林檎の皮がとぐろを巻いている。フルーツナイフの扱いも慣れたものだ、とエーリッヒは己の手に感慨深さを抱いた。
突入部隊と入れ替わりでエーリッヒとターニャは帝都の大病院に搬送された。エーリッヒは自分の足で歩ける程度には軽傷だったが、打撲や骨折だけでなく内臓にも負荷がかかっており、結局入院する羽目になった。退院してすぐにゼートゥーアから労いの言葉をかけられたが、あれは明らかに「気を抜きすぎだ」と叱責している。
自分で切った林檎をひとかけら手に取って齧る。酸味が強い。窓の外は真っ暗だ。ターニャの強い希望によって、面会時間を過ぎた夜にエーリッヒはターニャを見舞っている。医師は渋い顔をしたが、精神科に通院していることを鑑みて黙認された。
「林檎、ひとつください」
「ああ、ほら。……だいぶ顔色がよくなったな」
林檎を持つ両手からはすでに包帯が外れている。明日は肩の傷を抜糸する予定だ。経過は順調、退院も近い。幸いにしてと言うべきか、精神的にも安定しているようだ。
過去に撃たれたときと同じ部位に傷を負ったと聞いたときはまたターニャが悪夢に苦しむのではないかと心臓が止まりそうになったものだが、その様子はない。病院食に眉を顰めながらも落ち着いて過ごしている。
だからこそ、エーリッヒは今日持ち帰ってきた情報をターニャに伝えてよいものか悩んでいた。
「何かお悩みのご様子ですね、エーリッヒ」
ターニャの声に意識を引き戻す。いつの間にか林檎がドレスを脱ぎ捨てていた。
フルーツナイフと林檎の皿を棚に置き、新調した眼鏡をぐいと上げる。
「君が気絶させた男を含め、口が利ける状態の者から調書が取り終わった。そこで妙な話が出てな」
「妙な話」
「ああ。リービッヒ男爵は今回の計画について、配下にこう語ったそうだ」
我々には神の加護がある、と。
ターニャの瞳から甘さが消えた。不快感、忌避感、わずかに恐怖もあるだろう。エーリッヒも最初にこの話を聞いたときは同じような感情を抱いた。しかし、この話はこれで終わりではない。
「その言葉を真に受けた連合王国の通信社が情報提供を迫られて頷いてしまった結果、今回の事件につながったそうだ。今は大使館を通じて折衝をしているが、正式に謝罪と賠償があるだろう」
「迫られた、というのは間違いないのですか」
「自発的な協力はなかったと主張している。リービッヒ男爵の手勢が脅迫まがいのことをしたのも間違いないようだ。……問題はここからで、我々にとっては安心材料にもなる情報がある。神の話は男爵の出まかせだったらしい」
きょとりと目を丸くしたターニャが、話を理解して大きくため息をついた。そう、最悪の事態を覚悟したにもかかわらずその覚悟は見当違いだったのだ。妙な脱力感が病室を支配した。
最大の問題はここからだ。
「リービッヒ男爵の息子が妙なことを言っていてな。……己の父には神罰が下った、神の名を騙って神が見守る者に手を出した、と」
「……なるほど。それも出まかせということは?」
「わからん。ただ……これをシューゲル氏から託されてな」
エーリッヒは軍服の懐から手紙を取り出した。繊細で神経質な文字がターニャの名を記している。どこで耳にしたのか、姓は「レルゲン」だ。
ターニャは逡巡を見せたが、それを受け取って開き、目を通した。
「……かの技師は本当に、敬虔な方だ」
「彼は何と?」
「私が神を憎もうとも、神は私を憎まないそうですよ」
ターニャは鼻を鳴らしてエーリッヒに手紙を突き返した。
目を通してみればなるほど、長い手紙のほとんどが神を賛美する言葉で埋まっている。ターニャにとって意味を持つ部分を抜粋すればこうだ。
リービッヒ男爵の息子、ゲオルクはシューゲル技師と同時刻に同じ内容の声を聞き、それは神のものであった。神を騙り、神にとって重要な役割を担っているターニャを危険にさらしたリービッヒ男爵には神罰が下る。神はターニャを見ているが、自らターニャに近づくことはない。
ターニャが小さく首を横に振った。
「仮に彼らがそのような声を聞いたとして、そこにかの存在の干渉があったことは証明のしようがありません。疑うことも信じることもできない」
