ターニャも帝都の空気はよく知っているつもりだったが、記憶にあるそれより一回りか二回り明るさを増している。朝から男たちが肩を組んでジョッキで乾杯している。行きかう人々の洋服は共和国の流行を取り入れて軽やかかつ華々しい。頭の中で桂米朝が笑う。喧しゅうてやってまいります、その道中の陽気なこと。
記憶が鮮明に蘇っていく。あの喫茶店でウーガと言葉を交わした。あの街角でヴィーシャとパンケーキを食べた。あの市場で迷子を連れて途方に暮れた。
「大丈夫か?」
「はい。悪くありません」
世界はしっかりと色づいている。
昨晩二人で計画を練り、まずは約束通り洋服を新調することにした。秋物のワンピースを二着。シャツやスカート、カーディガンなどを何点か。冬に備えてコートも新調し、店主のご厚意でまとめて郵送してもらえることになった。
試着や採寸を繰り返している間に昼食の時間になり、会計を済ませて飯屋に入った。ここも記憶に残っている。
運ばれてきたアイスバインにナイフを入れるとほろほろ崩れていく。間違いなく本物の豚肉だ。戦時中に訪れたときは代用肉のまずさに震えたのをはっきりと覚えている。あれは食べ物ではない。
「昔、ここでデデ肉を食べましたね」
「ああ……あったな、そんなことも。私はてっきり君がデデ肉を敵兵に見立てているのかと思って、その晩はうなされた」
「私は楽しく話せたことが嬉しくてなかなか寝付けなかったのを覚えています」
二人で笑いあいながら食事が進む。
エーリッヒがまだ”レルゲン閣下”だったころ、ターニャがまだ”白銀”だったころ、二人はお互いに誤解を向けあいながらも幾度となく席を共にした。”レルゲン閣下”は”白銀”のコーヒーの好みを覚えていたし、”白銀”は昇進など関係なく”レルゲン閣下”と楽しい時間を過ごせることを喜んでいた。
軍人時代が過酷でなかったと言えば嘘になる。しかし、ターニャが思い返す限りでは、人間関係に関して悪いことはそれほどなかった。ゼートゥーアにもらったぶどうジュースはおいしかった。パレードで群衆に阻まれたときルーデルドルフは肩車を提案してくれた。ウーガからはコーヒー豆やチョコレートがよく届いた。礼儀を弁えた、しかし愉快な部下たちとともに過ごした。
窓に目をやれば、遠くにかつての職場が見える。
「少し、懐かしいです」
「覗いていくか?」
「……いえ、今はまだ。どうせなら指輪をはめて行きたいです」
茶化して誤魔化したが、少し怖いのも本当だ。かつてのように冷徹な雰囲気を纏うのはきっと難しい。強気の言葉も咄嗟には出なくなってきた。”日本人の男”も”デグレチャフ”も薄れつつある。かつての部下たちと顔を合わせた時にどう振舞えばいいのか、まだわからない。
しかし、用を足しに行ったエーリッヒより先に店を出ると、偶然にも知った顔と出くわした。
「大佐殿、デグレチャフ大佐殿では?」
「ケーニッヒ、ノイマン」
第二〇三航空魔導大隊時代に肩を並べて戦った中隊長たちだ。何度言っても長い髪を切ることだけはしなかったケーニッヒ。体も心も胃袋も大きいノイマン。
緊張より懐かしさが勝り、自然と口が動いた。
「まだ髪を伸ばしているのか、ケーニッヒ。ノイマンは少し痩せたのではないか?」
「はは、大佐殿もお元気そうで。しばらくお見かけしませんでしたが、もしや特殊作戦で国外に?」
「よせよケーニッヒ、軍機だったらどうする」
「あー、まあ、いずれ耳に入ると思うが……今は主婦をやっている」
二人の表情が固まった。
この二人が何を考えているか、おおよそ予想はつく。軍部で用いられるあらゆる隠語や暗号から主婦という言葉を探しているのだろう。
からかい半分で言葉を続ける。
「ちょうど今日入籍の手続きに行くところでな。貴官らにとっては残念かもしれないが、デグレチャフの姓を名乗ることはなくなる」
先に立ち直ったのはノイマンだった。
「お、お相手は……」
「ちょうどいい、紹介することにしよう」
