直属の上司に背中を叩かれても、エーリッヒの緊張はほぐれなかった。軍大学はエーリッヒにとっても母校だ。卒業生として講演を頼まれたこともある。その歴史に私人として踏み入ることへの不安と緊張で汗を拭う手が止まらない。
「やれやれ、まったく。随分と緊張しているな、准将」
「……お知恵をお借りしたいのですが、閣下はどのように式を迎えられたのですか」
「さて、どうであったかな。時代も規模も異なる、参考にはなるまい。それより、あまり力まんほうがいい。せっかく仕立てたスーツに皺が寄る」
エーリッヒは慌てて握りこぶしを解き、袖を整えた。きらりと光るのは赤のカフスボタン。エレニウム製だが、演算宝珠としての加工がなされているわけではない。帝国軍人が好むある種のゲン担ぎだ。
情けないことに結婚式の服装関連を失念していた間抜けな新郎のエーリッヒを見かねて、ゼートゥーアをはじめとする”先輩”方が手を貸してくれたのだ。彼らの助力を得るまでエーリッヒは帝国の結婚式でスーツを着るという事実すら知らなかった。
仕立屋は先任の総務部長に紹介してもらった。アクセサリー類はゼートゥーアから借りた。仕事の皺寄せはロメール少将が不平をこぼしながらも請け負ってくれた。一番世話になっているのは鉄道部のウーガ大佐で、式次の相談に乗ってくれたし、彼の妻はいまターニャの着付けを請け負っている。
言ってみればこの結婚式は帝国軍の総力を挙げての式典だ。
「どうしてこうなったのか、という顔をしているな」
「……あまりに大きな規模になったことへの驚きはあります」
「帝国軍参謀次長、そして終戦の立役者でもあるエースオブエース。その二人の結婚に興味を持たない帝国人がどれほどいると思う。至極当然な流れだ」
逃げたい現実ではあるが、事実だった。招待状を出した翌日にはその十倍の問い合わせが届き、それを捌いているうちに膨らみきった招待客は軍大学の大講堂を埋め尽くしてなお余る。その中には陸軍の礼装である灰色のメスドレスだけではなく、白に金糸――海軍の礼装まで混じっていた。
さらには宮廷からアスカニエン家アルブレヒト二世の名代まで出席している。この講堂を爆破でもされれば帝国は滅亡だ。その可能性に言及したゼートゥーアが護衛を手配したが、気を利かせたらしく、元サラマンダー戦闘団の所属であったり、ライン帰りであったり、いずれもターニャに恩義のある顔ぶれで、名簿に目を通したターニャは硬直していた。
「覚悟を決めたまえよ。あと一時間もすれば貴官らは聖壇の前だ。そのあとはオープンカーで帝都を一周。ふむ、市民と握手する時間を設けてもよかったか」
「これはもはや国の催しでは……」
「いまさらだな、レルゲン准将。”あれ”を受け取った時点でこの式は国を挙げての式典だ」
”あれ”とは、今回の司式者を担当する典礼省長官が携えてきた品だ。皇帝にしか触れることを許されていない印が捺された便箋とともに専用の馬車で運ばれてきた皇室の宝。
「恋愛結婚の許しを陛下に請う、その意味を理解したかね、准将」
「いや、しかし……」
エーリッヒは机に置かれた便箋に目をやった。「世に結ばれる許しを請うておきながら、結ばれる用意が整わぬ、これを世が良しとする由はなし」と流れるような字で記されている。皇帝が署名以外の形で書いた文字を見るのはエーリッヒも初めてだった。
この結婚式でターニャが戴くのは、ながらく使われていなかった皇室のティアラだ。
「靴もよし、タイもよし、眼鏡もよし。うむ、万全と言っていいだろう。まだ時間はある、花嫁の様子を見てくるといい」
「はっ、ご厚意に感謝いたします」
「なに、花嫁の父親役はルーデルドルフの奴に取られたからな。いい意趣返しになった。いい式にしたまえよ、レルゲン」
エーリッヒは控室を出ていったゼートゥーアに敬礼しながら、彼が初めて己のことを呼び捨てたことに気づいた。
