【本編完結】幼女戦記 比翼幸福勲章   作:海野波香

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第33話 威光

 ターニャは老人から差し出された小さなフォトフレームを受け取った。色あせているが、それは間違いなく健康だったころのアルブレヒト二世と、幸せだったころのアイリカ・ヴェルフだ。

 

「アイリカはいい子だった。勉強熱心で、献身的で、少し夢見がちで。時々やんちゃもしたものだ。家庭教師から逃げて自分の足でこの屋敷まで来た時は驚いた。君はアイリカによく似ている」

「私は……私には閣下の仰ることを正しく理解するだけの情報がありません」

 

 名前も顔も知らなかった人物が自分の母親だなどと言われても、ターニャには納得も実感も生じなかった。ターニャがこの世界で記憶した最初の情報は流動食のまずさで、その流動食は教会を兼ねた孤児院の釜で作られた。

 アルブレヒト二世は少し悲しそうに、そうか、とだけ呟いた。

 

「私は孤児院で育ちました。そして、平和を勝ち取った今に至るまで、親族であると名乗り出てきた人間はいませんでした。もし私が閣下と同じ血を引く者であるのなら、私の人生に介入するのが余りに遅いのではありませんか」

「……そうだね、私もそう思う。君がアイリカの子、つまり儂の孫であるとわかったのは――」

「孫?」

 

 エーリッヒの口から疑問の音とともについて出た言葉は、ターニャにとっても不可思議だった。

 話を遮られたにもかかわらず、アルブレヒト二世は朗らかな表情だった。幼き頃の彼が悪戯心に満ちた少年だったであろうことが手に取るようにわかる笑みで、アルブレヒト二世は言葉を続けた。

 

「そう、孫だ。アイリカは儂の実子だよ。彼女の母ツェツィーリアはすでに潰えたある貴族家の末裔でね、周囲に担がれて私を篭絡しようとした。しかし、それはあまりに悲しい話だ。なんとか彼女を救ってやりたかった。守れたのは生まれたばかりのアイリカだけだったが……」

 

 社交界をなめていた。この短い物語で何人が不幸になったのかターニャには想像も及ばない。より深く世界を見てきたであろうエーリッヒを見上げると、首元に汗がにじんでいるのが見えた。

 

「アイリカを使ってなおもツェツィーリアの尊厳を冒そうとする者たちがいた。アイリカを守るため、ヴェルフ家の子とした。しかし、そのやり取りを見て与しやすしと思ったのだろうね。ヴェルフ家はアスカニエン家を乗っ取ろうと、食いつぶそうとした」

「しかし、閣下はご健在です」

「ああ、そうとも。私が生き恥を晒している陰にはいくつかの悲劇と英雄譚があるが……彼らの秘められた名誉に光を当てるのは今ではあるまい」

 

 アルブレヒト二世が咳き込んだ。エーリッヒが水差しを手に取り、満たされたグラスを受け取ってターニャが手渡すと、アルブレヒト二世はゆっくりとそれを口にした。

 

「ありがとう、ままならんものだ。さて、なぜ気づいたか、なぜ遅れたかだが……本当は何も知らず幸せに生きてほしいと思っていた。しかし、儂が動かねばならない理由が生じた。エーリッヒ、そう呼ばせてもらうが、その棚の上から二番目、題のない灰色の本を取ってくれるかね」

 

 エーリッヒは一瞬躊躇を見せたが、指示に従った。分厚い革表紙の本だ。金銀の箔押しは剥がれかけ、何かしらの宝玉が埋まっていたであろう台座も空洞。しかし、荘厳ではあった。

 本を受け取って開いたアルブレヒト二世は、枝のような指でページをめくった。しゃがれた声が歌うように唱えるそれは、どうやら家系図を表した詩のようだ。今となっては忘れられた古き血筋すらも編み込まれたその詩は帝国の、いや、大陸の歴史そのものだった。

 

「――ああ、これだ。君も見覚えがある名前だね、エーリッヒ」

「……ヴェート」

 

 ターニャもつい先日聞いたばかりの名だ。エーリッヒとヴィーシャの関係を噂させていたヴェート中佐を殴り飛ばした話はターニャにとっても痛快だった。

 しかし、アルブレヒト二世の指が示す樹を辿ると、ヴェートの名とアスカニエンの名が同じ祖につながっている。

 

「君たちが尽力してくれたおかげで戦争が終わった、それは喜ばしいことだ。しかし、宮廷の連中は軍という一括りでしか見ていないんだよ。エーリッヒ、君が懲らしめた男は儂の派閥の末席を汚していた。同じ軍人、片方は一代貴族でもう片方は末端とはいえ貴族の血だ」

「お待ちください、閣下。閣下は彼を処断なさるおつもりですか」

 

 焦りから言い募ろうとしたターニャを手で制して、アルブレヒト二世は話し続けた。

 

