エーリッヒは帰りが遅くなったことを悔やみながら汽車を降りた。朝の時点で間違いなく遅れると分かっている日はターニャにそれを伝え、家で出迎えてくれるよう頼んでいる。暗い中で一人待たせ続けるのは様々な意味で不安だし、申し訳ない。しかし、今日のように急に仕事が入ってきて夕方までもつれ込むと連絡する暇もない。暗くなったら自己判断で戻ってもらうようにしている。それもひどく申し訳ない。
懐中時計は二〇時を示している。戦時中は日付が変わるぎりぎりに片付いてそのまま椅子で仮眠をとることもあったが、戦後処理も落ち着いてきた今では遅くなってもこれくらいだ。加えて、ターニャの「上が休まないと下はますます休めない」という指摘を胸に刻んで、可能な限り定められた勤務時間内で片付けるようにしていた。
暗い夜道を一人で帰るなどエーリッヒにとってはどうということもない。それはニュートラルであり、ターニャと一緒に帰ることができればプラスになる。そのプラスは仕事での疲労というマイナスを打ち消してくれる。
いつも通り窓が明るいことに安心し、いつもと違って賑やかな我が家に違和感を覚えながらもエーリッヒは玄関の扉を引いた。
「――だろう、あのジャガイモは戦訓であって笑い話では……エーリッヒ! おかえりなさい!」
「ああ、ただいま」
ターニャを抱き上げ、接吻を交わす。ようやく帰ってきたと思うと、一日がひどく長かったような気がした。
「相変わらずお熱いですね、胸焼けしそう」
「ちょっとヴィーシャ、あんたその糞度胸どっかにしまっときなさいよ。お邪魔しております、レルゲン閣下」
「留守番ご苦労、セレブリャコーフ少佐、カトゥリスカヤ中尉」
二人の訪問があると知ったエーリッヒは、交通手段や到着時刻などを噂にならないよう工夫することを条件に宿泊の許可を出していた。最近気を使っているのか、ヴィーシャが泊まっていってくれないとターニャが少し寂しそうにしていたのだ。
すでに夕飯の準備は整っているらしく、様々な調味料が複雑に織りなす香りがエーリッヒの食欲を高まらせた。
「閣下、お気づきですか?」
「何がだ?」
「ターニャちゃんの艶やかな御髪にご注目ください、これは男性の責務でありますよ閣下」
エーリッヒは言われた通りに抱き上げたままのターニャを観察した。なるほど、大きな変化だ。長く伸びた金髪を編んで一本にまとめ、後ろに流している。隠れていた耳やうなじが露わになった姿は実に涼しげで、かつ可愛らしい。
「髪を整えてもらったのか、ターニャ」
「はい。……どうでしょうか」
「綺麗だ、よく似合っている。それに涼しそうだ」
ターニャはひどく恥ずかしそうにしながらもはにかんだ。
「毛先を整えて軽く漉きました。髪型も自宅で一人でできるものを何通りかお教えしてあります」
「それは手間をかけたな、少佐。買い物も含め、貴官らには随分と世話になったようだ。先日の式典でいただいた連邦のワインがあるが……貴官ら、いける口か?」
「喜んでお供いたします、閣下!」
「小官も同じく!」
「結構」
きゃいきゃいと嬉しそうに食事の支度を進める二人を見て満足していると、小さくエーリッヒを呼ぶ声があった。ターニャが腕の中で心なしか不服そうにしている。
「私もご相伴に預かりたく思います」
「しかし……」
「年齢の問題は自覚しています。一口で結構です。……だめでしょうか」
この卑怯なほど可愛いおねだりに逆らえるはずもなく、かつての狡猾な”白銀”を思い出しながらエーリッヒは小さくため息をついた。
「一口だけだぞ」
「ありがとうございます、エーリッヒ。大好きです!」
「ああ、まあ、もちろん私もだが……」
成長したものだ。エーリッヒはもうひとつため息をついて、ターニャを椅子に下ろした。
今日は夜まで調子がよさそうにしている。明日になって反動が来ないか不安だが、それを口にするのもいい手とは言えないだろう。
