エーリャはチーズをかじり、ワインを一気に飲み干して、空けたグラスを置いた。力強く下ろしたように見えるのに、テーブルとぶつかったグラスはほとんど音を立てない。器用なものだ、とエーリッヒは奇妙な感心を抱いた。
「まあ、調べりゃわかる話なんだけどさ。皇帝が頂点にいたころのルーシーで、セレブリャコーフ家っつったらものを知ってる奴はだいたい頭下げるくらいの旧家なのよ」
「ああ、その話はある程度把握している。皇帝に仕えていたからこそ、連邦の樹立を待たずに亡命してきたのだったな。しかし、帝国貴族としての爵位は辞去したとも聞いている」
話が早くて助かるわ、とエーリャが肩をすくめた。
少しぶっきらぼうだが快活で陽気、そんな女性だとエーリッヒは彼女を認識していたが、どうやらそれも彼女を構成する一面にすぎなかったらしい。少しも酔いを見せない醒めた顔でチーズを口に放り込んでいる。
「セレブリャコーフ家は家臣の血筋なのよ」
「家臣」
「そ。国なんか重要じゃないわけ。心から従える相手に尽くしてきたの。連邦の馬鹿どもは主君じゃない。でも、ライヒの頂におわす陛下も忠誠の対象たりえなかった」
「……少佐にとってターニャは主君なのか」
「そうなんじゃない? ヴィーシャが褒めた上司ってターニャちゃんだけだし。心当たりあるでしょ」
思い返すまでもなく、エーリッヒには無数の心当たりがあった。
上官を殴り、罵声を飛ばし、参謀総長にすら平然と不平をこぼす。前線から帰ってきたことによる気の緩み、もしくは大切な上官であり戦友であったターニャの身を案じるあまりの暴走、そのように考えていた。
「ヴィーシャは優秀だから、表向きは一応ちゃんと取り繕ってる。でもそれはターニャちゃんに迷惑をかけないため。……想像だけどね。今の全部嘘だったら面白くないかしら」
けらけらと笑ってみせて手酌でグラスを満たしたエーリャは、それを再び一気に飲み干した。
虫が鳴いている。夜風がかすかに窓を揺らす。ヴィーシャが言葉にならない寝言を呻いている。
「ま、閣下はだいぶ信頼されてるみたいだけど」
「そう、なのか」
「うわー、無自覚なわけ? やっぱりターニャちゃん攫ってくほうがいいかも。信頼してない相手に説教したりわがまま言ったりしないでしょ。ヴィーシャは特にそう」
「……貴様と少佐の信頼関係も厚いようだな」
まあね。その一言は得意げでもあり、どこか切なげでもあった。
ターニャと過ごすようになってから言葉や表情に含まれる情緒に敏感になった、そうエーリッヒは自己分析している。悪いことではない。しかし、この能力は余計なことを考えるきっかけになる。
「長い付き合いだとは聞いているが、ただ長いわけではなくよき理解者でもあるようだ」
「過分な評価をどうも。ヴィーシャの幸せを願ってるって点だけは友達として誇れるかしらねー」
幸せという言葉はエーリッヒにとって今や最上位の重要性を帯びていた。それゆえに、豪快なラッパ飲みをはじめたエーリャがひどく淡泊な口ぶりで幸せを語ったことに些細な違和感を覚えてしまった。
他人が幸せをどう扱うかなど、エーリッヒにとってはあずかり知らぬ話だ。しかし、ターニャを中心とした複雑な人間関係が網となって、エーリッヒの胸中から言葉を引き上げた。
「彼女の幸せに自ら寄与する予定はないのか」
「踏み込んでくるじゃない、閣下。私たちってそんなに深い仲だった?」
「それは……そうだな。失礼した」
「いいわよ、おいしいワイン飲ませてもらったし。……似たもの夫婦ね、あんたたち」
空のボトルを静かに置いたエーリャが、エーリッヒを睨みつけた。とはいえ、表情は自然で敵意を微塵も感じさせない。
「お酒の勢いで暴露話するけどさ、昼間、ターニャちゃんに叱られたのよ。なんだっけね……」
エーリャは復唱するように、説教の内容を口にした。
