コスモスの鉢を飛び越え、犬に吠えられ、熟れたトマトを踏み抜いて、ターニャはヒルダとともに市街地を駆けていた。追手は二人。蹴り上げた小石が脛を切った感触に表情を歪める余裕もなく、太陽へ――南へ。
いくら衰えたと言えども、元軍人として舗装された道を走る程度のことは大した苦痛ではない。しかし、問題もある。腕を縛られたままのこと。スカートを穿いていること。ヒルダを連れていること。
ヒルダに合わせて走れば追手が怖い。ターニャの全力で走ればヒルダがついてこれない。初めて一緒に行動する相手の余裕を考えながら、限界ぎりぎりを攻めねばならないのだ。
ターニャには明確な勝算があった。巡視の憲兵を見つけて名乗るだけでいい。捜査網に自ら飛び込めば向こうから見つけてくれるだろう。土地勘はないが、都市の区画から巡視ルートは予想できる。
「ヒルダ、曲がります! 右!」
表情に苦悶の色が浮かび始めたヒルダに指示を飛ばして、大通りへ入る。
曲がる直前、追手の放った銃弾がターニャを穿った。右肩から痛みと熱が爆発し、それに従って世界の色が冷たくなっていく。ターニャは必死に悲鳴を押し殺した。
シーンがフラッシュバックする。人事局の清潔な一室、狂ったような笑い声、にじむ世界。
今度は折れない。
曲がり角の壁に背を預けて、ターニャは大きく息を吸った。
「……ヒルダ、役所がゴールです。憲兵室から連絡を取ってください」
「だめですターニャ、あなたを置いていくものですか!」
「大丈夫。私にも帰る場所が、愛している人がいます。……行って!」
ヒルダは一瞬の迷いを乗り越え、頷いて、役所の時計塔に向かって走っていった。
これで捜査網はオラニエンブルクへと絞り込まれる。一瞬の会話でヒルダには呼吸を整えさせた。ターニャがしっかりと足止めをすれば間に合うはずだ。街中で発砲したことも、それがターニャに命中したことも想定外だったが、まだ計画は修正の範囲内だ。
左手でリボンタイをほどく。小石を拾う。リボンタイの両端を左手にしっかりと握り、小石を挟んで回転させる。
ターニャはゆっくりと引き返し、追手に姿を晒した。
「いたぞ、あそこだ!」
「……喚き散らしてくれるおかげで狙いがつけやすい」
つい先ほどの発砲で市民が道をあけている。
ひょうと空気を切ってターニャの投石が追手の腕を撃った。銃を取り落とした間抜けを罵倒しながら後続が前進するが、当然速度が落ちる。
紐のような投石器で礫を撃つ投石兵は帝政ローマの時代にはすでに存在していた。古くさいやり方だが、非力な少女の体には適している。
二射目で先頭の膝に命中させる。これで二十秒は稼ぐことができた。
「ふざけやがって、クソガキ……!」
喚きながら近づいてきた騒がしい顔に最後の一投が一直線のデッドボール。
二十八秒。十分だ。
ターニャを捕えようと伸びる手に抗うふりをしながら、ターニャは再度囚われの身になった。
二人の追手はがなり、怒鳴り、騒ぎながらも道を引き返し、ターニャを車へと放り込んだ。ターニャの右肩に血がにじんでいようとお構いなしだ。痛みに涙がにじむ。
「おい、こいつ殺しちゃダメなのかよ」
「閣下は生かしておけとよ」
「ちっ……多少痛めつけるくらいはかまわねえよな?」
「もう撃ったからな、傷の一つも二つも大差ないだろ。おい、聞いてるだろ小娘。こいつが可愛がってくれるとよ」
嘲るような視線に反応を示すことはしない。怯えれば増長させ、反発すれば怒りを買う。無反応で白けさせるのが効果的だとターニャは判断した。
小石を踏んで車体が揺れるたびに右肩が疼く。
ターニャの”牢獄”まではあっという間だった。最初に到着した時より乱暴に車から降ろされる。どうやらダキア人たちはいないようだ。コドレアヌの血痕だけが彼らの存在を語っている。
帝国人は三人。今ターニャの周りにいる男たちで全員だ。そのうち二人が門の前で見張りに残り、車内でターニャに苛立ちを向けていた男に髪を掴まれながら屋敷の中へと進んだ。
「いいか、クソガキ。てめえが何様かは知らねえが、閣下が攫って隠せって仰るから生かしてやってんだ。だがよ、ダキア人がやっちまったってことにすればてめえはもういなくなる。そうなりたくなきゃ、せいぜい俺を楽しませるんだな」
