流れゆく車窓のながめに鼻歌の一つも奏でれば、レールと車輪の合いの手が心地よい。たたん、たたん。
「ごきげんだな、ターニャ」
「ええ、もちろんです」
膝に置いた麦わら帽はエーリャから、空色のワンピースはヴィーシャからの誕生日プレゼントだ。そして、それらに身を包んだターニャは、川べりの避暑地へと向かっている。
医師の許可を得て、ターニャは誕生日を川遊びに費やすことに決めた。今日は九月の二十三日。夏はほとんど終わってしまったが、その残滓が今日も天高くから照り付けている。
森林三州誓約同盟、ターニャの前世では国名をスイスとしていた美しき高原が近づくにつれて、風が涼しさを帯びていく。
「よろしかったのですか、三日もお休みを取って」
「無理をしなかったと言えば嘘になるが、無理をすれば休める程度ではある」
「それは……ありがとうございます、私のために無理をしてくださって」
ごめんなさいよりありがとうございます。初めてエーリッヒが訪ねてきたときに教えてくれたことだ。ターニャはこの言葉をとても大切に思っている。
自惚れたことを口にするのは気恥ずかしいが、それでも少し照れ臭そうに笑みを返してくれるエーリッヒを見ることができるのなら安いものだ。
草々が波打つ高原を抜けていく。
コンパートメントの棚には三日分の荷物が置いてある。もちろん川遊びの道具も。サンダル、虫よけ、タオル、そして水着。人生初の水遊び、それも恋人と誕生日に。夢でも見ているかのようだった。
「貸別荘に着いたら荷物を置いて、昼食を買ってから川に向かおう。水に入るのなら軽い食事のほうがいいか」
「なにか地元の名物はありますか?」
「そうだな……確かシュバイネハクセがうまかった」
「豚の脚のローストですか。それのサンドイッチがあればよさそうですね」
「ああ、探してみよう」
荷物を手に降車し、貸別荘からの迎えの車に乗り換える。運転手の男性は陽気かつ礼節を弁えた好人物で、これから向かう別荘にも期待が持てた。
運転手曰く、例年はこの時期になるともう水が冷たくて川遊びどころではないが、珍しく残暑の厳しいこの年はまだ入れるとのこと。
道中で運転手おすすめの店に寄り、サンドイッチとレモンティーを購入。観光地ゆえかターニャには少し高く思えたが、エーリッヒは表情を変えずに会計を済ませていた。
そして、別荘に到着。
中に入るとほどよい涼しさに包まれた。気を利かせて冷房を運転させておいてくれたのだ。
「落ち着いた雰囲気ですね。調度品も品があって」
「そうだな。川までは歩いて行けるようだが、少し休んでからにするか?」
「悩みますね。今何時でしょうか」
「十一時だ。昼食には少し早いな」
「それなら、ピクニックにしませんか? 川辺でお昼です」
「それはいいな、そうしよう」
旅行鞄から水遊びの荷物を取り出し、施錠して出発した。帝都にほど近い自宅と違って風に熱気が少なく、心地よい。自然を残して舗装された道を下っていくと、じきに水音が聞こえ始めた。たまらずターニャは駆け出した。
「――すごい」
木々に囲まれた川が岩に切られて白波を立てている。
空気が澄んでいるとはこのことを言うのだろうか。見るものすべて、聞く音すべてが透明だ。
今ならわかる。人はこの自然に神秘を見出したのだ。呑まれる、あるいは圧倒される、その感覚を理解できた。否、それは理解ではない。実感しているのだ。
ふいに吹き抜けた風が、ターニャの帽子を攫っていった。
「おっと。危なかったな」
いつの間にか追いついていたエーリッヒが帽子を掴み、ターニャの頭に載せた。少しも気配に気づかなかったのは景色に見惚れていたからだろうか。少し恥ずかしかった。
「ありがとうございます、エーリッヒ」
「気に入ったか」
返事の代わりにターニャは彼の腰へ手を回した。
「来てよかったです」
「満足するのが早いぞ」
「いいえ、言わせてください。……”ここ”に来てよかった」
そうか、と答えてエーリッヒはターニャを抱き上げた。
「もっと喜んでもらうぞ。テントを設営する、手伝ってくれ」
「はい、お任せください」
貸別荘のオーナーから借りたテントを手早く張り、荷物を置いて、二人は昼食にした。シュバイネハクセのサンドイッチは豚肉の皮がぱりぱりと心地よい食感で、味も焼き加減も抜群だ。
