エーリッヒは昔、ゼートゥーアの執務室に呼び出されるのが少し怖かった。ゼートゥーアは部下に怒鳴ったり暴力を振るったりはしない。静かに失敗を指摘し、適切な改善案を提示できなければ遅かれ早かれ仕事の引継ぎを始めることになる。そうやって左遷される高級将校を何人も見てきた。
左遷が怖いというより、それをたやすく為すだけの力を持つゼートゥーアが怖いのだ。もし彼が野心家であったなら、帝国はとうに滅んでいただろう。野心のない人間でもきっかけ次第で暴走を始めることはある。自分が引き金を引いてしまったら。そう思うと、エーリッヒはどうにも妙な汗をかいて仕方がなかった。
ところがどうだ、ゼートゥーアという老人は敏腕さと聡明さをそのままに、すっかり日向へと戻ってきたではないか。
「後進の育成、でありますか」
「左様。私も永遠の命を持っているわけではない。また、仮にそんなおとぎ話が実現されるとしてもそれを望むべきではない」
言われてみれば当然の話だ。しかし、誰もゼートゥーアが軍を去ることを前提に動いている者などいなかった。多くの者にとってゼートゥーアとは帝国軍の中枢に存在する機能なのだ。
渡された経歴書に目を落とす。写真の男はどこか不敵な表情だ。南方派遣軍の軍団長を務めた将軍らしい。
「ルーペルト・フォン・ロメール少将。若さの割には優れた経歴ではありますが……」
「ああ、ぱっとしない。能力が高すぎた」
よく確認すると、戦局の芳しくない戦線ばかり任され、そのことごとくを抑え、ときには打破すらしている。にもかかわらず戦闘詳報での評価は「大勢を左右するものではなかった」として低い。そのまま少将までのし上がってきた。
「上が無能だと下が困るものだ。彼のような逸材を便利屋で終わらせるほど帝国の人員はだぶついていない。そこにあるとおり、参謀課程での成績も群を抜いている。人望もある」
ロメールは戦争が終わってすぐにゼートゥーアの推薦で軍大学の参謀課程に編入されている。
どうやら彼が次代の帝国を守ることになるようだった。
「実務能力次第ではありますが、それ以外の部分では小官も彼であれば妥当であると判断いたします」
「うむ。それで、貴官の今後だが……さすがに無理が出てきたようだ。いくつか無視できない陳情も届いている」
「小官の能力不足を恥じるばかりであります」
「貴官が優秀であることは理解している。しかし、人事とは能力のみを見るものではない。かの大佐から提出された論文のなかに、なかなか興味深い提言を見つけてな」
ゼートゥーアが引き出しから取り出した論文は、確かにターニャが書いたものだった。題は「労働環境の構築における能率と生活の相関」だ。要旨にゼートゥーアが記したと見られる傍線が残されている。
ワークライフバランス。そのまま取れば仕事と生活の均衡だろうか。
「かの大佐が調査したところによると、私生活に問題が生じる激務はかえって能率を下げるそうだ。私生活を含めて労働力として運用することこそが組織全体の長期的な稼働率を高める、と。どう思う」
「考えたこともありませんでしたが、理屈は通っているように思います」
「同感だ。レルゲン准将、引継ぎの準備をしておいてくれたまえ」
「は……は?」
エーリッヒは癖で承知の旨を口にして敬礼し、そこで異常事態に気が付いた。
ゼートゥーアは自分の任を解くと言ったのだ。
さあっとエーリッヒの脳天から足元へと寒気が抜けていった。左遷だろうか。自分は何か間違えただろうか。
「ああ、心配には及ばん。貴官が危惧しているようなことではない。貴官により適任で、ぜひとも任せたい仕事があるだけだ。それに、年単位で先の話でもある」
「詳細を伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。在郷軍人学校の話は聞いているかね」