「ありがとうございます」
ゼートゥーアは背を向けたままひらりと手を振った。
今や、エーリッヒもターニャも孤軍ではない。かつてヴィーシャがエーリッヒを叱りつけたように、無数の仲間が二人を囲んでいる。この戦に負けはない。
エーリッヒは乾いた口を水で潤し、もう一度鏡で身嗜みを確認して、花嫁の控室に向かった。
扉を押すまでもなく、賑やかな話し声が漏れ出ている。少しだけ妙な気後れがあって、躊躇しながらエーリッヒは汚れてもいない眼鏡を拭いた。
勇気を出してノックをする。
「私だ。入ってもいいか」
ややあって、許可が下りた。
エーリッヒの手が扉を押す。ふわりと花の香りが漂っている。
「エーリッヒ」
呼ぶ声の先に目をやれば、純白が立っていた。
露わになった肩には傷痕が残り、こぼれそうな瞳は少し潤み、笑顔は緊張でぎこちなく、そのすべてが愛おしく、ゆえにエーリッヒはこの光景を形容する言葉を持たなかった。
エーリッヒは花嫁の前で片膝をつき、その手を取って口づけを落とした。
「綺麗だ、ターニャ。世界で一番、君が綺麗だ」
「ありがとうございます、エーリッヒ。あなたも素敵です。いつにもまして凛々しくて」
ターニャの手がエーリッヒの頬に触れた。
お互いが目を合わせて、笑みを交わす。抱きしめて気持ちを伝えたいが、今はだめだと理解していた。衣装を乱してはいけない。
「ほらほら、フラウ・レルゲン、お化粧が崩れますよ。まだ少しかかりますから、閣下は進行の確認でもしてきてくださいまし」
「フラウ・ウーガ、助力に感謝する。……私もここにいてはだめか?」
「だめです、ええ、だめですとも。ここから先は入場した後のお楽しみなんですから」
ウーガ夫人に追い出されながら、エーリッヒはもう一度ターニャを目に焼き付けた。エーリッヒ・フォン・レルゲンはこれからこの人と式を挙げるのだ。
ターニャの控室を出て、手持無沙汰になったエーリッヒは教室の戸を引いた。今日は”式典”で休校になっているため、学生はいない。しかし、学生のほとんどが見学に来るという。それどころか、軍内部でも「急を要する調査」のために軍大学附属図書館を利用する旨が記された休暇申請の書類が大量に提出されているとすら聞いた。
空っぽの教室で机に腰かける。
エーリッヒは幼少期に両親と死別した。そして、貧しさの中で学問を求め、軍人になった。軍大学時代は充実していたが、なまじ成績がよかったために参謀本部で実績を積み、その中で神経をすり減らし、いつの間にか無味乾燥な世界を見ていた。
気づかないうちに、世界は色鮮やかだった。
「――ここにいたか」
声をかけられて振り向くと、懐かしい顔が薄っすらと悪戯な笑みを浮かべていた。ヴィルジニオ・カランドロ。イルドアで奔走していた終戦の立役者だ。長らく文通を続けていたが、顔を合わせるのは調印式以来だろうか。
ヴィルジニオはエーリッヒの隣に腰を下ろし、教壇へと目をやった。
「歴史を感じる。いい大学だ」
「光栄だ。……招待に応じてくれたことを嬉しく思う」
「よせ、世界を救った仲だろう。……ま、ダチの浮かれたツラ見に来たってのもある」
「それが素か?」
「まあな。愉快で陽気なイルドア人ってわけさ」
からからと笑ってみせるヴィルジニオからはほのかに酒精の気配がする。どうやら一杯ひっかけてきたらしい。国外の客を招くか考えた時、エーリッヒが真っ先に思い当たったのがこの男だ。誰よりも終戦の利益に聡かった。
礼服を着崩しているが、それも様になっている。首筋に情事の痕を残しているのを見るに、引っかけてきたのは酒だけではないようだ。
「丸くなったな、エーリッヒ」
「そうだろうか。そうかもしれない」
「ああ、そうともさ。このお祭り騒ぎが帝国のそれだってんなら、イルドアも当面は安泰。いいこと尽くしってわけだ」
「そうであってほしいものだ」
