戦時中には想像すらしなかった牧歌的な風景がガラスの向こうに流れていく。車窓に風情を感じる日が再び来るとは、レルゲンには予想できなかった。
行きがけに買ったベーグルサンドがなかなかに美味だったため、勢いで買ったチョコレートには手を付けずに済んだ。レルゲンも甘いものは好きだ。しかし、気分と財布が緩んだ結果マダムの押し売りに負けて高級メーカーのチョコレートを買いました、などとターニャに報告したら鼻で笑われるに違いないと、レルゲンは忍耐を選んだのだ。なぜだろう、ばれないという考えはなかった。
そう、レルゲンは今、ターニャの新居に向かっている。
いつぶりかわからないほど久しぶりに私服を着て、時代遅れの格好になっていやしないかと内心冷や汗をかきながら駅に向かった。何を緊張しているのやら、予定していた電車より四十五分も早く駅に着き、食事時に着くのは迷惑だろうと散策していたらこのありさまだ。
「なんとも、情けないものだな」
レルゲンの膝には花束が載せられている。第二〇三航空魔導大隊の面々が一輪ずつ持ち寄ったものだ。前線で食品に使う保存術式がかけられているため、解除するまでは枯れることはない。うまい具合に四季の花々が揃っている。悩みに悩んで、レルゲンも一輪加えた。
手持無沙汰で、しかし花束をいじるわけにもいかず、本を忘れたことを悔やみながら窓の向こうに目を向けていると、降車駅にたどり着いた。
住所を見るに、どうやら駅からしばらく歩くらしく、レルゲンは花束を手にため息をついた。周りから見たらさぞ滑稽だろうが、幸いなことに人はいない。
道中、車の一台もすれ違わなかったことに首を傾げながらも、レルゲンはその家を見つけた。ひどく小さな目立たない家で、小さくデグレチャフの表札がかかっている。
ノッカーを叩くが、返事はない。
「あー、こんにちは。エーリッヒ・フォン・レルゲンだが、ターニャ・フォン・デグレチャフ殿はご在宅ですか」
声をかけるが、やはり返事がない。
無駄足だったかと引き返そうとした矢先、レルゲンの耳に物音が入った。椅子が倒れるような音だ。
あの化け物に限ってまさかとは思うが、再び誰かに襲撃されている可能性もある。そうなればレルゲンとしても寝覚めが悪い。それに、居留守を使ったのなら文句の一つや二つ言う権利もあるはずだと考えた。
レルゲンは扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。
「――大佐、何をしている!」
室内の状況はレルゲンにとって驚愕と困惑だった。
やつれた顔のターニャが、歯を食いしばって、己の心臓に包丁を向けているのだ。
荷物を放り出して慌てて駆け寄ったレルゲンに反応も見せず、手の震えが包丁の切っ先に伝わり、シャツを開いて露になった胸に微細な切り傷を作っている。事情は分からないが、このままでは危険であることはたやすく理解できた。
レルゲンは彼女を刺激しないよう、後ろから抱くようにして包丁を握る彼女の手を掴むと、ゆっくりとそれをほどいていった。あまりにか細く、また青白い手は、到底十三歳のそれとは思えず、老衰で他界した曾祖母を思わせた。
包丁を取り上げて静かにテーブルへ置くと、ようやくターニャが口を開いた。
「……笑ってくださりますか。自害する度胸もない意気地なしと」
「馬鹿を言うな。傷が浅くてよかった」
「なにがよかったんですか。私は死ねなかった。訪ねてきた知人の顔を見るのが怖くて居留守を使う恥に、生き汚さを重ね塗りして」
ぞっとするほど弱々しい声は、ほんの数か月前まで己を震え上がらせていた化け物のものとは到底思えなかった。
よく見れば、金糸のようであった髪も艶がなく、肌は荒れ、骨が浮き出ている。部屋にはほとんどものがなく、空の缶詰と未開封の缶詰が一緒になって積み重ねられており、まともな生活を送っていないことは容易に想像できた。
レルゲンはこのような人間を知っている。前線から帰ってきて傷痍退役した知人が同じように衰弱し、やがて川で見つかった。
しかし、あのターニャ・フォン・デグレチャフが、ここまで弱るとは。
