久しぶりに見る顔ぶれが揃いも揃って浮かれた様子で笑っている。上官であった”デグレチャフ大佐”であれば呆れたり叱り飛ばしたりしただろうが、”レルゲン夫人”にそのような考えはなかった。
やはり持つべきは優秀な副官というわけで、ヴィーシャが帝都のいい店を押さえておいてくれたおかげで元第二〇三航空魔導大隊の魔導師たち――通称二〇三組が集まることができた。”式典”に参加した帰りで全員が軍の礼服を着用していることも相まって、ターニャの胸中には懐かしさがこみ上げている。
一時間後にはエーリッヒが迎えに来る。それまでは大隊水入らずというわけだ。ワンピースにカーディガンの私服に着替えてかつての部下たちに囲まれているのは奇妙な気分だったが、それもまた一興。
すでに酔いが回りはじめたヴァイスは笑っているのか、それとも泣いているのか。同じ卓を囲んだ他の面々がおかわりを欲して席を立った今、ターニャは酔っ払いの相手をせざるをえなかった。
「おお、大佐殿が、大佐殿がまるでいたいけな少女のようにはにかんで……」
「私はもともと少女だが、ヴァイス?」
「私は、私は今日という日を忘れません! 大隊の記憶とともに、我が魂に刻み込みましょう!」
「飲みすぎだぞ」
「仕方ありませんよ、大佐殿……じゃなかった、フラウ・レルゲン」
振り返ると、グランツ大尉がジョッキを手に肩をすくめていた。かつては少々頼りない部分もあったこの青年も共に戦う中で成長し、今やライン周辺の治安維持に務めるヴァイスの有能な副官として一目置かれる存在だ。軍大学での講演を依頼されたこともあるとターニャは聞いている。
「ヴァイス少佐は昔からずっと悩んでたんです。フラウ・レルゲンが幸せになるには、そもそもフラウ・レルゲンの幸せとは、それ以前に幸せとは、って感じで」
「……なるほど?」
「だからまあ、感無量ってやつです。もちろん、俺たちも嬉しいですよ! あんな怖かった……あ、いや、違くて」
「構わん。自分がどう見えていたかくらい、多少は理解しているさ」
特にグランツは”大佐殿”の恐怖を最も強く感じていた節がある。雪中行軍中の雪崩で窒息しかけたグランツを蹴り飛ばして蘇生して以来、大隊の面々はターニャの強さに盲信的になった。ある意味ではターニャが一番目をかけていた部下でもある。
ターニャが空いたままの席を指して促すと、グランツはやや強張った笑みを浮かべながらそこに座った。
「どうだ、グランツ。平和な帝国は」
「なんていうか、こう、むず痒いです。でも、これを手に入れるために戦ってたんだなって思うと、些細なことも嬉しく思えて」
「そうだな。……ようやくだ。ようやく息ができる」
いびきをかきはじめたヴァイスに目をやる。胸に輝くバッヂは第二〇三航空魔導大隊の部隊章だ。今はもう存在しない部隊のものを身につけるのは本来軍規違反で、以前開けなかった送別会の名目で今日だけ黙認するとゼートゥーアに仄めかされた。
何もかもが片付いた。そして、これが始まりなのだろうと思うと、ターニャは無性に嬉しく、そして少しだけ寂しかった。
「なんか懐かしいです。すげえ懐かしい」
「昔を懐かしむ歳でもないだろう。……まあ、わからんでもない」
シナモンの効いたホットワインをちびちびと飲みながら、ターニャは静かに目を閉じた。
賑やかだ。思い出話に花を咲かせる者がいる。腕相撲で盛り上がる卓がある。何度目かもわからない乾杯も聞こえる。かつてとは大違いだ。しかし、本質は何も変わらない。
一年前、ターニャは彼らと顔を合わせることに恐怖を覚えた。しかし、もうその傷は癒えている。
ターニャは立ち上がり、机に上がった。
「――諸君」
気づいたヴィーシャが駆け寄ってきて、隣に立つ。
「大隊長より、訓示!」
ヴァイスも目を覚まし、隊員たちが起立する。
「……我々は、勝利した。勝利して、希求し続けたこの幸福を勝ち取った。なんと甘美なものか。幸福を蒸留して一本のボトルに収めれば、誰しもが酔う美酒になるだろうな。生憎、私は未成年だが」