「そうだな。しかし、一応覚えておいたほうがいいだろう。シューゲル技師は過去にも干渉を受けたのだったな?」
「ええ、演算宝珠の件で。もうしばらく様子を見ましょう、男爵に何か超自然的な現象が生じれば少なくともその力だけは信じられる」
エーリッヒは頷いて、手紙を懐にしまいなおした。
林檎をひとかけら皿から取る。どうにも自分一人だと料理をするのが億劫で、最近は見舞いがてら食事を済ませてしまっていた。ターニャには内緒にしている。
ターニャが呆れたような目つきでエーリッヒを見上げた。
「エーリッヒ、最近ここで軽食をつまんで帰っていますが、家ではちゃんと食事をとっていますか?」
「あー、まあ」
「本当に?」
「……食べる人がいないとどうにもな」
「外食でもいいですから、ちゃんと食べてください。体が資本ですよ。エーリッヒも傷を負ったのですから、しっかり食べてしっかり元気になっていただかないと――」
長い説教になる気配を感じて、エーリッヒは慌てて話題を逸らした。
「ああ、今日は食べて帰る。ところで、その箱は誰かの見舞いか?」
林檎の皿を置いた棚の隅に小さな木箱が置かれている。焼き印もサインも特にない。エーリッヒが指でそれを指し示すと、ターニャが眉を上げてベッドから身を起こした。
「……いえ、心当たりがありません」
にわかに緊張が空気を引き締めた。
ターニャもエーリッヒも狙われる理由がある身だと思い知らされたばかりだ。気づかぬうちに置かれていたとなればますます警戒が高まる。
一瞬悩んでから、エーリッヒはその箱を揺らさないようにそっと棚から降ろして膝に乗せた。
そのとき、奇妙なことが起きた。触れていない上面に罅が入り、蓋だけが崩れたと思えば、次の瞬間には蓋だった木片が光になって消えてしまったのだ。
エーリッヒは息を呑んだが、なんとか声を上げずにこらえた。
「……これは」
箱の中には一体のくるみ割り人形が入っているだけだ。
ベッドから身を乗り出したターニャが、手を伸ばしてくるみ割り人形を掴んだ。
「馬鹿な」
「……これはなんだ?」
ターニャは目を見開いている。感情が爆発寸前だ。手も震え、汗がにじんで頬を湿らせているほどに。
ややあって、ターニャは平坦な声でその人形の由縁、もしくは因縁を語った。
「以前、これと同じくるみ割り人形を持っていました。存在Xがこれを通して接触してきたことがあって……」
「そのときはどうした」
「最初は破壊しました。しかし、目を離すと修復されていて、結局箱にしまって棚に収めたのを覚えています。そのあといつの間にか箱ごと姿を消していて」
箱とはまさかこれか、とエーリッヒが膝の上の木箱を指して問いかけると、ターニャは曖昧に頷いた。
よく見ると、箱の底に紙切れが一枚残っている。エーリッヒはそれを拾い上げた。
「……Deus lo vult、神はそれを望まれる」
まさか、本当に神だとでもいうのか。
エーリッヒが不気味さと不可解さに表情を引きつらせていると、ターニャが小さく笑いをこぼした。
「まあ、いいでしょう」
「何がだ」
「いえ、ちょっとした気づきを得ただけです。不躾にも覗き見されているのは腹立たしいですが、害をなさないうちは放っておこうか、と」
意外なほど穏やかな声だった。
ターニャは苦み走った、しかし幾分柔らかな微笑を浮かべながら、くるみ割り人形を小さな手で握っている。その顔をぴんと指で弾いて、ターニャは肩をすくめ、そして痛みに少しだけ顔をしかめた。
「明日が抜糸だ、あまり肩を動かすな」
「すみません。……まあ、言ってみればこれは停戦合意ですよ。駐在の大使が伝統工芸品というのもなかなか風情があります」
「随分と心境の変化があったようだな」
ターニャがエーリッヒを見上げて、困ったように笑った。
「馬鹿げた話ですが……奴がいなければ、あなたには出会えなかった。ほら、哀れな小悪党だって一つの指輪を葬るのに役立ったでしょう?」
「トールキンか。……シューゲル技師が聞いたらさぞ怒るだろうな、信仰の対象を小悪党呼ばわりだ」
「そういう意味ではあなたが無宗教者でよかったです」
余計なことを言いそうになってエーリッヒは言葉を飲み込んだ。
エーリッヒにとっての聖女は目の前で笑っている。