卵、砂糖、薄力粉、生クリーム、牛乳を混ぜ、バターを塗った型に流す。このとき、粗めの濾し器で濾すことができればより望ましい。何度かテーブルの上で落とすようにして空気を抜く。洗ったクランベリーを並べる。予熱しておいたオーブンへ。
クランベリー・クラフティが焼き上がるまであと三十分前後。
エーリッヒは額の汗を拭おうとして、手が汚れていることを思い出した。
手を洗いながら思い返す。ジャガイモの皮もまともに向けなかった男が、恋人のためにケーキを焼くようになった。二年前の自分からすれば信じがたいことだろう。
川から戻ってきてシャワーを浴びたあと、ターニャはすぐに眠ってしまった。初めての遊泳だけが疲労の原因ではない。
洗い物を済ませ、ラジオをかけてソファに腰を下ろす。
「――本日最後のお便り。ラジオネーム包み鰊さんから。『コンスタンツ放送局のみなさん、パーソナリティのドクトル・ヘーブラー、こんにちは。いつも職場で楽しく聞かせていただいています。終戦からしばらく経って、私の職場であるライン川観光組合事務所にも活気が戻ってきました。とはいえ盛況だったライン滝もそろそろオフシーズン。せっかくなので休暇に趣味の日帰り観光をしたいと思っています。この秋おすすめの観光地をご紹介いただければ幸いです』とのことです」
一度も噛むことなくすらすらと読み上げるのはまさに熟練の技といったところか。エーリッヒは仄かに眠気を感じたが、明日以降の参考になると思ってラジオに耳を傾けた。
「観光組合の職員さんに観光案内をするのはなかなか勇気がいりますなあ。そう、包み鰊さんがおっしゃる通りいよいよ秋ですが、マイナウ島の庭園では花々と紅葉が出迎えてくれることでしょう。それに最高のワインも。ええ、私はボーデン・ワインが大好きですとも」
マイナウ島はライン川に連なるボーデン湖に浮かぶ島だ。花の島とも呼ばれるように、島全域が庭園として整備されている。エーリッヒは学生時代に誘われたことがあったが、運悪く風邪を引いて行き損ねた。それ以来忙しさで近づいてすらいない。
選択肢としてはありだろう。エーリッヒは頭の中でメモをした。
「これは先週発表されたばかりなのですが、このコンスタンツから北のヴァインハイムまでを観光街道として帝国観光局が指定しました。今後は夢想街道と呼称されるそうです。包み鰊さん、お仕事が増えそうですね。はたしてお休みは取れるでしょうか」
放送局の職員と思しき笑い声が背景に入った。
残り二日の休みで街道周辺のすべてを覗いている暇はないが、見どころは多い。戦時中は立ち入りが禁止された黒の森も解放されているし、帝国の名城を眺めることもできる。
「ここで観光情報。メーアスブルクの新城で帝国が誇る美大生たちが卒業制作展を開催中です。コンスタンツ放送局にお問い合わせいただければ入場券とポストカードのセットがお得に入手できますよ。そんなところで本日もお別れのお時間がやってまいりました。コンスタンツ放送局からお送りしたのはドクトル・ヘーブラー。また来週お会いしましょう」
番組の継ぎ目となる交通情報が始まった。
明日か明後日に必ず行きたいのがギンゲンという都市だ。ここはテディベア発祥の地で、それとなく話したところターニャも興味を示していた。
残りの候補についてはターニャと相談して決めるのがよいだろうと考えながら、エーリッヒはオーブンの様子を見に行った。
「おっと……もう大丈夫そうだ」
自宅のものより少し火が強いらしく、十分火が通っていた。ミトンをはめてクラフティを取り出す。カスタードの甘い香りがどっと押し寄せてきた。
これがお祝いの主役だ。蝋燭も十四本用意してある。
誕生祝いは誕生日当日の夜にするのが伝統的だが、明日は遠出になる。料理をしている暇がない。話し合った結果、前日である九月二十三日にお祝いをしようと決まった。
貸別荘のオーナーに頼んで買っておいてもらった食事を並べ、グラスとワインを用意し、燭台に火を灯す。準備は完璧。時刻は一八時半。エーリッヒはターニャを起こしに寝室へと向かった。
「ターニャ、食事の準備が……起きていたか。おはよう」
「おはようございます、エーリッヒ」
ベッドに腰かけていたターニャはまだ眠気が残っているようで、あくびの涙が睫毛を濡らしていた。
両手を伸ばしたターニャに催促されるままに抱き上げ、頬に口づけを落とす。