貴様がそれを望むように、セレブリャコーフ少佐も貴様の幸福を望んでいる。貴様はまだ諦めることを許されていない。私が許していない。
それは”白銀”らしい口ぶりであり、”ターニャ”らしい口ぶりでもある。重なるとは思えなかった両者の像が結びついたことにエーリッヒは驚きと喜びを覚えた。
「妻は幸せになれって言うし、夫は幸せにしろって言うし。あんたらご夫妻と一緒にいるとあてられるわね」
「おすそ分けと言ってくれ」
「ものは言いようってわけ? それなら、受け取っとこうかしら」
エーリャは立ち上がると確かな足取りでソファに向かい、眠るヴィーシャのそばに膝をついた。
エーリッヒからは見えないが、きっとヴィーシャの寝顔を見ているのだろう。それがはっきりとわかるほど、エーリャは穏やかな笑みを浮かべていた。
「――チーズの棚にプレゼントがあるから、朝までに目を通しておいて」
「プレゼント?」
「さて、ぐっすり寝て明日に備えなきゃ。付き合ってくれてありがとね、閣下」
エーリャは人差し指を唇に添えて「静かに」と口だけで伝えると、絨毯の上に横になった。
「……口をゆすぐくらいしたらどうだ」
「ぐーぐーすやすや、営業時間外でーす」
わざとらしい冗談に不可解さを覚えたが、エーリャはこれ以上答える気はないようだった。
エーリッヒはテーブルの上を片付け、言われた通りチーズが入っていた棚を開いた。入っていたのは、手のひらに収まる小ささの紙切れ。暗号化されている内容を解読すると、そこには驚愕すべき内容が記されていた。
帝国貴族の名門にして帝国を構成する領邦のひとつを担うアスカニエン家、その当主であるアルブレヒト2世がターニャを己の家に迎え入れようと動いている。ターニャの母がアスカニエン家の傍系にあたると社交界に噂を流しはじめているのだ。
狙いはわからないでもない。先の大戦で名を上げた英雄、しかも戦後しばらく表舞台に顔を出していない少女だ。婿を取らせ、アスカニエン家を継がせれば軍部とのつながりもできる。アルブレヒト2世は老齢だが子がいない。
気づくと、エーリッヒは紙切れを握りつぶしていた。あまりに呪わしい。戦争が終わってなお、ターニャ・デグレチャフを駒として指さんと伸びる手がある。
ひどく不愉快だ。
早朝、大人三人は慌ただしく家を出る準備をしていた。
「エーリャ、私のジャケット知らない?」
「畳んで鞄の中。ヘアブラシ借りるわよ」
「タオル、ここに置いておくぞ」
「すみません閣下、助かります。ターニャちゃんはまだお休み中ですか?」
「四時だからな、もう二時間は寝ているだろう。様子を見てくる。一本後の汽車に乗るから、貴官らは先に出ていてくれ」
二人の返事を背にエーリッヒはターニャの寝室へと向かった。
昔より少し物が増えた部屋は、主の性格に似てか、よく整頓されている。術式をかけなおしたらしい花束は壁へ。本は作者別タイトル順に本棚へ。髪飾りは鏡台へ。
暑さで寝苦しかったのか、白のパジャマが少しはだけている。エーリッヒは額に貼りついた金髪を指先で静かに払った。
「……お早いですね」
「すまない、起こしてしまったか」
いいえ、と首を横に振って、ターニャはエーリッヒへと両腕を伸ばした。
抱き上げてベッドに腰かけ、膝に乗せる。健康な生活で前より少し重くなったが、それを口にするほど馬鹿なエーリッヒでもない。
「体調はどうだ」
「少し寝不足ですが、それ以外は万事好調です。……何かありましたか? 少し浮かない顔でした」
「そうだな。今夜、帰ってきたらいくつか相談したいことがある」
「承知しました。あの二人はもう?」
「ああ、先に出てもらった」
では、もう少しだけ。
そう口にして、ターニャがエーリッヒの胸板に頭を預けた。
寝息が聞こえはじめるまで、そう時間はかからなかった。