ベゴニア、トレニア、ゼフィランサス。現代日本で生きた記憶のあるターニャにとっては花の名前など怪しげな呪文にしか思えなかったが、一年ほど前に興味を持ちはじめた。かつての部下たちが花束をくれたからだ。
花の島、マイナウ島で過ごす昼下がりは穏やかな心地よさをもたらしてくれた。庭園を管理する庭師の老人も人当たりがよく、彼からプレゼントされた赤いダリアをターニャは帽子のリボンに挿している。
熱帯の空気を感じさせる蝶の館では指先に青い蝶が止まる奇跡に驚き、クリーム色の漆喰が可愛らしい宮殿では結婚式に感嘆と祝福の拍手を送った。
木々の紅葉は鮮やかで、夕陽にも似たグラデーションが風に歌いながら空と大地の境目を彩る様を、きっと人は秋と呼ぶのだろう。
ターニャ、十四歳。庭園のベンチに愛する人と並んで腰かけ、自然の美しさを知った。
「なかなか見事なものだ。これほどの庭園はそう見れないだろう」
「そうですね。圧倒される、とも違いますが……しみじみと美しさを感じさせられました」
「なかなかに的確だな。……十六時半か。そろそろ冷えてくる、戻るとしよう」
「土産物屋に寄ってもよろしいでしょうか」
「ああ、すっかり忘れていた。そうだな」
ヴィーシャやエーリャはもちろん、お世話になっている近隣住民にもちょっとしたものを配りたい。日ごろから世話になりっぱなしだからだ。
やはり定番は消えものだろうか、個包装のものがあればなおいいなどと悩ませながら時代を感じさせるレンガ造りの土産物屋に入った。花の島の土産物屋らしさを意識しているのか、嫌味でない程度に花の香りが広がっている。
しかし、タイミングの悪いことに立て込んでいるようだった。会計のカウンター近くで手帳とペンを手に店員と話し込んでいる男がいる。カメラマンも連れているところを見るに記者の可能性が高い。
「――なるほど、ではこの季節を逃せば次は春まで待たねばならないわけですね。ありがとうございます。最後にお写真をよろしいでしょうか。はい、そうです、笑ってー……」
店員の緊張した笑みをカメラに収めて、記者は二言三言礼を口にすると、出入り口へ――つまり、ターニャとエーリッヒのいるほうへ進もうとした。
そして記者はターニャに気づいた。
「もしや……ラインの悪魔、ターニャ・デグレチャフでは」
好奇の視線に手が強張り、すっと背中を冷たいものが這う。膝の力が抜けそうになるのをこらえると視界が不安定になり、かすかに吐き気もあった。
エーリッヒが前に出て庇おうとしたが、記者は巧みにそれをかわして矢継ぎ早に言葉を放った。
「連合王国から来ました、アトラス通信のアンドリュー・タネンバウム特派員です。五分ほどお時間をいただきたいのですが」
「失礼、急いでいるので」
「五分です、五分。それともなにか特殊作戦中なのでしょうか。終戦から一年と少ししか経っていない今、ラインにほど近いこの花の島にラインの悪魔と恐れられた軍人がいらっしゃるのですから」
エーリッヒの反論よりも早くカメラのフラッシュがターニャの目を焼いた。
アトラス通信なる報道機関がどの程度誠実なのかわからない以上、ここで逃げることはできない。難癖をつけられただけだが、まだ安定したとは言えない国際情勢に不安要素を投げ込むのは賢明ではないだろう。
心臓が脈打っている。奥歯をぐっと噛んで、ターニャははらわたに染み込もうとした濁りを吐息として吐き出した。
「……大丈夫です、エーリッヒ。それで、ミスタ・タネンバウム。私の独占取材は安くありませんよ?」
「ええ、それはもちろんです! それで、さっそくお伺いしたいのですが、この一年間表舞台から姿を消してらっしゃいましたね。ミス・デグレチャフは――」
「フラウ・レルゲンとお呼びいただければ幸いです。正式な発表はまだですが」