ちょうど店から出てきたエーリッヒに腕を絡ませると、ケーニッヒが目を見開いた。この男が目を丸くするのを初めて見たかもしれない。
エーリッヒは怪訝そうな顔をしていたが、冷や汗をにじませながら敬礼している二人を見て理解したのか、小さく頷いた。
「よい、楽にしろ。確か、あの大隊の……」
「は、元中隊長、ヴィリバルト・ケーニッヒ大尉であります!」
「同じく、ライナー・ノイマン大尉であります!」
「帝国軍参謀次長、エーリッヒ・フォン・レルゲン准将だ」
「そして私がその妻だ。フラウ・レルゲンと呼んでくれたまえ」
ターニャが悪戯げなウィンクを飛ばすと、ケーニッヒとノイマンは顔を見合わせた。彼らの”大佐殿”像に結びつかないのだろう。今日はパステルグリーンのワンピースに白いハットを合わせている。ますます”白銀”らしさがない。
今なら伝えられる気がして、ターニャは小さく息を吸った。
「ケーニッヒ、ノイマン。伝えるのが遅くなったが、昇進おめでとう。それから、花束をありがとう」
「大佐殿……」
「フラウ・レルゲンだ、ケーニッヒ。会う機会があれば、他の連中にも伝えてくれ」
ややあって、ノイマンが己の胸に拳を当てて微笑んだ。
「承知しました、フラウ・レルゲン。幸せになられたと聞けば皆も喜びます」
「ヴァイスが泣いて喜びますよ。お任せください、フラウ・レルゲン」
最後に二人と握手を交わして、ターニャとエーリッヒは店を後にした。悪い気分ではない。少し緊張で汗をかいたが、それ以上に嬉しさが胸を高鳴らせている。
いい部下を持ったな、とエーリッヒが呟いて、ターニャは頷いた。己の幸せを喜んでくれることがどれだけ温かいか。だからこそ、ターニャは彼らの幸せを喜びたい。
「ゼートゥーア閣下にも直接お礼に伺いたいです。もちろん、ルーデルドルフ閣下にも」
「ゼートゥーア閣下はお忙しいかもしれないが、ルーデルドルフ閣下にはお招きいただいている。今度手紙を送ってみよう」
「お招き……結婚式、どうしましょうか」
帝国の結婚式は基本的に戸籍局で行うが、会場を選びたければ出張を依頼することもできる。より取り見取りだ。しかし、これまでを考えると教会を選びたくはない。
また、招待客についても考える必要があるだろう。ターニャも招きたい人は多いが、人数を考えなくては会場を選ぶのも難しい。
「計画を練らねばならないな。帰ったら招待する相手をリストアップしよう」
「それがよさそうですね。会場のあてはありますか?」
「ないでもない。ふむ、資料を取り寄せたほうがいいかもしれん。いや、婚姻届を出すときに相談したほうが早いか」
こうして先を考えている時間がとても楽しかった。そして、未来への期待に胸を膨らませることができるようになったのはターニャ自身の努力でもあり、周りが支えてくれたおかげでもある。
宝飾店には昨日連絡を済ませてあったため、スムーズに案内された。それぞれの客に担当者が付くらしく、店内では数組の客が店員の案内を受けている。ショーケースに並ぶ指輪たちが煌めいていて、ちょっとした星空だ。ターニャの頭の中で余計な考えが動きはじめた。そういえば、この世界にトールキンの作品はあるのだろうか。
「結婚指輪にも色々あるんですね」
「プラチナはもちろん、シルバーやゴールドも取り揃えておりますよ。昨今はダイヤモンドが人気ですが、誕生石を選ばれる方も少なくありません。婚約指輪もご覧になりますか?」
ターニャは今知ったが、帝国では婚約指輪を右手の薬指に、結婚指輪を左手の薬指にはめるのが一般的らしく、婚約指輪ははめて帰ることになった。
背が低く痩せていることもあって七号でもまだ緩く、かといって五号の品は少ない。七号を調整してもらうのがよいだろうと決まり、あとはデザインだ。凝ったものよりはシンプルに品よくまとまったものをいくつか出してもらい、納得のいく指輪を選んだ。サイズが不安要素だったが、ターニャが今後成長してサイズが合わなくなったらこの店で調整してもらえるらしい。
安心して会計を済ませ、名入れを頼んだ。
そのとき、扉が砕かれた。