前世にこのようなシーンはなかった。すべてが新鮮で、すべてが色づいている。
「ごちそうさまでした」
「ああ、ごちそうさまでした。着替えるか?」
「はい。楽しみにしていてください」
「もちろんだ」
ターニャはテントに入り、水着に着替えた。
黄色のビキニ。サイドの紐を結んで繋げたデザインは乙女街道の先輩であるエーリャとヴィーシャにも「似合う」と絶賛された。
そしてその上にパーカー風の白いレインコート。
普段より高めの位置で結わえてポニーテールにした髪を整え、完成。出撃準備よし。
ターニャはターゲット――エーリッヒに向けて進発した。
「お待たせしました」
「ああ、いや、待っては……」
岩に腰かけていたエーリッヒが目を見開いている。しかし、負の感情を表しているわけではないようだとターニャは判断した。
レインコートの裾を押さえていた手を放し、その場でくるりと回ってみせる。
「感想を頂戴したく」
「えー、ああ、その……驚いた。なんというか、大胆だな。いや、もちろん悪いと言っているわけではない。それから……」
「それから?」
エーリッヒは少し黙って、首の後ろを掻いて、目を泳がせて、それからようやく降参した。
「世界一可愛いぞ、ターニャ」
「ありがとうございます、エーリッヒ」
シンプルな男性用水着に着替えたエーリッヒと手を繋いだまま、ターニャはゆっくりと川の流れに踏み込んだ。冷たいが、凍えるほどではない。水遊びを感じるにはちょうどよさそうだ。
そして、ひどく間の抜けた話ではあるが、ターニャは気づいた。
「ぜ、絶対に手を放さないでください。絶対ですからね」
「ああ、わかっているとも」
泳いだことがない。
これは何の冗談でもなく、泳ぐ機会が一度もなかったのだ。最後に泳いだのは前世の高校三年生の体育。はるか昔の記憶だ。当然体も覚えていない。
エーリッヒの苦笑を感じながらも、水面から目を離すことができない。人間は水深十センチでも溺死しうるのだ。気が抜けない。
「そんなに体を強張らせているとかえって沈みやすくなるぞ」
「強張りたくて強張っているわけではありません!」
「確かに。もう少し水の中を歩いてみるか」
ほとんどエーリッヒにくっつくような形で川を進み、ターニャの腰ほどの水深までやってきた。一周回って気分が落ち着いてきたようにも感じる。水に慣れてきたのだ。
とん、と川底を蹴ってみると、体が水中にゆるりと浮き上がり、そしてゆるりと落ちていく。透き通った水面の向こうに自分がいる。悪い表情ではない。
何度か水中の感覚を確かめて、ターニャは居心地の良さを理解しはじめた。
「ちょっとだけ泳いでみます」
「ああ、両手を掴んでおくからまずは浮いてみなさい」
「はい。……いきます!」
手を握ったまま足を上げ、目を閉じて水流に身を任せる。一瞬沈みかけて慌てたが、エーリッヒの助言を思い出し、息が続くまで体の力を抜いてみることにした。
水の中は賑やかで、こもった音を立てて川が鳴いている。どんな景色が広がっているのか気になって瞼を上げた。
岩肌に光の糸が連なって泳いでいる。とどまることのない変化が輝き、同じ形はどこにもない。それを包み込む水の世界は、どこかターニャの瞳に近い緑色をしていた。
感嘆の声を漏らそうとして口から大きな気泡が漏れる。ターニャは慌てて足をつけ、顔を上げた。
「けほっ」
「大丈夫か?」
「はい、ありがとうございます。水の中、とてもきれいでした」
「そうか、それはよかった」
それから一時間も水の中にいただろうか。少し疲れと寒さを感じて、二人はテントへ上がった。肩を並べて座り、二人で一枚のタオルを羽織る。温かい。さらに暖を求めてエーリッヒにすり寄ると、胸に視線を感じた。
見上げた時にはもう顔をそらしていたが、かえって見ていた事実を強調している。
「気になりますか?」
「ん、ああ、よく似合っていると思うが」
「ありがとうございます。では――」
エーリッヒの手を取って、水着の紐に彼の指をかける。手が強張っているのを感じた。
「この紐を引けば、解けますよ」
「……外だぞ」
「外ですね」
ターニャはエーリッヒの頭を抱き寄せ、耳に口を当てた。エーリッヒが身じろぎするが、構わず言葉を発する。
「あなたで温めてほしいです」
指が、紐を解いた。