育児というやつに慣れる日が来るのかはわからないが、少なくともエーリッヒ・フォン・レルゲンにとっては今日ではないらしい。愛娘を叱りつける妻を宥めるべく、エーリッヒは書斎から居間へと向かった。
「――先月も母さんは教えたぞ、ラウラ。人形で遊んだらちゃんと箱に帰らせてあげる、約束したはずだな」
「でも、テオが一緒に遊ぼうって言うから!」
「弟が一緒に遊ぼうと言ったからそちらに行く、それは偉い。いい子だ、ラウラ。しかし、そんないい子のラウラならお片付けのことだって覚えていてよいはずだが?」
エーリッヒが二人の前に姿を現したときには、今年で六歳になろうとしているラウラの涙腺が決壊寸前だった。父として足踏みしているわけにもいかず、エーリッヒは娘を抱き上げた。
母譲りの大きな緑眼が助けを求めてエーリッヒを見上げている。とはいえ、説教モードの妻に屁理屈を捏ねられるほどエーリッヒは器用でも豪胆でもない。
「ほら、大丈夫だラウラ。別に母さんはお前が憎くて怒っているのではない」
「でも、お母さん怖いもん」
「おや、ラウラが初めての吹雪に怖がったとき、絵本を読んでくれたのは誰だったか忘れたのか?」
背中を優しく叩いて落ち着かせてやると、ラウラは頷いて、涙声でターニャに謝った。
「お片付けしなくてごめんなさい、お母さん」
「次からはできると期待しておく。謝れて偉いぞ、ラウラ」
エーリッヒは開いた扉の隙間からちらりと金色の髪が覗いたのに気づき、手招きをした。怯えた表情でおずおずと居間に入ってたのはテオバルト、今年で四歳になる男の子。髪を伸ばしたがるために昔のターニャとよく似ているが、琥珀色の虹彩はエーリッヒと同じだ。
甘やかしすぎたのか、どうにもテオバルトは臆病に育って、すでに半泣きだった。
「お説教?」
「いや、もう終わったよ。ラウラ、テオと遊んでおいで。父さんは母さんとお仕事の話をするから」
「今夜はご本読んでくれる?」
「もちろん。さ、行っておいで」
ラウラを下ろしてやると、二人は小さく手を振ってから、手を繋いで居間を出ていった。
大きく息を吐いたターニャの肩を抱く。家を空けてばかりのエーリッヒは育児の大部分をターニャに任せざるをえず、それゆえにできる範囲では全力で彼女を支え、また主体的に動きたいと考えている。しかし、初めての試みには困難と失敗がつきものだ。
「二人目で少しは慣れるかと思いましたが、どうにも。今日はあなたがいてくださって助かりました」
「休みの日くらいはちゃんと務めを果たしたいのでな」
「お休み、そう、お休みなのですから、本当はゆっくりしていただきたいのに」
謝罪の言葉を口にしようとした唇をそっと塞ぐ。
「内務省と在郷軍人学校の連携も安定しはじめた。この夏は休暇を取って家族旅行にでも行こう」
「それはいい報せです。ありがとう、エーリッヒ」
胸にしなだれかかってきた妻を抱き寄せ、もう一度、今度はしっかりと唇を啄む。甘い吐息がふわりとエーリッヒの脳に沁みこんだ。
ターニャもこの春を終えた三か月後には二十歳の誕生日を迎える。今や二児の母だ。三人目は育児が安定するまで待とうと約束したが、それがいつになるのかは二人にもわからない。
ターニャがエーリッヒの首筋に歯を立てた。
「……ターニャ、まだ日も暮れていないぞ」
「最後にしたの、半年前です」
「だめだ。ラウラとテオに見られたらそれこそあの子たちのためにならない」
ターニャはエーリッヒの首筋から顔を上げ、そのまま胸板へ顔を埋めた。
「……贅沢な悩みですが、少しだけ寂しくて」
これを言われて黙って突き放すエーリッヒではない。ターニャを抱きしめて髪を撫でながら、エーリッヒは頭の中でスケジュールを確認した。来週末は二連休を取ることができそうだ。
エーリッヒももちろん我が子たちは大切で、愛おしく思っている。しかし、エーリッヒはターニャの夫であり、妻を蔑ろにするつもりもない。よって、二連休を妻に捧げるくらいのことはしたいと思うし、すべきだとも考える。
「来週末は二人で過ごそう。帝都で映画を見て、あとは……そろそろ新しい服と靴もほしいころだな」
「よろしいのですか?」
「ああ。子どもたちを預かってもらうようにルーデルドルフ閣下に頼んでおこう」
「ありがとうございます。今度何かお礼をご用意しないと」
決まりだ。来週末は夫婦水入らずの時間を確保することになった。身を起こしたターニャが唇を欲するのを受け入れる。
