ようやく落ち着いた様子で食事を再開することができた。エーリッヒからすればよき日以外の何でもない。ターニャが自分から外で過ごすことを望み、しかもずっと隠してきた秘密を明かしてくれたのだ。
とはいえ、ターニャが抱えてきた”過去”はどうやら軽い気持ちで流すわけにもいかないようだった。記憶が事実であろうとなかろうと、神を名乗る何者かがターニャに干渉したことは間違いない。人の記憶を人格に影響するレベルで書き換えるなど、人智を超越している。
この一点において、たちの悪い夢だと笑うこともできなくなる。アルブレヒト二世が口にした”神託”と結びつくことでその超越者が実在することが示されつつある。まだ明確ではない。しかし、もはや否定するのには証明を要求される段階に来ている。
しかし、焦ったところで何が変わるわけでもない。
「そろそろデザートが来るころか。君のは確か、マスカットのトルテだったな」
「はい、目にも爽やかで夏にはいいかな、と。あなたのはロー、ローテ……」
「ローテグリュッツェ。噛まずに言えたのは今が初めてだ」
「実は見たこともなくて。どんな味ですか?」
「どんな味……うまいのは確かだが、説明するとなると難しいな。食べてみるか?」
「よろしいのですか?」
「もちろん」
「嬉しいです。では、トルテもお分けしますね」
「ありがとう。お、来たようだ」
ノックに応答すると、給仕が静かに戸を引き、デザートをテーブルに置いて去っていった。よく訓練されているのだろう、見事な重心移動にエーリッヒは感嘆した。
正直なところ、この高級感あふれる店構えにはまだ少し馴染めていない。エーリッヒの実家はさほど裕福ではなかった。まだ今年で二十九歳のエーリッヒがこういった上等な店で食事をとる機会はほぼなかったと言っていい。
そうはいってもおいしいものがおいしくなくなるわけではない。風格に圧倒されて味がわからなくなるようなメンタリティであれば軍務が務まるはずもない。エーリッヒはよく冷えたローテグリュッツェにバニラソースを回しかけ、スプーンを入れた。
「名前からわかってはいましたが、赤いですね」
「カラント、ベリー、チェリー。夏の赤が結集しているからな」
一口分を掬い取って口に運ぼうとすると、ターニャの視線が刺さった。
エーリッヒが目をやると、期待とかすかな羞恥が頬にうっすらと紅を差している。スプーンを動かせば目が動く。
期待を理解して、エーリッヒはスプーンを差し出した。
「ほら」
「ん……おいしいですね! 酸味がしっかりしていて、でも甘味が華やかで、それをバニラが包み込んでいて」
「気に入ったのならよかった。ついてるぞ」
ターニャの口元に残ったバニラソースを指先で拭って、癖でそのまま舐めとった。野生の木の実で作ったローテグリュッツェはエーリッヒが小さいころ口にした唯一の甘味で、バニラソースを使うのはお祝いの日だけだった。
しかし、そんな思い出とは関係なく、恋人の口元についたソースを拭って舐めるという自分の挙動にエーリッヒは硬直した。いつぞやターニャに「気障男。軟派者。女たらし。馬鹿」と怒られたのを思い出す。
ターニャは茹で上がったように顔を真っ赤にしていたが、ゆっくりフォークを手に取り、トルテを一口大に切って載せた。
「あ、あーんしてください」
エーリッヒが口を開くと、わざと唇を掠めるようにしてトルテが侵入してきた。止まりかけの思考が舌からの報告を受け、「爽やかな酸味があってうまい」という認識だけが残った。
ターニャがエーリッヒの口へと指を伸ばしたが、テーブルに阻まれて届かない。
「あの、ついているので……もう少しこちらに……」
「あ、ああ」
促されるままにエーリッヒはテーブルに手をついてターニャの側へと身を乗り出した。
ターニャの小さな手は口を通り越して耳へと届き、そのまま頭を押さえ、そしてターニャの柔らかい唇がトルテの欠片を奪っていった。ほのかにローテグリュッツェの果実が香っている。
座りなおしたターニャは赤く染まった頬もそのままに、小さく笑みを見せた。
「おいしい、です」
「……ああ、おいしいな」
恥ずかしさに腹の底がむずがゆくなるような感覚で固まっていると、給仕が食後の飲み物を運んできた。エーリッヒはできるだけ平常を装い、二人分のコーヒーを運んできた給仕に礼を伝えた。
普段は気分次第で砂糖を入れることもあるが、頭を落ち着かせなくてはならない。
いい豆を使っているのが立ち上がる香りだけでもわかる。口に運べばバランスのいい苦味と酸味が舌に残った甘さを押し流し、コクとともにより濃厚な香りが抜けていく。豆だけでなく淹れる者も上等のようだった。
コーヒーにやたらうるさいターニャも満足したようで、小さく頷いている。男性だった記憶を持っていると聞いたからこそ、どうにも微笑ましく思えた。
「それで……話の続きだが、その神を自称する超越的な何かは何と名乗っている?」
「神とだけ。私は存在Xと仮称しています」
「なるほど、ではそう呼ぶことにしよう。その存在Xが明確に干渉した場面はどのようなもので、どのような状況だったか。聞かせてくれ」
ターニャは苦々しげに口を曲げたが、コーヒーカップをソーサーに置いて指を組み、語りはじめた。
「最初の遭遇についてはお話したので、その後、つまりターニャとして見聞きしたことを。私以外への干渉を確認したのは工廠主任技師のドクトル・シューゲルが最初です。実現の困難な開発に助力し、彼を信徒にしました」