転がっていた椅子を立て、ターニャを腰かけさせると、レルゲンは放り出した荷物を拾った。
「……貴官、チョコレートは好きか」
「ええ、はい、好きだった気がします」
「そうか。ここに来る途中、買ってきたのだが――」
ターニャが突然笑い出したので、レルゲンはぎょっとして言葉を途切れさせた。快活な笑いではない。虚しさがこぼれたような、吐息に音がついた程度の笑いだ。
「どなたの命令でいらしたんですか。ゼートゥーア閣下ですか、ルーデルドルフ閣下ですか」
「いや、私の意思だ」
「閣下が私の見舞いにくるはずなど……ああ、遅れましたが昇進おめでとうございます、准将閣下」
「ああ、ありがとう。なんというかだな……」
立っていてはどうにも話しづらいので、缶詰が入っていたであろう木箱を引っ張ってくると、レルゲンは埃を払ってそれに腰かけた。
「セレブリャコーフ少佐が調べてくれた」
「……あれは優秀すぎますから。私が去った後も活躍できているなら安心、いや、当たり前か」
「当たり前なことがあるものか。あの馬鹿者、貴官を恋しがって、情報部まで動かしたんだぞ」
そうですか、と呟いたターニャは、少なくともレルゲンから見て、少し落ち着いたように見えた。
冷静でありながら活力に満ちていた化け物が無性に懐かしく、思わずレルゲンは軽口を叩いた。
「まさか貴官が真っ先に戦場を離れるとはな。貴官は戦場でしか息ができんとばかり」
「……ようやく、息ができるはずなのに」
ぽつりと漏らしたターニャの言葉にレルゲンが問い返すより早く、彼女は独白を続けた。
「戦争が終わるのを、ずっと待っていたのに。戦争を終わらせるために、たくさん、たくさん殺して、殺させて、殺されて、それでも笑っていたのに。ようやく、安全なのに。……息が、できないんです」
レルゲンには理解ができず、頭が真っ白になった。
あの戦闘狂が、戦争屋が、戦争が終わるのをずっと待っていたなどと、到底納得のいく話ではない。嘘をつくなと怒鳴り散らせればどんなによかっただろう。
しかし、彼女は虚偽の独白をする余裕のある人間には見えない。その虚ろな瞳と悲痛な微笑みは、嘘ではないとレルゲンに確信させるのに十分な苦しみをたたえていた。
「貴官は……まさか貴官は、戦争を厭っていたのか?」
「殺し合いを好むほどの愚かな人間に見えていたのですね、デグレチャフという軍人は」
是とも、否とも言えず、レルゲンは眉をひそめた。戦争狂の類だと思っていたのは事実だ。今も半信半疑ですらある。
「私は、孤児院で育ちました。ひどく貧しい施設でした。孤児院育ちの女が帝国で安定した生活を望めるのは、軍だけだったんです」
「生きるための志願か」
「はい」
「しかし、貴官は――」
ターニャが困ったように眉を下げて、閣下、とレルゲンに呼び掛けた。
「私は書類上はともかく、実情として軍人ではありません。お前でも、貴様でも、お好きなように」
「あー、では、デグレチャフ、君は……」
化け物と思っていた相手に君と呼びかけるのは何とも奇妙だったが、この苦しんでいる少女をお前と呼ぶのも、貴様と呼ぶのもしっくりこなかった。
「君は、はじめての戦場で銀翼突撃勲章を授与されたな」
諮問じみてきたことを自覚して、不自然でない範囲で声を和らげながら、レルゲンはこの奇妙な対話を継続することにした。怖い物見たさの危険な勇気と、こみあげてくる不可思議な義務感、その両輪がレルゲンを走らせている。
「ああ……あれはまさに絶望でした。単独での観測任務中に、越境した敵魔導部隊と接敵したんです。撤退許可は出なかった。……わかりますか、閣下。退けば敵前逃亡で銃殺、進めば単独戦闘で自殺行為。私は、私はあそこで死んだんです」
ターニャがむせたので、レルゲンは慌てて己の水筒を差し出した。ターニャは小さく礼を言うと、水を飲み、またむせた。
健康状態に問題があるのは間違いない。それは心身の両方に及んでいる。生活環境も劣悪だ。何かしらの支援が必要だとレルゲンは判断したが、それを口にするのはいまではないともわかっていた。
「幸い、敵の練度は低く、戦力を逐次投入してくれたおかげで時間を稼ぐことができました」
