【本編完結】幼女戦記 比翼幸福勲章   作:海野波香

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第32話 訪問

 書類の束を手に座るターニャは、小さくない困惑を抱えていた。

 三つの相談のうち、最初の一つは問題なく片付いた。エーリッヒが参謀次長を外れ在郷軍人学校の理事長となる話だ。新規プロジェクトではあるが、複数の省庁が噛んでいる。空中分解してエーリッヒのキャリアに傷がつくことはないだろうとターニャは読んだ。

 二つ目も驚きはしたが、申し訳なさが勝った。ヴィーシャとエーリッヒにまとわりついたよからぬ噂の話だ。できれば判明した時点で教えてほしかったと思う一方、片付いたいまだから安心して聞ける気持ちもある。なにより、ヴィーシャとエーリッヒの関係が壊れなかったことにターニャは安心した。

 しかし、最後の相談にどう答えるのが正しいのか、ターニャにはわからなかった。

 

「アスカニエン家が、ですか」

「ああ。君の母上が傍系にあたると囁かせ、否定しないことによって広めているようだ」

 

 それだけであれば根も葉もない噂とはねのけることができたかもしれない。それだけであれば。

 ターニャが目を落とした先にあるのはアイリカ・ヴェルフという女性の背景と儚げな笑顔の写真だ。

 ヴェルフ家の始祖はアスカニエン家の庶子であり、時にはヴェルフ家の子がアスカニエン家を継ぐこともあったほどに良好な関係を築いていた。しかし、人の欲は消えないものだ。アスカニエン家に男児が生まれなかったことでヴェルフ家は都合のいい跡継ぎを立てようと、アイリカに見合いを迫った。

 しかし、アイリカには好いた男がいたらしく、蒸発。家の者が捜索に当たっていたものの、見つかったのは病に崩れた死体だけだった。

 時期も、状況も、そして容姿も。すべてが一致している。

 

「この情報は間違いないのですか」

「おおよそ信じてよいだろう。宮内尚書が約束してくれた」

「なるほど。では収集は宮内省の情報機関が」

「明言こそしなかったが、間違いない」

 

 もう一度なるほどと呟いて、ターニャは写真を見つめた。

 似ている。金髪も、大きな一対の緑眼も、丸顔も。しかし、写真からでも伝わってくるほどの諦念と悲哀の入り混じった静けさを似ているとは思いたくなかった。

 

「わざわざお伝えくださったということは、ただの政治ゲームではないのでしょうね」

「私も最初はそう思っていたのだが、どうやらことは単純ではないらしい。この書類と一緒に宮内尚書が渡してきたものがある。アスカニエン家アルブレヒト二世からの手紙だ」

 

 封蝋には開けた痕跡がない。エーリッヒもまだ目を通していないとのことだ。

 ターニャは爪先で封を破った。

 そこにはただ一枚、招待状が入っていた。アスカニエン家の家紋がわざわざ専用のインクで手書きされたそれを偽造するのは困難であり、示すだけで最上位の身分証明として機能する。たかが大佐に送り付けてよいものではない。

 裏返すと、流れるような筆で一言記されている。

 

「ご夫妻で。……どこで情報が洩れたと思いますか」

「わからん。しかし、そろそろ耳聡い者には知られつつあるだろう」

 

 ターニャは頷いた。

 いくら郊外に引っ越したとはいえ、郵便物や買い物で名はわかる。加えて地元住民との交流が増え、来客も少なくない。到底隠遁とは言えない。ターニャ自身、少しずつ社会に復帰する努力をしているところだ。多少怖くはあるが、それ自体は忌避するほどではない。

 しかし、それと招待に何の関係があるのだろうか。

 

「私を手に入れたいだけなら招待するのは私だけでいいはず。……結婚させる相手がすでに決まっていて、そのためにエーリッヒが邪魔であり、”話し合い”で解決しようとしている可能性は?」

「ないわけではないだろう。噂を拡散しているのも牽制と根回しを兼ねているのかもしれん。しかし……」

「ええ」

 

