ターニャは心臓の悲鳴を悟られないように呼吸を整えた。手の震えも、背筋を伝う汗も、今は忘れねばならない。
彼らの雇い主が何者なのかは特定できていない。目的についても確定情報ではない。手札は少ないが、これ以上引ける山札もなさそうだ。だとすれば、ブラフと読みあい、それしかない。
エーリッヒのもとに戻る。ヒルダを解放する。作戦目標を絞ったうえで、行動を開始した。
「これは脅しではない。私は交渉をしている」
「交渉? 俺とお前が? 俺に何の益がある」
男は鼻で笑ったが、それでも反応はしている。
ここで一枚目のカードを切る。
「私たちをここから連れ出せば、罪から逃れつつ奪った宝飾品を持ち逃げできる」
「馬鹿馬鹿しい。お前たちを拘束しているだけで大金が入る。リスクを冒す意味があるか?」
「そこで始まりに戻るわけだ、ダキア人。貴様らを使い捨てるつもりの帝国貴族が報酬を用意しているとでも?」
沈黙。話にならないという反応ではない。むしろ、吟味している。心が揺れている。
慎重に、かつ大胆に。
かつての”上司に信頼されている有能な人事”としての技術を駆使して、ターニャは言葉を編んだ。
「単純な話だ。勝ちのない賭けに乗る義理があるのか? ツェペシュは侵略者の甘言を信じたか?」
「……随分とダキアに詳しいな」
「ミハイ・エミネスクのファンだ。できれば戦争以外の形でオラシュチエ山脈を見たかった」
当然嘘だ。ダキアの詩人を知ったのは暗号解読のため。地形を知ったのも侵攻作戦を確実なものにするため。しかし、こちらに興味を持たせる手としては悪くないだろうとターニャの経験が訴えている。
男は扉を一瞥してから、壁に背を預けてターニャに続きを促した。交渉のテーブルが成立した瞬間だ。
しかし、ターニャが一人で延々と話せば黙っているヒルダに意識が向いてしまう。打ち合わせをする隙はないが、ヒルダのアドリブ力に期待するしかない。ターニャが視線を向けると、ヒルダは頷いて話を引き継いだ。
「すでに確定している罪状は殺人、強盗、誘拐ですわね。お分かりのとおり、逮捕されれば処刑は免れ得ないでしょう。しかし、情報提供と私たちへの協力を条件に警察へ便宜を図ることは可能でしてよ?」
「軍部の口利きで手を緩める警察か。帝国というのはずいぶん腐敗した国家らしいな」
ここで挑発に乗れば交渉がご破算になる。裏を返せば、この挑発は彼にとって安全確認だ。ここで危険がないことを示したい。
ターニャはいつでも介入できるよう考えを巡らせながら、ヒルダと男の会話を見守った。
「それだけ軍が精強であるということですわ。そして、それは私たち二人の価値が想定されているよりも重いという事実も示しています。選択肢は二つに一つ。私たちを解放して利益を得るか、私たちを拘束して死を得るか」
なかなか巧みな弁舌だった。もっともらしい根拠を引っ張り出して説得力をつけ、選択肢を絞ることで思考を囲う。ルーデルドルフ家の庭訓だろうか。
どうやら男の中にあった雇用主への義理は打ち砕かれたらしく、彼は扉を静かに開いて廊下を確認した。
「……十人で来た。四人やられて、残りは俺を含め六人。加えて上のお目付けが三人。俺の仲間は説得に応じるが、お目付け役は頷かないだろう」
「お仲間も助けたいとお思いかしら」
「気持ちだけはな。あいつらも元はダキア軍人だ、自分の尻くらい自分で拭けるだろうよ」
ダキア人の男は壁から離れ、ターニャとヒルダを立たせた。
「拘束は解かない。不審なそぶりを見せたら即座にこの部屋に逆戻りだ」
「結構。行きましょう、ヒルダ」
「ええ」
立って並ぶと、ターニャよりヒルダのほうがいくぶん背が高い。目算では百六十センチほどある。身長など何の役に立つわけでもないが、今は心強い。
床板の古びた廊下を進む。大きく軋むたびに気づかれたのではないかと不安になるが、歩みを止めるわけにはいかないだろう。
「一度しか言わん、よく聞け。俺はお前たちを他の拠点に移送するようリービッヒ男爵から直接指示を受けた。だから俺はお前たちを運ぶ」
ターニャは頷きながら、頭の中で情報を整理していた。
