに生じた恐怖心とプライドは直接結びつかない気がするんです。どちらかというと、恐怖心に支配されている自分と長く過ごしたことによるものなのでは、と」
「なるほど、傷が傷を呼んだわけか。難しいな、これは」
紙面に目を落とす。
過去の記憶を相対的に軽くすることで風化させる。これは長期的な計画になる。
かかる負担を減らすことで傷が開く機会を減らす。こちらは今日から実行できるだろう。ここにおける負担とは、肉体的なものよりむしろ精神的なものだ。
「ターニャが無理をしない範囲で彼女を頼る、この方針で行こうと思う」
「そうですね、それがよろしいと思います。……話は変わりますが、誕生日の件はどうなさるおつもりですか?」
医師からは旅行を決定するのはもう少し後でいいだろうと言われている。貸別荘のオーナーにも再度連絡を取り、仕事の都合でまだ確定できないことを伝え、了承してもらった。問題はエーリッヒがターニャに「貸別荘の予約を取った」と伝えてしまったことだ。無理をして行くと言い出しかねないし、それを否定すれば罪悪感が深まるだろう。
喜ばせるつもりが首を絞めている。難しい状況だが、エーリッヒは諦めていなかった。
「もう少し様子を見るが、旅行を取りやめるとは言わないつもりだ」
「了解しました。水着選びを手伝ってほしいと手紙をいただいているので、近々休暇を取ってご自宅に伺いますね」
「ああ、よろしく頼む。……ところで、厄介な事態になったが、もう貴官の耳にも入っているか」
ヴィーシャは苦々しげな表情で頷いた。
エーリッヒとヴィーシャが交際関係にある。そのような噂が軍部に広まりつつあるのだ。エーリッヒは後方を支える若き参謀次長。ヴィーシャは”暴虐的で冷酷な幼いエース”を陰日向に支え続けた実力者。その二人がしばしば執務室にこもり、揃ってゼートゥーアを訪ね、同じ汽車に乗っている姿を見た者もいる。
見当違いも甚だしいが、噂を真に受けている者も少なくない。
「発信源は特定できたか」
「個人が流布したものではなく、複数の職員から同時期に広まりはじめています。初めて伺った際に泊めていただいたのが決定打になったようです。……私の失態です、申し訳ございません」
「気にするな。とはいえ、何かしらの解決を見ねばなるまい」
「難しいですね。婚約というわけにもいきませんし」
ターニャもエーリッヒも帝国貴族であり、ましてや帝国軍大佐と准将の婚約だ。公式に会見を開くことになるだろう。それはターニャにとってたやすい状況ではない。
今のところ、ゼートゥーアの権力によってターニャの情報は秘匿されている。今回はこの秘匿が仇となった。
「情報……秘匿……うむ。手がないわけではないが、ターニャが持ち直すまでは動きようがないな」
「これについては閣下が家でしっかりご相談されるのがよろしいかと」
「相談か」
「はい。場合によっては関係にひびを入れかねない話です。黙っているほうがよっぽど危険ですよ」
「……貴官に相談してよかった」
ヴィーシャは呆れたようにため息をついた。
「そういうことを口にするから余計に誤解されるのでは」
「なんとも、ままならないな」