「書類上の情報は把握しております」
在郷軍人学校は現在帝国が人事再編と軍縮の一環として急ピッチで進めている計画だ。在郷軍人に効率的な技能訓練と資格取得の場を与え、同時に継続的な訓練を行い予備兵力の質を維持するための機関。ターニャの論文が草案の一端を担っており、ゼートゥーアが推し進めた。
「理事長をルーデルドルフに任せようと考えていたが、断られた。そこで貴官だ」
「小官が、在郷軍人学校の理事長でありますか」
「これはまだ計画段階の話だが、担うことになるであろう業務や決定済みの人事をまとめておいた。持ち帰って確認したまえ」
「感謝いたします。……帯出してよろしいのですか?」
見せるべき相手がいるであろう、とゼートゥーアは事もなげに答えた。
内容を考えるに本来は軍機であり、それをターニャに見せるために持ち帰らせている。前の話と結びつけて考えるなら、それが長期的にエーリッヒの能率を上げると判断したのだろう。ただの私情で規律違反を犯す男ではない。
エーリッヒの頭の中で一つの仮説が組み上がった。ターニャが論文を提出したのはサラマンダー戦闘団編成直前のことだ。もしゼートゥーアがその時点から能率と生活環境の相関を考慮して計画を練っていたとしたら、ターニャをエーリッヒに支援させたのにもそこと関係する意図があったのではないか。ターニャを中心としているがためにエーリッヒもヴィーシャもより一層職務に励んでいる。
すべてがゼートゥーアの掌の上であるかのような感覚がエーリッヒを襲った。
もちろん、彼の言葉に明確な嘘があったとは思わない。妻の話も、養子縁組の話も事実なのだろう。しかし、それとは別に徹底した合理が帝国を支え、帝国を動かし、帝国を見ている。
ゼートゥーアは日向に帰ってきたのではない。日陰を征服し終わって、日向に手を伸ばしただけだ。
「どうした、レルゲン准将」
「……閣下の深謀遠慮には敬服する次第であります」
「なに、国家に仕える人間として己の届く範囲で役目を果たした、それだけだ」
どこかで聞いた言葉だった。
退出を許されて自らの執務室に戻る途中、エーリッヒは声をかけられて立ち止まった。人事部の次長を務めるベート中佐だ。あまりいい思い出のある相手ではなかった。
人事部にいたころ、エーリッヒをライバルと目して競ってきた男だ。彼は人事部での栄達を争っているつもりだったようだが、エーリッヒは作戦局に抜擢された。
エーリッヒは手にしていたペンを胸ポケットに収めて、彼と向き合った。
「やあ、レルゲン。いや、准将閣下とお呼びしなくてはならないね。忙しくしているようじゃないか」
「ベート中佐も多忙の身は変わらんだろう。人事部の激務には何かしらの改善が必要だとゼートゥーア閣下も仰せだ」
「それはありがたい。何分、僕程度ではゼートゥーア閣下にお目通りも不可能に近いからね。准将閣下が羨ましいよ」
あらためておめでとう、などと口にして微笑むベート中佐は温厚な中年男性そのものだが、彼の手の者がエーリッヒの身辺を探っていると報告が入ることはそう珍しくない。また、最近はヴィーシャの周囲にも見え隠れしていると彼女と親しい情報部の人間から聞いている。
ベート中佐は無能ではない。エーリッヒを失脚させれば帝国の損失となることも、それをゼートゥーアが許さないことも理解しているだろう。ただ、ライバルであるはずの相手が自分の上位者ではなく、ただの人間であることを確認したいのだ。同僚だったころ、食堂でそんな話を聞かされた。誰々も所詮は人間だ、しかしそれが僕には喜ばしく思う、と。
「ところで、君のとても疑わしい噂を耳にしてね。友人の風聞だと喜んで飛びつけば、ひどいことを言われているものだからその連中を叱りつけたんだが……」