「だめですよ閣下、ちゃんと最後まで言葉にしないと」
「ヴィーシャの言う通りです、そのような濁し方は女性を不安にさせますよ」
「そうなのか、ターニャ?」
「もちろん、あなたのことを信じています。でも……言ってくれたほうが嬉しいのも事実です」
「そうか。……私も大好きだ、ターニャ」
にやつきながら拍手するヴィーシャと、それに呆れつつも続いて拍手するエーリャを静かに睨んだ。つまみに秘蔵のサラミを出そうかと思っていたが、彼女らには不要だ。
しかし、ターニャが嬉しそうにしているのは二人が促してくれたおかげでもある。上官であるエーリッヒを私的な場所で揶揄するのを増長だと叱りつけるほど狭量でもない。
「――エーリッヒは許すかもしれないが、私にそのような恩情を期待しているのならお門違いもいいところだぞ、貴様ら」
囁くような、しかし臓腑を凍えさせる声が二人を貫いた。余波を浴びただけのエーリッヒですらひやりとするほどだ。ただの凄みではない。実力を知っているからこそ、その重圧をひしひしと感じる。
爛々と輝く一対の緑眼が不心得者たちを射竦めている。懐かしくも恐ろしい、”デグレチャフ大佐”がそこにいた。
「は、はい、失礼しました!」
「敬礼の相手が違うだろう、それでも軍人か!」
「は! レルゲン閣下、身の程を弁えぬ言動をお詫び申し上げます!」
遠回しに「弛んでいる」と指摘されたような気がした。しかし、エーリッヒはその考えを一度取りやめ、ターニャの様子を確認した。これまで散々勘違いで彼女を追いつめてきたのだ。私的な人間関係においても、勝手な思い込みで動くべきではない。
ターニャはエーリッヒにだけ見えるように向きなおり、少し困ったように眉を下げていた。
「……まあ、家でくらい寛ぎたいのは私も同じだ。恋人の友人にからかわれた程度で気分を害するわけでもないが、その態度を外に持ち出さないように」
「承知しました、恩情に感謝いたします!」
「勘弁してくれ、自宅でまで敬礼が飛び交うのはごめんだ……」
この混沌を生み出した元凶であるターニャがくすくすと笑いはじめたので、全員の視線が彼女に集まった。
「照れ隠しのつもりでしたが、私もまだまだやろうと思えばやれるものですね」
「やれるどころの話ではない、肝が冷えたぞ」
「暑そうでらしたので。エーリッヒが許すなら私も許す、二人とも楽に」
エーリャがうなだれて膝に手をついた。疲労困憊を絵で示したそのままだ。ヴィーシャはまだ平気な方と見えて、苦笑いを浮かべながらエーリャの肩に手を置いた。
「……ひゃー、一瞬本当に怖かった。切れ味抜群。ヴィーシャってこの状態のターニャちゃんと過ごしてたわけ?」
「うん、まあ。でも、あのころのターニャだって可愛かったからなあ」
「何を以て可愛いと形容するのか知らんが、私は可愛げのない上官だったぞ」
「そんなことありません。パンケーキパトロール、楽しかったですよ?」
パンケーキパトロール。
意味のわからない言葉に困惑してエーリッヒがターニャを見ると、ターニャは恥ずかしいような、懐かしいような、満更でもないような、しかし確かに笑みであろう表情を浮かべていた。
「いい思い出ではある。……巡察任務と称してヴィーシャと二人で期間限定のパンケーキやアイスを食べに行ったことがありまして」
「それは……楽しかっただろうな」
「ここが私的な空間であるからこそのお返事ですが、軍務の中で最も楽しい時間でした」
皆が彼女を”白銀”もしくは”ラインの悪魔”と畏怖していたころにそのような微笑ましい活動をしていたとは、エーリッヒには到底思いもよらなかった。
これはまだまだ未発掘の鉱脈がありそうだと判断したエーリッヒは、棚から赤ワインのボトルと人数分のグラスを取り出した。酒が入れば舌の回りもよくなるだろう。