【本編完結】幼女戦記 比翼幸福勲章   作:海野波香

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補01話 若者

 傘を打つ雨垂れに踊る心もなく、ただゼートゥーアは道を歩いていた。終戦から年月が経ち、人々の賑わいは帝都の中枢を温めている。この地区にはそれがない。賑わってはならない地だ。

 共同墓地。

 ゼートゥーアを目にして慌てて立ち上がろうとした管理人を手で制止する。管理人は右脚が義足で、頬にも大きな傷がある。退役軍人だろう。

 募金箱にそれなりの額をねじ込んで、ゼートゥーアは目的の墓へと向かった。よく手入れされた墓地はさながら公園のようで、晴れた日には散歩する市民も目にすることができる。

 ふと膝に痛みを感じて立ち止まった。ゼートゥーアももう老人だ。旧友に付き合ってやんちゃを続けてきたツケが回ってきたようで、節々の痛みや体の重みを無視できない。

 ハンス・フォン・ゼートゥーアも時間に勝利する策は持たないのだ。

 とはいえ、立ち止まるわけにはいかない。その誓いを立てた墓の前で、ゼートゥーアは静かにその名を呼んだ。

 

「――オスカー」

 

 オスカー・アイクラー。本来であれば、ゼートゥーアの姓を継いだかもしれない青年である。そして、彼の体には密かに貴き血が流れていた。皇帝の庶子だ。

 終戦ののち、休みには必ずここを訪れていた。祈るわけでもなく、謝るわけでもなく、嘆くわけでもなく。ただ、この墓を前に立ち尽くす、ひどく非生産的で非合理的な行為は、いつの間にか習慣として成立したのだ。

 そして、これこそが、皇帝に対してゼートゥーアが請い願った許しだった。一度は養子にとまで言われた子を戦に送り出し、死なせた。その墓に参る許しを求めたのだ。

 皇帝とゼートゥーアの間に生じた密かな罪を、ゼートゥーアは償うことができない。あくまでオスカーは庶子であり、補給隊の兵士でしかなかった。彼の戦死に特別な意味を持たせることは許されない。

 墓碑に記された文言を指でなぞる。

 

「死ぬまで剣を放さなかった者のみが成功する」

 

 ヴォルテールの格言だ。ゼートゥーアが彼に与えた忠告の中で最も気に入った様子の一言を、死に刻んでほしいと遺書にまで書き残していた。

 なるほど、諦めなかった者にしか成功はないだろう。そういった者たちが奮戦した結果が今の平和をもたらしている。では、諦めなかった者はおしなべて成功するのか。

 オスカーは諦めなかった。軍人として功を成して、その上で改めてゼートゥーアの姓を継ぎたいと笑い、そのまま死んだ。

 この墓の下に眠っているのは右腕だけだ。砲弾が直撃し、吹き飛ばされた右腕は、それでも小銃を放さなかったと報告を受けている。

 戦時中は参謀次長として、現在は参謀総長として、ゼートゥーアは多くの軍人から諦めを奪い、努力を強いてきた。成功なきままこの世を去った者はどれだけいるだろうか。

 こうして後悔を感じることができるのも平和を勝ち取ったからだ。それはよく理解している。

 ゼートゥーアは懐から時計を取り出し、時刻を確認した。今日はルーデルドルフと約束がある。

 

「――ゼートゥーア閣下?」

 

 たどたどしい声に名を呼ばれて、ゼートゥーアはゆっくりと振り返り、思わず息を呑んだ。

 少し癖のある金髪を一房に結いまとめた幼き子。かつて己の懐刀であったその者は、深い傷に苦しみ、そして幸せを掴んだ。誰よりも強く、ゆえに誰よりも弱かった軍人、または少女。

 デグレチャフ、と応えかけて、己の耄碌に呆れがこみ上げる。彼女はもうその姓ではないし、彼女はもう大人だ。それに、この声は高くか細いが、少年のそれだろう。だから、ここにいるのは彼女の息子、テオバルト・レルゲンに他ならない。

 

「誰かの墓参りかな、テオバルト」

「いいえ、その、迷子です」

 

 言葉にして実感が湧いてしまったのか、雨に濡れた少年は途端に涙をあふれさせた。今年で三歳になると聞いているが、見た目にもわかる弱々しさは年齢に見合わない利発さの代償か。