もちろん嘘ではないのだろう。自らの配下にわざと噂話をさせ、通りすがりのふりをして叱責する。人事評価で優遇されると信じてやまない配下はそれに喜んで従う。一切の忖度がない人事評価を提出し、配下には色を付けたようなことをほのめかす。
その手口は諜報員から情報部へ、情報部からゼートゥーアへと届いている。ベート中佐はゼートゥーアの帝国軍改編に含まれていない。
「それは手間をかけた。感謝する」
「いやいや、君と僕の仲だろう。それに准将閣下が軽々しく中佐程度に礼を言うものではないよ。ご苦労の一言でいいのさ。ああ、でも、どんな噂かは耳に入れておこうと思う」
気を悪くしないでくれよ、と前置きして、ベート中佐は隠しきれない愉悦とともにその言葉を発した。
「君が愛人のセレブリャコーフ少佐と結託して白銀のデグレチャフを脅し、無理な人事を呑ませてからデグレチャフを殺した、なんて噂がね。いやあ、馬鹿げた話だよ。信じている奴はもっと馬鹿だ。確かにセレブリャコーフ少佐は参謀課程も修了していないし、デグレチャフも見た奴がいないけど――」
エーリッヒは思いきりベート中佐の頬を殴りつけた。
呼吸を荒げないよう、表情を変えないよう、ひたすらに気を静める。はらわたが煮えくり返る心地だ。しかし、いまここで感情を見せれば、ベート中佐の思うつぼだとわかっている。
「まず、デグレチャフ大佐は貴様の上位者だ。呼び捨てにしてよい相手ではない。次に、セレブリャコーフ少佐の人事は正当な評価の結果として人事部の提案をもとにゼートゥーア閣下と私が協議して決定したものであり、士官学校や軍大学の経歴についても承知の上だ。最後に――」
立ち上がろうとしたベート中佐の右脛を踏み抜く。くぐもった悲鳴が誰もいない廊下にこだました。
「貴様が噂を語らせた三人の配下のうち、ベルツ少尉は私に従っている。……とはいえ、貴様を放逐することは考えていない」
「ふ、ふふ、やっぱり友達っていいものだね。君は優しいなあ」
「これは人事部時代の付き合いによるものではない。貴様が退役するにはまだ人事部は忙しいだろうとゼートゥーア閣下が人事部長と協議された結果だ」
すべて事実だ。人事部長との協議にはエーリッヒも立ち会った。ベルツ少尉は参謀次長としてエーリッヒに与えられた諜報員であり、ヴィーシャとの関係についての噂が広まりはじめてからはそれを追わせていた。
痛みに引きつりながらも、ベート中佐は穏やかな笑みを浮かべていた。思い返せば、エーリッヒはこの男が笑み以外を浮かべている姿を知らない。
「君はすごいなあ。やっぱり勝てないんだね、僕は。そんな君だから好きになったのかなあ。うん、そうだと思う」
「私は貴様が嫌いではなかった。しかし、好きにはなれなかった」
「そうなんだよ、君は僕のことを好きになってくれない。じゃあ、嫌われたほうが楽だなあって思った。そのほうが未練が残らないでしょ?」
鳥肌が立った。
エーリッヒの解釈が正しければ、ベート中佐はエーリッヒに恋慕していたのだ。
その気持ちが罪に問われないことを、エーリッヒはよく知っている。また、こらえがたいものであることも。しかし、それで迷惑をかけられてはたまったものではないし、組織に害をなすならば切り捨てるのも当然だ。
悲鳴を聞きつけたのか、憲兵が駆け寄ってきた。
「ご無事ですか、准将閣下」
「ああ。ベート中佐は錯乱状態にある。”安全で一人になれる場所”に連れていってやれ。それから、ゼートゥーア閣下にこのペンをお届けしろ。レルゲンからだと言えば伝わる」
「はっ」
ベート中佐の妄言を録音したペンはゼートゥーアの手に渡り、同時にベート中佐の人生はゼートゥーアが握った。エーリッヒはベート中佐が連行されるのを確認して、これといった感傷が生じていないことに少し驚きながらも自らの執務室へと向かった。