「一日早いが、お祝いをしよう」
「はい。嬉しいです、とても」
リビングルームに連れていくと、ターニャが小さく歓声を上げた。
ターニャから聞いた話では、誕生日のお祝いをするのは初めてだという。帝国では自ら企画して招待状を送るのが誕生祝いの形で、性格的にも環境的にもターニャがそれを実行することはなかっただろう。だから、これが初めてのお祝いだ。
ターニャを椅子に座らせ、クラフティの蝋燭に火を点ける。
「明日十四歳になる君に祝福を。おめでとう、ターニャ」
「ありがとうございます。早く大きくなりたいもどかしさもありますが、こうして過ごす時間を大切にしたくもあり、なんとも難しいです」
「なんとも君らしい感想だ。さ、蝋燭の火を」
ターニャが息を吹きかけて十四本の蝋燭を消した。
料理はどれも美味で、ワインも好みに合ういい品だった。クラフティはまだ少し温かかったが、ターニャはおいしいと喜んでいた。静かな空間だが、寂しさはない。お互いのこれまでを語らい、これからしたいことを考えた。
総務部の引継ぎも片付き、この冬からエーリッヒは在郷軍人学校の理事長としての仕事も始まる。ますます残業が増え、今日のように休暇をもぎ取るのも当分は不可能になるだろう。だからこそ、この三日間を大事にしたいと思っていた。
「明日だが、君さえよければプレゼントを買いに行きたい。テディベアはどうだろうか」
「テディベア……考えたこともありませんでしたが、素敵ですね。よろしいのですか?」
「もちろんだ。この州に有名なテディベアブランドの本店がある。その店を覗いて、そのあとは時間次第で見に行く場所を決めよう」
頷いて感謝の言葉を口にするターニャは活力に満ちていて、健康が戻りつつあることを実感させた。
翌朝、二人は鉄道で北上しギンゲンへ向かった。
ギンゲンにはテディベアで知られるシュタイフの本店がある。街角にもテディベアのちょっとした像があったり、テディベアを模した看板があったり、なかなかに愛くるしい町だ。
店舗には少なくない数の客がいたが、それ以上に多くのテディベアが陳列されていた。大きさ、形、色、毛の長さ、多種多様な熊の軍勢にエーリッヒが圧倒されるのも仕方のないことだ。
「テディベアと一口に言ってもいろいろあるのだな……」
「そうですね、目移りしてしまいます」
二人して心細さにきょろきょろしていると、女性店員が案内のパンフレットを手に声をかけてくれた。
定番の選び方は生産された年によるものらしく、生まれた年や結婚した年のものを買う客が多いらしい。生まれ年のワインのようなものだろう。ターニャの場合はファーストベア――初めて手にするテディベアであることを考えて、生まれた年のテディベアを見せてもらうことになった。
「なるほど。少しは絞り込めたか」
エーリッヒが漠然と棚を眺めていると、ターニャが一体の白いテディベアを手に取った。毛の長さからか全体的に丸い雰囲気だ。
白いテディベアを抱えてみたり、撫でてみたりしているターニャはすっかり頬が緩んでいて、気に入ったと一目でわかる。
「気に入ったか?」
「……はい。この子がいいです」
エーリッヒは頷いて、店員に声をかけた。
リボンを用意している間に名前を考えることになったが、ここで行き詰まった。二人ともこの手のネーミングセンスがない。しかし、一生ものの新しい家族に下手な名前を付けるわけにはいかない。
白を意味するヴァイスだと昔の部下と被る、牛乳を意味するミルヒでは紛らわしい……。しばらく悩んで、ターニャがぽつりとつぶやいた。
「モチ」
「モチ?」
「あ、その、秋津島の伝統食です。米を蒸して搗いたもので、年始のお祝いとして好んで食べられています」
「なるほど。モチ、モチか。いいのではないか?」
首にリボンを巻かれた白いテディベアはモチと名付けられ、ターニャにとって二人目の家族となった。
会計を済ませ、箱を受け取る。ここで収納していくこともできたが、ターニャは抱いて連れていくことを選んだ。今日は白いシャツに胸下からの若葉色のスカート(ジャンパースカートというらしい)で、抱かれたモチが映えていた。
随分と気に入ったようで、柔らかな体毛に顔を埋めている。
「転ばないように」
「はい。ありがとうございます、エーリッヒ」
「ああ。誕生日おめでとう」