 ゼートゥーアはテオバルトを抱き上げた。生憎と育児の経験がないため、できるだけ早く親元に返したい。

 

「そう泣くものではない、テオバルト。君は確か、ロメールに憧れているのではなかったかな?」

「はい。でも、僕は弱いです」

「では、強くならねばならん」

「戦争がなくても、弱くてはだめですか?」

 

 そうだ、と答えようとしたが、その回答に自信が持てなかった。

 彼の言う通り、戦争は終わった。であれば、弱者であっても幸せに生きることができる社会を構築することこそが望ましいのだろう。しかし、ゼートゥーアは強さによって幸せを勝ち取る生き方しか知らない。どちらにしても説得力のある答えが思いつかないのだ。

 涙に喉を詰まらせながらも、テオバルトの主張は続いた。

 

「母さんに言われたんです。強くなるために弱さを捨ててはいけない、って。でも、強くなったら弱くなくなります」

「なるほど」

「ゼートゥーア閣下やロメールおじさまみたいに強くなったら、弱くなくなりますか?」

 

 あの生意気な若造が”おじさま”と呼ばれていることに愉快さを覚えつつも、ゼートゥーアはひとつの答えを導き出した。

 

「強さ、弱さはすなわち良さ、悪さではない。悪い強さもあるし、良い弱さもある。テオバルト、君の母上は君の弱さを良い弱さだと考えたのではないかな」

「なぜですか」

「ふむ。君は自分のどんなところが弱いと思うかね」

 

 もうだいぶテオバルトは泣き止んでいたが、涙と雨で顔が濡れている。先に拭いてやればよかったかと後悔しながらも、ゼートゥーアは対話を続けた。

 

「えっと……泣き虫なところ、怖がりなところ、あと、トマトが食べれないところ?」

「一番泣いたのはどんな時だったかな?」

「姉さんが転んで、おひざから血がいっぱい出ていた時です。とっても痛そうでした」

 

 ゼートゥーアはこの少年に興味深さを感じはじめていた。受け答えは極めて明瞭であり、三歳児のそれとは思えない。よい教育を施すであろう両親のことを思えば順当なのかもしれないが、それ以上に本人の素質を感じるのだ。

 人の痛みに泣く者は軍人に向かない。隣の仲間が吹き飛ばされても撃ち続ける無神経さが求められる世界だ。平和な時代ではこの少年のような者こそ輝くのだろうか。

 

「自分の痛みでもないのに泣くのは、確かに弱さかもしれん」

「はい」

「しかし、他人の傷に思いやれるのは良い弱さであろう。それに、人間は自分より慌てふためいている者が近くにいるだけで冷静になれるものだ」

 

 テオバルトは理解しきれていないようだったが、小さく頷いた。

 思い返せば、オスカーも他者の苦しみに悩むことのできる男だった。もちろん、テオバルトはオスカーではない。それはよく理解しているが、テオバルトの父であるエーリッヒもまた人情家だったことを考えると、ゼートゥーアはこの手の人間を好ましく思うのかもしれない。

 墓地を出ると、見慣れた女性が真剣な表情で管理人に何事かを問いかけていた。

 

「――ええ、そうです、長い金髪を首元で結わえた男の子。ああ、やはり見ましたか。ありがとうございます、もし行き違いになったら……」

「尋ね人はこの子かね、フラウ・レルゲン」

「閣下? ……テオバルト!」

 

 雨水を蹴散らして駆け寄ってきたターニャにテオバルトを渡すと、彼女はテオバルトを抱きしめた。子を想う母の表情だ。軍人時代の彼女からは想像もできない。

 

「無事でよかった」

「ごめんなさい、母さん、ごめんなさい」

「いや、目を離した私が悪い。……ありがとうございます、ゼートゥーア閣下」

「年寄りのおしゃべりに付き合ってもらっただけだ、気にすることはない。なかなか将来有望な少年ではないか」

 

 ターニャは驚いたように小さく眉を上げたが、微笑んで頷いた。

 

「自慢の息子です」

「であろうとも。送ろう、車を待たせている」

「それは……ありがとうございます。ルーデルドルフ閣下の邸宅にお邪魔する途中でした」

「おや、そうか。実は私も奴に呼ばれている」

 

 手間が省けたな、とゼートゥーアは笑った。

 少しだけ体が軽い気がした。


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