エーリッヒにしなだれかかって腕を絡ませる。戦いのための示威行為が半分、安心を求めての補給が半分だ。
そんなターニャにもう一度フラッシュが焚かれる。
「なるほど、それは失礼しました。では、この一年間はその準備で?」
「ええ。今日も式場の下見に」
「それはそれは、おめでとうございます。しかし、前線で活躍なさったフラウ・レルゲンがご結婚となると、内外から様々な声が上がったのでは? 特にダキアや共和国、それに連邦からも」
記者が言いたいことはターニャにもよくわかる。ターニャの幸福はかつての敵国からは祝福されないだろう。自分の家族、友人、恋人、同胞を殺した”悪魔”を祝福できる者などそういはしまい。
だからこそ、ターニャははっきりと答えた。
「私は平和を求めて多くを殺しました。だからこそ、誰よりも私は平和に殉ずる義務があります。この平和と幸福を捨てるのは死者への冒涜です。……などと堅苦しいことを申しましたが、結局のところ、平和の中で幸せを掴んだというだけの話です。祝福していただけますか?」
記者はあっけにとられたような顔をしていたが、はっとして頷いた。
「もちろんです、フラウ・レルゲン。わが社はレルゲンご夫妻の幸福を心よりお祝い申し上げます」
「ありがとうございます。……そろそろ五分ですね」
「あ、最後にご主人にも――」
エーリッヒは記者に手のひらを突きつけて拒否を示した。
「私はまだ参謀本部に所属しているので、民間の取材にはお答えしかねます。ご理解いただけますね?」
「あー、承知しました。では、最後にもう一枚」
エーリッヒのしかめ面をほぐして、ターニャは写真を受け入れた。
一仕事終えた達成感、それも戦闘を乗り越えて詳報を書き上げたときの安心交じりのそれが、肩にのしかかった重しを片付けていく。
「それで、お礼のほうですが……もし何かご要望があれば」
「私からお願いしてもいいですか、エーリッヒ」
「ん、ああ。君の取材だからな」
「ありがとうございます。では、写真を現像したら送っていただけますか? 記念に取っておきたいので」
「ええ、それくらいでしたらいくらでも!」
さすがに住所を伝えるのは気が引けて、エーリッヒが帰りに立ち寄れる帝都の郵便局に謝礼の小切手と一緒に送ってもらうことになった。送り先や日時、掲載される紙面などを確認し、エーリッヒが問題ないと頷く。
「いやあ、意外です。私は大戦時に共和国で従軍記者をやっていたので、正直先ほどまでとても緊張していたんですが……風聞だけで人はわからないものですね」
「褒め言葉と受け取ってもよろしいのでしょうか?」
「そうしていただけると。それでは、失礼します」
今度こそ記者が立ち去るのを確認して、ターニャは大きく息を吐いた。おそらくなにもミスはない。切っても痛くないカードだけを切って場を凌いだ。
勝利。
膝から力が抜けて崩れ落ちそうになった体をエーリッヒが抱き上げた。
「お疲れ様だ、ターニャ。苦労をかけてすまん」
「いえ、エーリッヒのようにお立場のある方が報道機関を相手取るのが難しいことは承知しておりますから」
「それでも、だ。私は君の夫だからな」
守りたいのは当たり前だ。
その言葉が嬉しくて、ターニャはエーリッヒの首筋に顔を埋めた。
連合王国の報道に先回りされないためにも、早急に動く必要がある。正式に入籍を発表するのがよいだろう。そのためには帝都に出て役所で手続きをしなくてはならない。
エーリッヒが休みを取っている今が好機だ。
「エーリッヒ、お願いがあります」
「言ってごらん」
「明日、帝都に行きませんか。入籍の手続きをしましょう」
一瞬の無言を経て、エーリッヒが答えた。
「先に指輪を見るが、構わないか?」
「もちろんです」
こうして、ターニャはいよいよ帝都に戻る。