「ふむ……そのエピソードだけを切り取れば好意的とも読み取れるが、危険なことに変わりはないか」
「はい。加えて、開発された演算宝珠エレニウム九五式は神への祈りを捧げないと機能しません」
九五式についてはエーリッヒも調べたことがある。あの”白銀”が使う専用品だと噂になっていたのだ。もしそれが彼女の強さの源なら、他の魔導師にも普及させることで戦力の大幅な向上が望めると考えたのはエーリッヒだけではない。
しかし、いま話を聞く限りでは、その装備は呪われている。
「ある種の条件付けを狙ったのでしょうね。祈りを捧げると力が生じ、力によって危機を打破する。さらに、明確ではありませんが、信仰心を増幅させる精神汚染が生じているとも感じました」
「それは……神というより悪魔だ」
エーリッヒの頭に浮かんだのはウェーバーの魔弾の射手だ。もしくはゲーテのファウストでもいい。力を与え、心を奪おうとする。おぞましいやり口だった。
「同感です。次に干渉を確認したのは連合王国の部隊に混ざっていた魔導師、装備から見ておそらく協商連合の残党でした。条約違反のトレンチガン、それも不自然なほどの高火力で、私のみを狙っていました」
「高火力のトレンチガン。それも存在Xによるものだろうか」
「その可能性は高いかと。ヴィーシャの加勢があって打破、自爆を確認しました」
指を組んだことで隠れてはいるが、ターニャの手がかすかに震えている。存在Xへの恐怖、その力を得た敵兵への恐怖、死への恐怖。彼女が無視して蓄積していったそれが爆発したことで、今の傷がある。
エーリッヒが手を彼女の手に重ねると、ターニャは頷いて、小さく息を吐いた。
「ありがとうございます。……最後に確認したのは、連邦戦で遭遇した多国籍部隊の女性魔導師です。おそらく、私とさほど歳は変わらなかった」
「……私が言うべきではないのだろうが、おぞましいな。年端もいかない少女を尖兵にするなど」
「ええ。奴は強力でした。光学術式で建築物を焼き切るほどの火力、九五式を限界まで働かせて振り切れない速度、そして額を撃ち抜いても死なない異常な生命力。とても神の御業とは言えない。冒涜的です」
エーリッヒは頷いて同意を示した。
神を僭称する何者かが介入し続けた戦争。終結こそしたものの、多くの命が失われた。この戦争が存在Xの望み通りであったなら、それは神のすることではない。少なくとも、信仰には値しない。
ここまで考えて、エーリッヒはおぞましい可能性に辿り着いた。
協商連合の越境が戦争の火蓋を切った。調査の結果、越境の原因は領土問題の解決を叫ぶ市民感情であると判断された。しかし、本当にそれだけだろうか。そもそもこの戦争がターニャを苦しめるためだけに用意された舞台、もしくは作品だとすれば――。
「エーリッヒ、大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
「……ああ、いや。さすがにぞっとした」
心配の色を浮かべるターニャに微笑んでみせて、エーリッヒは思考を切り替えることにした。どのみち証拠はない。であれば、最大限の警戒をするだけだ。
幸いにして帝国では宗教者の権力が小さい。無神論者も少なくないほどだ。エーリッヒも軍人の倣いとして神に戦勝を祈ったことはあるが、具体的に神のことを考えたことはなかったし、興味もなかった。
「秋津島皇国では一千万近くの神を崇拝していると本で読んだことがあるが、あの類ではないのか?」
「ああ……確かに、ありえます。かの島国で神と呼ばれているなかには、帝国で言うところの妖精や英霊も含みますから」
「詳しいな」
「前世の記憶では異なる道を辿った秋津島皇国に生きていました。……そうだ、秋津島皇国に旅行に行ったら私の記憶を証明できるのでは」
「馬鹿、危険な神に目をつけられているのかもしれないのにその総本山に行く気か」
どうにも話がずれてきた。
とはいえ、ターニャが落ち着いた様子でトルテにフォークを入れているのを見ると、心が安らぐ。ターニャ自身が存在Xへこれといった感情を抱いていないようだ。対策を考えたくはあるが、神を名乗ることができるほどの相手に策を練ったところで役に立つかは怪しい。
「結局のところ、災害だと思うしかないのでしょうね」
「まあ……そうなるか。結婚式は教会でないところで挙げよう」
ターニャの手が跳ねてトルテに載っていたマスカットがテーブルに落ちた。
「結婚式」
「あ、ああ。その……もし君が承諾してくれるのなら、そろそろ動き出そうと思っていた」
ヴィーシャの言葉を思い出す。恋人としての時間を楽しみたいだろう、と。しかし、エーリッヒの感情も理性も結婚を求めていた。
そして、エーリッヒは失敗を自覚した。明らかにその流れではない。もっと適切な瞬間があったはずだ。素敵な、一生の思い出となる、最高の求婚をしたかった。
ターニャのつぶらな瞳から涙がこぼれはじめたことで、エーリッヒの胸はひどく締め付けられた。
「すまない、君を傷つけるつもりは……いや、これは言い訳か」
「違う、違うんです……私、嬉しくて」
拭っても拭っても止まらない涙で袖を濡らしながら、それでもターニャは笑顔だった。あまりに安直な話だが、その様子だけでエーリッヒは救われた気分になる。
「もちろん、私は――」
「待ってくれ。その、返事はもう少し後で。情けない話だが……サイズがわからなくて指輪を買っていなかった」
今度こそ笑いがはじけた。