「二つの道があった。その子をアスカニエン家に迎え入れ、婿としてエーリッヒ、そう、君を迎え入れる道。もう一つは、アスカニエンの家名を陛下にお返しし、最後のわがままとして君たちの平和を陛下にお約束いただく道」

 

 理解が追い付かなかった。

 どちらの道をとってもこの老人に得することがない。ヴェルフ家から守るためと理由をつけてもエーリッヒを婿とする意味がないし、後者に至っては意味が分からない。ターニャの混乱は深まるばかりだった。

 それはエーリッヒも同じと見えて、静かに、しかしはっきりと問いかけた。

 

「お教えください、閣下。そこには何の目的があるのですか」

「目的、そうだね、それを話していなかった。孫娘に幸せになってほしい、それだけだ。アイリカの死体に会った後、陛下にお伺いを立ててね。アイリカの子が見つかったら、儂はその子の幸せにすべてを費やすと、そうお約束したんだよ」

 

 帝国の頂点に立つ男を出した以上、嘘ではないはずだ。しかし、ターニャは納得できなかった。この枯れ木を引き裂けばどれほどの蟲が這い出てくるのか、わかったものではない。きっと陰謀に満ちている。そうでなければ貴族などやっていられるものではない。

 ターニャの疑念が伝わったのか、アルブレヒト二世は小さく息を吐いた。

 

「信用できんだろうね、わかるとも。君は聡明だ。たとえ皇帝陛下が保証しようと、神託が下ろうと、確かであるかどうかを考えることができる子なのだろう」

 

 肯定はできない。不敬にあたるからだ。ターニャは沈黙で応えた。

 しかし、その沈黙はたやすく崩された。

 

「神託があった」

「そんな」

「嘘ではない。君がいま帝都から離れた片田舎にいること、心に深い苦しみを抱えていたこと、愛する者と共に過ごしていること……神はすべてを示したうえで、私に告げた。君を速やかにアスカニエン家へと戻らせ、その恋人――エーリッヒ、君を処分しろと」

 

 脳が脈打つ。

 ターニャは目の前の老人を絞め殺そうと手を上げた。存在Xの干渉を許してはならない、”あれ”の邪魔は決して受けない。その澱んだ熱がターニャに殺意をもたらした。

 しかし、かすかに残った冷静さが「アスカニエン家アルブレヒト二世を殺めて、それからどうするのだ」と囁いた。その囁きは躊躇となり、躊躇は隙となり、エーリッヒがターニャを捕まえた。

 エーリッヒがターニャの手を掴まなければ、ターニャはベッドに飛び乗り、馬乗りになり、アルブレヒト二世の首をへし折っていただろう。

 

「落ち着け、ターニャ!」

「放してください……!」

「ああ、軽率だったね……すまない。もう少しだけ話を聞いてほしい」

 

 これ以上聞く意味もないように思えた。あの存在Xに唆された者がターニャに善意を向けるはずもないからだ。

 しかし、エーリッヒがいる以上、この場で対処できるわけでもない。ターニャはひとまず手を下ろし、二人に非礼を詫びた。

 

「ありがとう。さて、神託の話だったね。私は怒鳴りつけてやったんだ。私は皇帝陛下にお仕えする身であって神の奴隷になった覚えはない、と」

「……は?」

「つまり、君たちについての情報だけ掠め取って命令は無視したわけだよ。痛快だった。今でも夢に見るほどだ」

 

 くすくすと笑う老人はまさにターニャが妄想する悪辣な貴族のそれだったが、細められた目は童心を忘れていなかった。

 限られたサンプル数ではあるが、ターニャが見てきた範囲では存在Xの言葉に逆らった者はいなかった。無神論者だった技師をすら敬虔な信徒に作り変えてしまうその力に、この吹けば飛びそうな老人が抗ったのだろうか。

 

「極東、秋津島皇国では多くの神が信仰されていると聞く。そしてそれは神が恐ろしいものであるがゆえの畏怖であるとも。恐ろしさにしろ、素晴らしさにしろ、示され、納得したからこその信仰がある。ただ恭順を促されて従うのは信仰ではない、思考を停止した隷従だ。……拙い私論だがね」

 

 ターニャの喉からは言葉が出ず、代わりに頷くことで同意を示した。

 アルブレヒト二世は崩れかけの骨董品にすら見えるというのに、彼の思想は帝国で十三年近くを過ごしてきたターニャにとって開明的に思えた。

 

「恐れながら、閣下のお立場でそのようなお考えを口になさるのは――」

「そうだねエーリッヒ、よくないことだ。曲解すれば陛下のご威光を疑うとも取れる。しかし、これであれば納得に値するのではないかな?」

「……あらぬ疑いの目をお向けしたこと、お詫び申し上げます」

 

 ターニャはようやくこの老人がある程度の事実を口にしていること、そしてどうやら自分の祖父であるらしいことを受け入れた。

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