名も知らない敵兵に撃たれる。
名も知らない敵兵に刺される。
名も知らない敵兵に殴られる。
名も知らない敵兵に踏まれる。
名も知らない敵兵に笑われる。
それでも、死ぬことはできない。彼らを殺して生きているがために。
許さないという一言がこだまする。
まるで地獄が歓迎しているかのように、赤黒い沼がターニャを飲み込んでいく。
そこに味方は誰もいない。
「――ッ!」
飛び起きたターニャは、右肩の痛みに顔をしかめた。
嫌な汗をかいている。シャワーを浴びたいが、傷を覆っているガーゼと包帯が濡れないようにしなくてはならない。
「糞、忌々しい……」
先ほどまでの思い出したくもない地獄絵図は、夢だ。ターニャはもう二週間同じ夢を見続けている。
下手人が単独犯と判明し、処刑されてなお、ターニャは恐怖を感じていた。ターニャも己の怯懦を認めたくはないが、それが事実だった。
ぱさついたサンドイッチを牛乳で流し込んで朝食を済ませ、薬を飲む。最近は新聞もラジオも確認していない。怖いのだ。
ベッドの上で膝を抱え、昨日の職場にあった些細な失敗たちを悔やんでいると、病院の時間になる。見てもらうのは肩の傷ではなく、心の傷だ。つまり、精神科だ。
外に出ると、まだ秋口だというのにコートと帽子を纏ったターニャに不審な目を向ける者もいたが、ターニャはそれを無視して足早に病院へと向かった。
待合室には様々な症状を抱えた人たちがいる。ターニャから見て”いかれた連中”だが、ここにいる以上自分もその一人だと思うと、ひどく気が重かった。それだけに、周りの目が怖く、誰とも会いたくなかった。
「大きく息を吸って……吐いて……なるほど。魔力の波長に乱れがありますね。職場ではどうですか?」
「その、なんと言いますか、誰を見ても憎まれているように思えて。仕事にも支障が出ているので、早く改善しないと」
「焦ってはいけません、デグレチャフさん。あなたが戦場で負った傷は浅くなかったのです。大丈夫、お薬をお出ししますから、ゆっくりと――」
「それに何の意味がある!」
激昂したターニャは机を蹴ろうとしたが、短い両足が椅子をがたつかせるばかりだった。まるで子供の癇癪だ。医者に文句をつけるところなどまさにそのものだろう。ターニャは心の底から自分で自分が嫌になった。
しかし、ゆっくりと回復するのでは意味がないとも思えた。すぐにでも仕事に復帰しなくては、これまで必死に頑張ってきた意味がない。アイデンティティが崩壊の危機にあって、ターニャは孤軍であり、奮闘する気力もなかった。
もはやターニャに下せる決断は撤退のみだ。軍を辞するべく、震える手で上司であるゼートゥーアに傷痍退役を希望する旨を手紙に記した。もはや具申書とも呼べない、弱音を敬語で、悲鳴を建前で覆い隠した代物だった。
返事を待ち、貯まりに貯まっていた休暇をベッドで浪費しながら過ごしていた。かつて自分を突き動かしていたのは、いったいなんであったのか。出世欲はもはや機能しない。功名心は別段持ち合わせていない。あるとすれば――
「……存在X、か」
神を僭称する存在Xへの復讐。それはあるかもしれない。しかし、ある意味でターニャは平穏な生活を手に入れた。賭けはターニャの勝ちのはずだ。しかし、あまりに報われない勝ちだった。
あるいは、襲撃犯が存在Xに教唆されたのだろうかとも考えた。ターニャにとって救いになりえたその可能性は調書に目を通した時点で潰えた。襲撃犯は帝国に潜伏したまま取り残された共和国の情報将校で、祖国への愛から自らの意思でターニャの暗殺を試みたのだ。存在Xが介入する余地はなかった。
憎む気も起きない。かといって祈りを捧げる理由もない。
そのように澱んだ気分で部屋にこもっていると、ゼートゥーアからの返事が電話の形で届いた。
「……はい、デグレチャフです」
「ゼートゥーアだ。この度は災難であった。私の責任であろう」
「いえ、閣下のせいでは」
「私のせいにしておけ、そのほうが楽になるのなら。貴官の状況は多少聞き及んでいる」
ゼートゥーアの耳に届いたということは、軍部に知れ渡っているということだろう。ターニャの悲観的な予測はたちまち彼女自身を追いつめた。昨日食べたサンドイッチがこみ上げてくる。それでも、軍人としての意地がわずかなりとも残っていて、受話器は手放さなかった。
「無理をさせたくはない。異論のあるときのみ声を発せばよい。……貴官の進退についてだが、ひとまず籍を参謀本部に残したまま、企画部研究課の参謀室特任研究員とするのがよかろう。論文を書いて送るのが仕事だ。貴官の有能さは重々承知だが、急ぎの案件ではない。すでに受け取った論文で一生分のノルマは達成している。無論、いずれ復帰したならその時の希望で別の役職を用意できるだろう」
上司に気を使わせている。その事実もまたターニャを苦しめた。まるで血管に鉛が流れているようだ。
ゼートゥーアの言っていることは理解できた。自己評価はともかく、経歴からある程度の高待遇を認められるだけの成績は残している。職を失うよりははるかにありがたい。
しかし、理屈が通っていようとも、厚意がターニャにのしかかっているのだ。
「生活に苦労しない程度の俸給も出る。傷病手当金、保険金も含め、こちらで手続きを済ませて書類を封書で郵送しよう。このことは軍の担当者が一人と、私以外誰も知らない。他に手配するものがあれば、今でも後日でも構わん、連絡してくれ」
「……閣下は」
久しぶりに声を発した気がした。これほどか細い声が己の喉から出ているとはターニャには思えなかった。
「閣下は、なぜそこまでしてくださるのですか。……憐憫、ですか」
「そうではない、デグレチャフ大佐。これは帝国法と軍規に基づく事務処理、そして老人のつまらぬ罪悪感による八つ当たりだ。では、数日中に封書を送る。また会う日まで健やかであれ、大佐。貴官が守った帝国が健やかであるように」
受話器を置く手は震えていた。
ひどくみじめな気分で、しかし涙すら出なくて、ターニャはひたすらに苦しかった。ただ、ただ、苦しかった。