「まったくだ。なんだったかな……ああ、花嫁の準備ができたんだったか。行こうぜ」
エーリッヒは友に頷いて、大講堂前の割り当てられた待機所に向かった。
廊下を進むうちに賑やかなざわめきが近づいている。エーリッヒの胸に緊張が帰ってきた。皇帝に謁見した時ですらこれほど強張りはしなかった。
気を抜けばブリキ人形になりそうな膝を叱咤して歩いていると、先を行くヴィルジニオが呆れたように鼻を鳴らした。
「ガッチガチだな。足音が不規則になってるぞ。それじゃ様にならんだろ」
「……緊張で吐きそうだ。いい知恵はないか?」
「情けねえでやんの、ったく。花嫁のことだけ考えてろ。なんなら今夜どんな抱き方するか考えてたっていい。ああ、俺には言わなくていいからな」
軽薄な物言いだが、そのおかげでエーリッヒはターニャの姿を想起することに集中できた。
これまで多くの場面を彼女と過ごしてきた。初めて顔を合わせたのは教練学校で二号生に”指導”を行っていたときか。それから食事で偶然顔を合わせたり、作戦の指示を与えたり、縁が深まっていった。
終戦後、ヴィーシャの代わりに花束を携えて訪問したのが始まりだ。ひどく憔悴した彼女に対して、エーリッヒは哀れみでも怒りでもなく、ある種の使命感にも似た感情を抱いた。今思い返せば、あれは恩返しだったのかもしれない。エーリッヒは彼女のおかげで終戦に辿り着いたことを理解していたにもかかわらず、感謝の言葉を伝え損ねたのだ。
そばで過ごすうちに、感情は柔らかく、甘く、優しく染まっていった。そこには幸せがあった。やがてそれは言語化され、愛の形で二人を結び付けた。揺らがず、砕けず、途切れず、ここまで進んできた。
これが始まりだ。
「んじゃ、しっかりやれよ」
「ああ。……ありがとう、ヴィルジニオ」
ヴィルジニオは手早く礼服を整えて、真面目な顔をして出席者の波に消えていった。
それから二十分も待機所にいただろうか。新郎入場の合図が送られ、エーリッヒは大講堂に用意された聖壇へと確かな足取りで進んだ。
パイプオルガンが荘厳な調べを奏でている。
「――新婦入場。皆様、ご起立ください」
花道の向こうから、エーリッヒの愛が歩いてくる。ヴェールの向こうにうっすらと見える笑みからは緊張が抜けているようだ。煌めく金髪の上で光を受けているティアラが彼女の美しさを引き立てている。
世界が静かだった。入場曲も耳に入らず、ただ彼女の足音だけが聞こえていた。
帝国のある偉大な作曲家が、自らの交響曲で冒頭に四つの音を入れた。弟子がその音の意味について問うと、彼はこう答えた。運命はこのように扉を叩くのだ、と。
であれば、この足音はきっとエーリッヒにとっての交響曲だ。
エスコート役のルーデルドルフがターニャをエーリッヒに引き渡し、新郎新婦が聖壇の前に並んだ。
ターニャの希望で聖歌斉唱と聖書朗読は省かれたが、代わりに典礼長官の提案でこの国を終戦へと運んだ言葉を結婚式用に整えて唱えることとなった。
「たとい焔の熱さを向けあおうとも、のちに夫婦となる二人なれば、共にあって永らえることを以て良しとせよ」
参列者が口々に復唱する。
帝国の、大陸の平和が表面化した一つの形だ。
「新郎エーリッヒ。あなたはここにいる新婦ターニャを、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「誓います」
「新婦ターニャ、あなたはここにいる新郎エーリッヒを、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「誓います」
典礼長官が小さく頷いた。
「今日という素晴らしい日におふたりは比翼となりました。今日という日を忘れず、これからどんな困難もふたりで乗り越え、幸福をわかちあい、二人の幸福を最上位の勲章とすることを誓いますか?」
合図もなく、目も合わせず、声が重なる。
「誓います」