男の下卑たまなざしにターニャの頬がひきつった。
想定していた中でも最悪のパターンだ。この男はターニャを醜い情欲で汚すことで不愉快さを解消しようとしている。
傷を負うのはいい。罵倒されるのも構わない。しかし、ターニャの肌に触れていい男は一人だけだ。
男はターニャを掴んだまま大きな扉を蹴り開けた。電話や紙の束が机に置かれている。ここが彼らの司令部だろうか。男はターニャを部屋の隅へと突き飛ばし、電話をかけはじめた。
「……くそ、繋がらねえ」
震えていた。
もはや忘れ去っていた感覚だ。這いよる寒気と吐き気が視界を揺さぶり、こみ上げる熱と怒りが臓腑を融かす。これを最初に感じたのはノルデンの空だった。
吐息が音を伴って燃え上がり、やがてそれは笑いとなる。脳から命令を発する。頬を吊り上げろ。目を見開け。
演じろ。
「ああ……まったく。実に愉快。雑兵ににも満たない暴徒が数匹、それで私を檻に入れたつもりとは。及ばぬ鯉の滝登りとはまさにこのこと」
男が振り返り、ターニャを見て目を見開いた。こげ茶色の眼に笑う”悪魔”が写っている。
それでいい。
「小娘が、何を」
「手ずからお招きいただいたというのに、どうやらお忘れのご様子だ。僭越ながら名乗らせていただきましょう。帝国軍大佐、魔導師兵ターニャ・フォン・デグレチャフ。識別コードは――」
開戦。
「白銀」
ターニャの頭突きが男の姿勢を崩した。よろめかせただけだが、その隙で十分だ。重心の崩れた木偶ほど転がしやすいものもない。ターニャの蹴りが軸足の膝を折り、そのまま倒れた男の喉を踏み抜いた。
声を発することは許さない。殺さないぎりぎりを見極めてターニャは声帯に圧をかけた。
男が苦悶の表情でターニャの足を掴もうと藻掻く。呼吸がままならない状態で万全の力を発揮できる人間はいない。これはターニャが軍人時代に「お前は非力だから」と学ばされた技だった。
「おやすみ、ぼうや」
一分と経たず男は動かなくなった。頸動脈の圧迫と呼吸困難による気絶。
ターニャは崩れ落ちて壁にもたれた。無理に力を籠めたせいで右肩の傷が焼けるように痛む。視界もぼやけはじめている。限界が近かった。
ターニャは虚空に息を吐いた。それは”白銀”への弔いだ。
足音が近づいている。抵抗しなくてはならない。しかし、ターニャの脚は動かず、ターニャの腕は上がらなかった。
誰かが怒鳴り散らしている。音はしっかりと届いているのに、言葉として聞き取れなかった。それはまるで雑音を聞き取る労力を脳が拒絶しているかのようで、ターニャの意識はその拒絶に同調している。聞き取る意味はない。
ターニャの喉を掴む手があった。持ち上げられて浮いた小さな体の重さがターニャの首を痛めつける。呼吸の苦しさがますます視界を締め付けた。
しかし、まだ終われない。ターニャは帰ると誓った。だから、もう顔もぼやけた男を睨みつけて、唾を吐いた。
もう声は出ない。しかし、ターニャは彼の名を呼んだ。
「――私の妻を放せ」
発砲音。
拘束が緩み、落下したターニャの体を彼が抱き留めた。その温かさは夢ではなく、ゆえに掠れた声がもう一度名を呼んだ。
「……エーリッヒ」
「すまない、遅くなった」
血と砂の匂いがした。それ以上に、大好きなエーリッヒの匂いがした。ターニャはにじむ視界の中で、確かにエーリッヒ・フォン・レルゲンの顔を見た。
眼鏡に罅が入っている。額を切ったのか、血が乾いて貼りついている。髪も崩れている。この世で一番格好いいと、ターニャはそう感じた。
ターニャの手を縛っていた紐が切られ、腕を伸ばそうとして右肩に痛みが走った。
「痛むか」
その言葉があまりに優しく、ターニャの眦から涙が伝った。緊張が切れたのだ。
屋敷の入り口からたくさんの足音が近づいてくる。
ターニャは涙をぬぐうエーリッヒの指に震える手を添えた。
「指輪、はめてください」
痛みを無視して、ターニャは右手を掲げた。血に濡れている。臆病なほど丁寧にそれを握った彼の手も傷だらけだ。
二人で悩み、選んだ婚約の輝きが右手の薬指に収まり、エーリッヒがその上に口づけを落とした。
「攫われた君を迎えに来るのにこれほど遅刻する情けない私だが……それでも、結婚してくれるか」
「喜んで」
乾いた唇どうしが重なるのを感じながら、ターニャは意識を手放した。