 確証がない。

 数多の誤解を経て、二人は誓いにも似た約束を結んだ。それは「得られる確証から目を背けない」というそれだけのことで、しかし、二人にとっては大切な約束だった。

 アスカニエン家の老いた当主が何を考えているかはわからない。憶測ばかりで語って解決するほどたやすい事態なら悩んでいない。であれば、乗り込むしかないだろう。

 ターニャが招待を受ける意を述べると、エーリッヒは頷いた。

 

 いくら参謀次長が多忙で責任のある仕事だと言えど、帝国有数の名門に招待を受けたとあれば休む名目として申し分ない。この貴重な一日を家で過ごすことができればどんなによかったかとも思いつつ、ターニャはエーリッヒとともに迎えの車の後部座席に腰かけていた。

 礼服は帝国軍の制服しか持ち合わせていない。久しぶりの制服は少し息苦しく、あちこちの丈が足りなくなっていた。

 少なからず緊張している。銃での戦いよりも言葉での戦いのほうが得意だと自負してはいたが、その自信が膝の震えをかき消してくれるわけではない。

 無言で差し出されたエーリッヒの手を握る。ともに戦うこの人が温かな手をしている、それがターニャにとって何よりの力だった。

 運転手の気遣いかそれとも命令があったのか、道中で飲み物やら軽食やらあれこれ買い与えられた。ターニャはアイスティーを一口飲んだが、砂糖をたっぷり入れた帝国式のアイスティーが苦手だったことを思い出す羽目になった。

 三時間ほど走っただろうか。

 

「到着いたしました。玄関前までお運びいたしますので、もうしばらくご辛抱ください」

 

 大きな門を潜り、手入れのされた庭園を抜け、博物館のような重厚で歴史を感じる本邸へとたどり着いた。

 ここからが勝負だ。

 素人目にも上等とわかるお仕着せを身に纏った召使に案内され、二人は屋敷の奥へと進んだ。

 通されたのは応接間ではなく、寝室のようだった。枯れ木のような老人がベッドの上でこちらに目を向けている。手は節くれだって痣が目立ち、右目は光を失って久しいようだ。しかし、ターニャと同じ大粒の緑眼が左目に光っている。

 

「ターニャ・フォン・デグレチャフ、並びにエーリッヒ・フォン・レルゲン、ご招待に預かり参上いたしました」

「ああ……来てくれたね。儂がこの家を預かるアルブレヒト二世だ。すまない、もう少し近くへ。この目では顔が見えん」

 

 ベッドのそばまで歩み寄ると、アルブレヒト二世は震える手をターニャに伸ばし、宙を彷徨わせ、再びかけ布団の上へ落とした。

 あまりに弱々しく、今にも朽ち果てそうだ。

 アルブレヒト二世の儚い笑顔は写真で見たアイリカ・ヴェルフに似ていて、ターニャは少し胸が苦しくなった。

 

「驚かせてしまっただろう。それに、儂を疑わしく思いもしただろう。それなのに来てくれた……向こうでアイリカに自慢できる」

「閣下、恐れながら伺います。私の母がアイリカ・ヴェルフであると、どのような根拠から確信なさったのですか」

「ああ、その話もするつもりだ。しかし、先に断言せねばならんことがある。儂は君たち二人の仲を引き裂くつもりはない」

 

 主目的であった疑問が解消されたことで、かえって妙な緊張が生じた。

 背中にじわりと汗がにじむ。

 

「本当はゆっくり話したかったが、この肺がなかなかにわがままでね。いや、もう少し長生きしたいと思う儂のほうがわがままなのかもしれん」

「そのようなことをおっしゃいますな、閣下」

「君、エーリッヒ・フォン・レルゲンだね。妻の敵かもしれない相手に同情を向けてはいけない。君の目は心底私を心配している」

 

 とはいえ、そのような君だから結ばれたのだろうね。

 吐息交じりのしゃがれた声は嬉しそうでも、悲しそうでもあった。

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