くすくすと笑い声が伝搬する。口笛を吹いたのはノイマンだろうか。
「諸君らの表情を見るに、諸君らもまた幸福を手にしたと判断するし、そうであってほしいとも願っている。幸福の形は人それぞれだ。平和、結婚、仕事、資産、友情、うまい食事と酒……ああ、出産と育児という幸福を手にした者は申し出るように。参考意見がほしい」
笑いと動揺のどよめきが心地よい。幼い上官が子どもについて言及したことに混乱している顔もある。
「諸君らにずっと言いたいことがあった」
ターニャは大切な戦友たちへと微笑みかけた。ひどく照れくさいが、そうしたいと思い、また、そうすべきだとも感じたからだ。
「花束を、ありがとう」
彼らから受け取った花束は今もターニャの部屋に飾られている。
この一言を伝える、それだけのことにひどく曲がりくねった長い道を歩いてきた。そして、ようやくターニャはこの言葉を彼らに返す。
「諸君らは私の宝だ。諸君らのおかげで私は幸福を手にした。ありがとう。大好きだ。ありがとう!」
窓も割れんばかりの歓声にターニャの鼓膜が悲鳴を上げた。一瞬にして興奮した酔っ払いたちが押し寄せ、ターニャの体を持ち上げ、胴上げが始まった。
「万歳! 大佐殿万歳! フラウ・レルゲン万歳!」
急な事態にターニャは内臓が縮こまるような心地だったが、唱和する声があまりに嬉しそうで、だから怒ることを諦めた。
ターニャはずっと上官だった。彼らが盛り上がっている輪に入れば楽しむものも楽しめないだろうと身を引いて、”よい上司”であろうとし続けてきた。だから、こうして彼らと触れ合う機会がどれだけあっただろうか。
天井が近づき、遠のき、近づき、遠のき、歓声に頭が揺れる。そして、降ろされたと思えば今度は揉みくちゃだ。
「ああ、うん、ありがとう。いや、肩はこっていないから揉まんでいい。おい、どさくさに紛れて頭を撫でるな。肩車? 遠慮しておく。子どもの名付け親? そうだな、最初はヴィーシャに頼もう。次があるのかって、それは、その……おい、頭を撫でるなと言っただろう」
解放されたころにはすっかりくたくたで、まるで古漬けのピクルスにでもなったようだった。場はますます盛り上がって、店の酒を全て空にする勢いすら感じる。今日の会計はターニャが持つつもりだったが、大隊時代の積立金が残っているとかなんとか理由をつけられて支払いを拒否された。
ヴィーシャに髪を任せて、服の皺を整える。もうすぐ迎えが来る頃合いだった。
「素敵な式でしたね、ターニャ」
「ああ、本当に」
「歴史資料として結婚式の映像が残されたのは帝国史上初だそうですよ」
「そうか……映像?」
ターニャは振り返ろうとして頭を押さえられた。髪のセットが崩れるらしい。
「撮影しました。ゼートゥーア閣下とロメール閣下の指示で」
「……その、なんだ。複製はあるか」
「もちろんです、ちゃんと後日お渡しします。……はい、できましたよ。どこから見ても世界一可愛いです」
ターニャは椅子から降りて、ヴィーシャが差し出した手鏡で服も髪も乱れがないことを確認した。
「大丈夫そうだ。ありがとう、ヴィーシャ」
「どういたしまして。あ、車のエンジン音。お迎えみたいですね」
「ああ。……また遊びに来てくれるな?」
「もちろん。私たちは友達ですから」
ターニャはヴィーシャと抱擁を交わして、戦友たちに手を振って、店の戸を押し開けた。
冷たい夜風が火照った頬を撫でていく。今夜は星が綺麗だ。手を伸ばせば届きそうな気すらして、ターニャは掌を空にかざした。
「――届くか?」
「いいえ、今はまだ」
いつの間にか隣にいたエーリッヒが、同じように手を伸ばしている。眼鏡のレンズが星光を受けて煌めいた。
「私もまだ届かん」
「いずれ届きます。私たちは戦争をひとつ終わらせたのですから」
「そうだな。……さ、帰ろう」
ターニャは頷いて、星より愛しい彼の手を掴んだ。
次回、エピローグ