リービッヒ男爵は帝国の財政に携わる貴族だ。しかし、主流派ではない。ターニャが以前財務省の会議に出席したとき、リービッヒ男爵の席はなかった。
また、リービッヒ男爵はアスカニエン派にも属していない。ターニャの頭には祖父から譲り受けた帝国貴族名鑑の樹が叩き込まれている。
ヒルダの頭の中でも構造が見えたようで、穴を埋めるように男へと質問を投げた。
「首謀者はリービッヒ男爵で間違いないのかしら?」
「知らんし、知っていても言わん」
「男爵と一対一で話したことは?」
「奥の部屋の直通回線で指示を受けたことがある」
「その相手が本人である証拠は?」
「……帝国の女はみんなこうなのか? ほら、これだ」
ヒルダはダキア人の男が懐から取り出した封筒を受け取った。彼女がターニャにも見えるように開いてくれたので、一緒に内容を確認する。家名は明記されていないが、便箋の透かしにリービッヒ男爵家の紋章が入っている。
末尾に確認し次第燃やすようにと書かれている。雇用主としての信頼の欠如がこのような危険を生む。ターニャにとっては嬉しい誤算だ。
「そいつはくれてやる。どうせなら身内でやりあってくれたほうが俺としても気分がいい」
「あら、いい趣味ですわね。無事解決したらスポーツ観戦のチケットでもご用意しようかしら」
男は肩をすくめて、玄関の扉を押した。
強い日差しに目がくらむ。光に慣れると、ダキア人の若い男が駆け寄ってくるのが見えた。
「コドレアヌ、何をしてるんだ? そいつらは閉じ込めておけって言われただろう」
「つい先ほど次の指示があった。拠点を特定されたらしい。別の隠れ家に大至急移送しろと」
「それは……わかった。シュミット、車を回してくれ! 連中は来るのか?」
シュミットと呼ばれた頬に傷のある男が頷いて、車へと駆けていった。
ここまでは順調だ。脱出まであと一歩。ターニャはできるだけ沈痛そうな表情を維持した。
「いや。上は連中のなかに密偵がいると考えている。俺たちだけで動く。ムトゥとディニク、ロシュもまだ奥にいる、連中に悟られないように連れてきてくれ」
「任せろ。捕虜から目を離すなよ?」
「お前に言われるまでもない」
若いダキア人が建物に入っていくのを確認して、ターニャは小さく息を吐いた。脱出は目前だ。
日差しのもとで見てわかったが、ヒルダの深緑色のワンピースは血で濡れていた。彼女が怪我をしているようには見えない。ターニャの視線に気づいたのか、ヒルダが困ったように眉を曲げた。
「夫の血です。私が攫われたときに撃たれて」
「……命の無事をお祈り申し上げます」
「ありがとう、そうですわね」
強い。
ターニャはヒルダの瞳が微塵も揺らがないことに驚かされた。匂い立ちそうなほどの血を、それも愛する人の血を浴びて、平然と振舞っている。内心ではどんな苦しみを抱えているのだろう。
ターニャは覚悟を決めた。この若く凛々しき夫人を無事に送り届けねばならない。
建物の前に寄せられた車に乗ろうとしたとき、扉が勢いよく開かれる音がした。
「そうはさせんぞ、ダキア人め」
三人の帝国人が拳銃を構えている。どうやら脱出計画があっさりとばれてしまったようだった。
ここまで一緒に来た見張りのダキア人――コドレアヌと呼ばれた男がゆっくりと振り向いた。
「俺はこいつらを移送するよう貴様らの上司から命令を受けている」
「我々の耳にそのような話は入っていない」
「あのお方は貴様ら帝国人の中に密偵がいるとお考えだ」
「馬鹿げたことをほざくな!」
コドレアヌは意に介さず車のドアを開いた。
「乗れ。シュミット、すぐに南へ――」
コドレアヌの指示を割って銃声が響いた。帝国人が彼を撃ったのだ。コドレアヌが何かを口にしようとして、代わりに血液があふれ出た。
「……ヒルダ、走って!」
ターニャは倒れゆくコドレアヌの体を盾にするようにして車の脇を抜け、市街地を目指して進んだ。後方から罵声と怒号が聞こえる。運転手を含む他のダキア人はコドレアヌを撃った帝国人を許さないだろう。十分な足止めになる。
すべて計画通りだった。