孫娘が嫁に行くや否や何かにつけてターニャとエーリッヒを招いていたルーデルドルフも今やすっかり”クルトおじいさま”で、レルゲン家を含め親交の深い家の子はしばしばルーデルドルフ家の邸宅を別荘代わりにしている。
親族のいないターニャとエーリッヒにとって、これまで紡いできた縁が最大にして最強の支えだ。ルーデルドルフは言うに及ばず、ウーガの娘が姉のように振舞ってくれるおかげでラウラにもお手本ができ、両親が教えるまでもなく下の子への気の使い方を理解しつつある。テオバルトは誕生日におしゃれなメッセージカード付きでブリキの車をくれたロメールに憧れているし、ゼートゥーアとの文通も始めた。感謝の念ばかりが増していく。
玄関の扉が開く音が聞こえて、エーリッヒとターニャは慌てて絡み合った体を解いた。すっかり笑顔になってどたどたと駆けてくる二人を迎え入れる。もっと小さいころはエーリッヒも片手に一人で二人とも抱き上げられたが、そろそろ限界だ。
「見て、おっきい蛙捕まえた!」
「ラウラの見つけた蛇のほうがおっきかったもん!」
泥だらけのテオバルトが両手で掴んでいるのはヒキガエルだ。ラウラが地団駄を踏んで悔しがっているところを見るに、テオバルトが一人で捕まえたらしい。危険がないと見るや問題ない範囲で好き勝手する性格は母親に似たのだろうとエーリッヒは確信している。
「立派な獲物だな、テオ」
「ラウラも蛇見つけた! 危ないから触らなかったの!」
「ちゃんと危ないものがわかって偉いぞ、ラウラ」
エーリッヒが二人の頭を撫でると、二人はエーリッヒに抱きつこうとした。しかし、泥だらけで、しかもヒキガエルをホールドしている。
間から手を伸ばしたターニャがヒキガエルを救出しつつ二人を一時停止させた。
「先に父さんとシャワーを浴びてきなさい、蛙は母さんが見ておくから」
「はーい!」
べたべたに濡れた二人の手を握って、エーリッヒは目でターニャに感謝を伝えた。できるだけ長く入っていれば、ターニャが料理をしている間に子どもたちがウロチョロせずに済む。
浴室にタオルと着替えの籠があることを確認して、エーリッヒは二人の服を脱がせた。
ラウラはもう一人で髪を洗えるようになったが、テオバルトはまだ目を開けてしまう癖が直らない。目を閉じたまま何かを扱うのがまだ不安のようだ。エーリッヒは丁寧に二人を洗い、シャワーで泡を流した。
「つめたーい!」
「口を閉じていなさい、苦いのが入るぞ」
二人とも水遊びが好きだ。悪い癖がつかないよう、風呂を遊び場にしていいのは入浴時だけと約束をしている。今年の夏は川に連れていってやりたい。
汚れと泡を流し終わって体を拭いていると、エーリッヒを見上げていたテオバルトがぽつりと呟いた。
「お父さん、肩の傷がお母さんとお揃い。あ、でも反対?」
テオバルトが見ているのは、エーリッヒの左肩に刻まれた銃撃の痕だ。誘拐されたターニャを救出する際に負った傷で、応援と一緒に突入すればいいものを気が急いて先行した結果受けた情けない一撃だが、ターニャは少し呆れつつも内心気に入っているようだった。
「お母さんがかっこいい軍人さんだったって本当?」
「本当だ。ルーデルドルフ閣下から聞いたのか?」
「ううん、ロメールおじさまから」
「ロメール閣下だ、テオ。そうだな……」
タオルで二人をぐるぐる巻きにしながらエーリッヒは思案を巡らせた。ターニャは自ら進んで過去を語ることはしないが、秘匿しているわけでもない。だからといって好き放題喋っていいわけでもない。
二人に清潔な服を着せて、エーリッヒは考えを固めた。やはり本人に聞くのが一番いい。
「ターニャに直接聞いてみなさい」
「お母さん、怒らない?」
「大丈夫だ。万が一怒ったら、そのときは父さんが謝る」
「じゃあ、聞く!」
競い合うように浴室を飛び出した二人を追いかけて、エーリッヒは居間へと向かった。今夜の食卓では昔話が繰り広げられることになるだろう。愛する子どもたちに両腕を引かれて困ったように笑うターニャは誰よりも美しく、だからこそエーリッヒの記憶に残る”白銀”も、”ラインの悪魔”も、色あせることはない。
完結いたしました。毎度いっぱいのお運びに厚く御礼申し上げます。
今後は不定期に番外編を書いていきます。蛇に足を描き足す行いをお許しください。
2020/08/06追記
あとがきが書けたので、よろしければどうぞ。
https://note.com/oceantide/n/n6cd6b93c0598