黒い壁にかけられた灯りが暖色の光を慎ましやかに拡げている。耳をすませばテーブル席の賑やかさが聞こえるような気もするが、彼らの会話までは聞こえない。万事がほどよく整ったレストランの個室にターニャはいた。
自分で思っていたよりは落ち着いている。この日が来るとはわかっていたが、もっと慌てると予想していたのだ。もしくは、もっと恐れると。
銀のナイフをカレイのソテーに入れる、その手は震えていない。
「……それで、話ですが」
「ああ。食べ終わってからでも構わんが、今か?」
「はい、そのほうが楽なので」
それでもさすがに最初の一言を発するのは緊張する。経験上、始めてしまえば早いのだ。それは”両方の”経験が示している。
ターニャはナイフとフォークを置いた。
「私には、今とは異なる人生の記憶があります」
「今とは異なる、人生……それは君自身の記憶なのか」
「はい。私の……男性として生き、殺された私の前世です」
エーリッヒは口に運ぼうとしていたグラスを静かに置いた。眼鏡の奥で瞼が閉じ、再び開かれる。疑念の色はない。不思議なことに、困惑の色も薄い。
「今より未来の話です。それも、こことは異なる分岐を選んだ世界……言うなれば、別の次元でしょうか。前世の私はそこに生きていました。かつての私と同様、冷酷さと冷徹さによって順調に仕事を進めていき、恨みを買い、殺されました」
この人生では生き延びましたが、と嘯いてみせすらする。エーリッヒは笑わなかった。しかし、誠実で真剣な表情は崩れなかった。
思い返せば、前回も今回も似たような形で命を狙われている。前回も今回も上司の命令に従って行動した結果だ。もちろん、人の神経を逆撫でする振る舞いが合理的でなかったことをターニャは自覚したが。
「神を名乗る存在が私をこの世界へと転生させました。私の信仰心のなさに怒り、弱者として苦境に立たせれば回心するであろうと。結果はご覧のとおりです。私は信仰心も抱かず、ターニャとして新たな人生を歩み……ここでカレイを食べている」
「……なるほど」
エーリッヒの眉間に皺が寄るのを見てしまい、ターニャは思わず俯いた。
視野がぐっと狭くなっていく奇妙な感覚。軍人はこれを”戦死の予兆”と呼ぶ。ターニャはこの現象を敗北と死の可能性にたどり着くだけの条件を認識してしまった結果生じる緊張と説明できるが、予兆にせよ緊張にせよ危険を感じているのは事実だ。
話すべきではなかったのかもしれない。しかし、話さねば誠実ではない。その不誠実にターニャの心は耐えられない。
ターニャの頭に衝撃と痛みが走った。
顔を起こすと、エーリッヒが握りこぶしをさすっていた。
「君は石頭だな……。ターニャ、そういうことはもっと早く言ってくれ。何かあったらどうするつもりだったんだ」
「どうする、とは」
「神、いや、何者かわからんが、それは明らかに人智を超越した存在なのだろう。それはいい、変えられることではない。しかし、それが悪意を持って干渉してくる可能性があるのだから、もっと早くに対策をするべきだった」
「いえ、あの、エーリッヒ」
「どうした」
「私は……私は男だったとお伝えしたはずですが」
「それで? ああ、なるほど、話が見えた。頭を出しなさい、もう一発拳骨を落とす権利が私にはある」
ターニャはそれを甘んじて受け入れた。先ほどよりも重い衝撃がターニャの頭蓋に響いた。
エーリッヒはうんざりした顔で自分の手首を押さえると、ため息をついた。しかし、それは不快感や怒りの籠ったものではなく、どちらかというと呆れを思わせた。
「君の前世とやらがその何者かに植え付けられた偽の記憶でないと誰が証明できる?」
「それは……そうですが、私の人格形成はその記憶によってなされていて」
「ならそれでいいだろう。私もゲーテにかぶれて勉学に励んだ時期がある。創られたものに影響されたのは同じだ」
「違います」
「違わん」
「違います!」
ターニャは初めて、怒りを込めてエーリッヒを睨んだ。
思えばターニャは今まで喧嘩というものをしたことがなかった。せいぜいがシューゲル技師と見解の相違で怒鳴りあいになったくらいだが、あれは命の危機を感じての主張であり、怒りなど覚える暇はなかった。
初めて喧嘩をする相手が自分の愛する人で、しかもその理由が自分を思いやってくれるからとは、何ともわがままな話ではないか。
「私もさすがに怒るときは怒るぞ、ターニャ」
「私も怒っています。……あの記憶だって、確かに私なんです」
「そうだろうな」
「あの前世があったから私は知識と経験を活かし、生き残ることができました」
「さもありなん」
「どうして、そんな顔をなさるのですか。まるで、どうでもいいと言いたげな顔を」
「どうでもいいからだ」
断言したエーリッヒに、ターニャは言い返せなかった。怒り、苦しみ、それを怒涛の如く追いやってなお足りない、悲しみ。その感情の根源は「理解してくれない」というあまりに幼稚なものだ。理解している。自覚している。それでも。
「私からすれば、小さいころ君が見た長い夢の話をされているのとさほど変わらない。夢の内容を聞く分には興味深いだろうが、なぜその夢を私が咎めねばならない」
「それは……」
「当ててやろう。君は恐れていたな? この話をすれば私が不快になる、いや、君を嫌いになると。その根拠は何だ?」
ターニャは手の甲が白くなるほど膝の上の両手を握りしめた。
思う以上にエーリッヒはターニャの不安を理解していて、思う以上にエーリッヒはターニャの前世に無関心だった。
根拠。根拠などわかりきっている。転生した先の世界で前世を明かせば不気味がられることなど、多くの物語で――
「あ……」
そう、物語。誰かが考えた架空のお話で、架空の人々が架空の感情を扱っていた。ターニャはそれに自分を投影していたのだ。目の前の大切な人より、物語を信じ込んでいたのだ。
ひどく情けなかった。視界がぐにゃりと歪んで、頬を温かいものが伝っていって、自分が泣き出したことに気づいた。嗚咽が漏れるまではあっという間だ。
今日は涙をぬぐう優しい手がなかった。
「私は思っていたより君の信用を勝ち得ていなかったようだな」
「ちが、ちがうんです」
「何も違わん。……なぜどうでもいいかをもう少し詳しく語ろう。疑うに値しないからだ。君が真面目な話をするのなら、それは君にとって真面目な内容だろう。それを疑う理由が私にはない」
「……ごめんなさい」
「それは何についての謝罪だ」
「あなたを、信じなかったことです。ずっと、言いたくて、怖くて」
大きなため息が聞こえた。
ややあって、彼の手が少し乱暴にターニャの頭を撫でた。髪を崩す指先の力強さは初めて感じるもので、驚きと温かさにターニャの涙が止まった。
「私も謝ろう。すまない、きつい言葉で君をいじめてしまった。許してくれるか?」
「はい、許していただけるのなら」
「もちろんだ。そして、はっきりと伝えておく。君がどのような記憶を持っていようと、どのような過去を抱えていようと、私はその記憶や過去によって構築された今の君を愛している」
それはすべてを肯定する言葉だった。