「後学のために聞いておきたいんだが、どうやって脱したんだ」
「自爆です。防殻術式を展開し、死んだふりをして落下しました。敵前逃亡を問われない撤退はあれしか……あそこで死んでおけばよかった」
「よせ、デグレチャフ。賢明な判断だ。魔力量の多い君だからこその手段でもある」
「恐縮です。いまはその魔力量に苦しめられていますが」
ターニャが指さした先に目を向けると、棚に薬局の印が捺された紙袋が置かれていた。
「一般的に、精神の疾患は魔力の同調と波を整える治療で小康状態まで持っていくことが可能であるそうです。しかし、私の魔力量では機械の容量が不足していて、その治療を受けることができなかった。……何もかもが、裏目に出ているように感じます」
悲観的なことを言うなと諭したい気持ちもあったし、ともすれば、君は恵まれているなどと余計なことを口にしそうでもあった。軽挙妄動をぐっとこらえ、レルゲンは落としたままだった花束を拾った。
「これは、君の……いや、貴官の部下からだ」
「私の、部下」
「第二〇三航空魔導大隊解体の内示が出たあと、彼らは密かに貴官の送別会を計画していた。その面々が一輪ずつ持ち寄ったそうだ」
レルゲンは彼女の手を取って花束を抱かせた。ひどくやつれたとはいえ、美しい彼女に花束はよく似合っていて、レルゲンは少しだけ落ち着いた気分になった。
ターニャは花束に目を落として黙っていたが、しばらくしてぽつりとこぼした。
「彼らには悪いことをしました。私はいい上司ではなかった」
「……これは亡き母の受け売りだが」
思い出す。
レルゲンの父も、何かにつけて己を責め、周りに謝る癖があった。幼いころはそれを父の弱さと思って嫌悪すらしていたが、母はそうではなかった。しかし、母が口癖のように言い聞かせていた言葉がある。
「こういう時、ごめんなさいよりありがとうのほうが言う側も言われる側も幸せなんだそうだ」
「……閣下は、素敵なご母堂に愛されてお育ちになったのですね。だから、それほどまでにお優しい」
自分は優しくなどないと悲鳴を上げたかった。自分が彼女を化け物だと蛇蝎の扱いをしていた過去を消すことができればどんなによいだろう。
レルゲンは答え合わせのように記憶の海をかき分け、小さなターニャの姿を探した。そして、彼女の発言がいずれも早期終戦と後方勤務を望むものであったことを確認し、また苦しんだ。
方便だと思っていた。より多くの敵を殺し、より長く戦争に浸るための。もし、一度でも言葉通り彼女の希望を受け入れていれば。過去を反実仮想しても意味はないが、それでも後悔が押し寄せてきた。
合理性を重んじる帝国軍人のエーリッヒ・フォン・レルゲンとして、迅速かつ的確な行動が求められた。なにかしらの支援を検討しなくてはならない。
「病床にありながら長話に付き合ってくれたこと、感謝する」
「……いえ、醜態をさらしましたことをお詫び申し上げます」
「気にするな、と言いたいところだが……。君から副官を奪った借りを多少埋め合わせたと思っておこう」
副官という言葉に反応したのか、花束を抱く手に力がこもった。刺激してしまっただろうか。レルゲンの内心に焦りが浮かんだ。
「セレブリャコーフ少佐には……」
「秘密にしたければ、うまく話しておくが」
「いえ、そうではなく。おこがましい話ではありますが、その、デグレチャフが謝っていたとお伝えいただければ。ここしばらく、手紙の返事ができていないので」
承知の旨を示して、レルゲンは立ち上がった。テーブルに置いたままだった包丁は高い位置にある戸棚に片付ける。他にも何かすべきなのかもしれないが、何をすべきなのかは検討がつかなかった。
ターニャは花束を抱いて、静かに涙を流していた。
「迷惑でなければ、また来る」
思わず口をついて出た言葉にレルゲンは自ら困惑した。しかし、ターニャは不快感を示さず、小さく頷いた。
「ご迷惑でないのなら、お待ちしています」
帰りの列車で、レルゲンの脳裏には花束に落ちた朝露のような雫と、ハンカチを渡さずに出てしまった後悔が渦巻いていた。