ターニャはまだ多くの疑問を抱えている。なかでも重要なのが、この老人を動かしている理由、根拠、そういった原動力だ。
「なぜ閣下は我々にご厚情をお向けくださるのですか」
「おや、理由が必要かね? 大事な娘の忘れ形見に幸せになってもらいたい、それでは不十分だと?」
「閣下の人徳を疑うわけではありません。しかし……帝国有数の名門はそれほど軽いものなのでしょうか」
ターニャはそれほど帝国貴族の社交界や政界に詳しいわけではない。首を突っ込む機会がなかったし、そうしようとも思わなかったからだ。それでも、常識の範疇として、アスカニエン家の名が軽くないことはわかる。
質問の続きをエーリッヒが引き継いでくれた。
「名高きアスカニエン家は帝国の二大派閥に謳われる社交界の偉大な筆頭であると、そのお噂は軍にまで届いております。陛下とお約束なさった、そこに疑いを挟む余地はありません。しかし、閣下をお慕いする皆々様が納得なさるでしょうか」
「なるほど、もっともな話だ。しかしね、これは儂のわがままだ。陛下がお許しくださった駄々だ。儂に従う者であればなおのこと文句など言わせんよ。最後くらい権力を無駄遣いしてもよかろう」
理屈と言えるかもわからない主張だが、矛盾はなく、すべてが真実かすべてが嘘か、それしかありえない。
ターニャはなおも言い募ろうと口を開いた。しかし、何を言えば化けの皮を剥ぐことができるのかがわからない。結局のところ、ターニャを動かしているのは漠然とした不安と不信感なのだ。そして、それは理性的とは言えない。
「納得の材料があればよいのだが……そうだ、ではこうしよう。決めた。取引だ」
「取引、ですか」
「左様。儂は君たちの今後に帝国の政治が関与しないことを約束する。その対価として儂が要求するのは三つ」
枯れ枝が三本、窓からの日差しを遮った。
「一つ目、儂が死ぬまでの間、アスカニエン家の名を出さないこと。二つ目、自らすすんで帝国の政界に歩み寄らないこと。三つ目……」
逡巡があった。
老人のまだ光を灯している片目がターニャを見つめている。視線は髪をなぞり、瞳を経て、エーリッヒと繋がれた手へと落ちた。
「一度でいい。儂を祖父と呼んでくれないか」
エーリッヒが何かを問いかけようとしたのを感じて、ターニャは小さく彼の手を引いた。
乾ききった声から感じるものがあった。悲哀。絶望。苦痛。そして、その中に仄かな光、すなわち、愛情が宿っている。
裏があるかもしれない。それでも、ターニャは彼を信じた。信じたいと強く思った。ベッドにゆっくりと歩み寄り、力なく置かれた皺だらけの手に小さな手を重ねた。
「あなたの深い愛情に感謝します、おじいさま」
「ああ……ああ、ありがとう……」
「あなたの孫娘、ターニャは幸せに生きております。世界一素敵な伴侶を得ました」
「そうか……」
エーリッヒの手に力がこもった。思えば最初に愛おしさを感じはじめたのはこの手だ。ペンだこと傷を感じる、しかし優しく温かい手。
「心強く魅力的な友人に囲まれて過ごしています」
「そうか、そうか……」
ヴィーシャから贈られたタイとブローチが少し温かく感じる。一番付き合いの長い友達。昔は手のかかる部下で、いつの間にか大事な副官で、今では姉のような存在だ。
「今日、おじいさまとお会いすることができました」
もはや声もなく、アルブレヒト二世という男は涙に崩れていた。
「私は近いうちに姓が変わります。アスカニエンを名乗ることも、ヴェルフを名乗ることもありません。この身に流れる貴き血の価値を弁えることもないでしょう。それでも、私はおじいさまの孫です」
「君、君は……」
しっかりと目を見て、ターニャは”祖父”に”お願い”をした。
「ターニャとお呼びください」
「ああ、そうだね、そうだ、ターニャ……ああ、なんともみっともない姿を見せたものだ。エーリッヒ、本当はね、君に厳しいことを言うつもりだったんだよ。だのに、情けない話だ。……儂の孫娘だ、大事にしてくれるね?」
「は、全力を賭して」
エーリッヒの敬礼を見るアルブレヒト二世の姿は穏やかで、帝国の政界を牛耳る派閥の長には見えなかった。まだ涙が頬を伝っているが、それでも彼は貴族らしく鷹揚に頷いてみせた。それが指導者の貫禄なのだろう。
「結構。……残しておいた体力のほとんどを使ってしまった。そろそろ眠ることにしよう。運転手には帰りを任せてあるが、伝えれば昼食に相応しい店へ案内してくれるだろう。……さ、もうおかえり」
ターニャはもう一度祖父の手を握って、会釈をした。
彼が祖父であると心から受け入れたわけではない。脳内会議の冷静なターニャが抱える疑念は消えていない。しかし、その疑念や不信感は彼の涙に勝らない。
結局のところ、絆されたのだ。
「さようなら、おじいさま。お会いできてよかった」
「さようなら、ターニャ。エーリッヒ、ターニャをよろしく頼むよ」
「承知しました。あなたの孫娘は必ず幸せであり続けます」
エーリッヒに手を引かれて、ターニャは祖父の寝室を退出した。
部屋の前で待機していた家令と思しき老齢の男性に案内されて玄関へ向かい、来る時と同じ車の後部座席に並んで乗った。
この人々もアルブレヒト二世と、そしてアイリカと過ごしてきたのだろうか。
挨拶を済ませ、車が走り出した。
「……すまない、ターニャ。今日はあまり役に立てなかった」
「いえ。気を使ってくださったのでしょう?」
もしアルブレヒト二世が貴族として政治上の目的を持って動いていたとしたら、帝国軍准将であるエーリッヒは下手な発言ができない。また、アルブレヒト二世が心からターニャという孫娘との団欒を望んでいるのなら、それを邪魔すべきではない。
お見通しだと小さく笑んでやると、エーリッヒは大きく息を吐いた。
「ひどく肝が冷えたぞ。……落ち着いたら腹が減ってきた。何か買って帰るか?」
「そうですね……」
ターニャは車の窓を開けて、外を見た。
帝都からは離れているが、アスカニエン家の威光により栄えているいい都市だ。街並みに品がある。
雑踏のにぎやかさ。郊外とは違う、街の匂い。
「食べていきませんか?」
「それは、しかし……」
「大丈夫です。なんだか、そんな気分なんです」
エーリッヒは少し悩むようなそぶりを見せたが、頷いた。そこには心配の色だけではなく、確かに喜びがあって、それがターニャにはたまらなく嬉しかった。
心配されているという昏い独占欲も、回復と成長をともに喜んでくれるという明るい独占欲も、どのみち愛の一つに違いはない。ターニャは改めて己の五臓六腑に染み込んだ愛という毒を自覚した。
「失礼、運転手。お聞きのとおりです。ターニャ、なにか要望は?」
「おいしいところであれば、どこでも。……いえ、やっぱり一つ。個室のあるお店でお願いします」
「個室?」
「はい。私という人物について、お話しなくてはならないことがあります」
ターニャは覚悟を決めた。