ルーデルドルフの邸宅を訪問するのは、レルゲンにとって初めてのことだった。あの雄々しい男に似つかわしくない瀟洒な屋敷だ。庭師の腕がいいのだろう、紅葉が鮮やかだ。しかし、レルゲンの気分は晴れなかった。
慢性外傷性脳症。表向きは勇退となっているルーデルドルフの退役理由だ。本人から聞かされたとき、レルゲンはまるで異なる世界の作り話のように思えた。
使用人に案内されるまま庭の奥に向かうと、ルーデルドルフは庭の片隅で揺り椅子に腰かけて本を手にしていた。年季の入ったウッドテーブルにはコーヒーとビスケットが置かれている。
「ご無沙汰しております、閣下。この度は――」
「まあ座れ、レルゲン。立ったままコーヒーを飲むやつもおるまい」
穏やかな声に驚きながらも、レルゲンは向かいの木椅子に腰かけた。この椅子も古いものだろう、丁寧に磨かれて深い飴色になっている。存外にものを大切にする趣味のようだとレルゲンは意外に思った。
給仕に差し出されたカップを受け取る。いい豆を使っているようだ。
しばらく、二人とも沈黙していた。どこかから鳥がさえずる。一陣の風が吹き抜け、落ち葉をざわめかせる。悪い空気ではない。
「ヒルデガルド、俺の孫娘だが、あれと暮らし始めて、己の世界がいかに偏っていたかを理解した。この俺が小説を読む日が来るとはな」
「小説、でありますか」
「貴様はどうだ、この手のものは。多少触れておくといい、デグレチャフと交流するいい話題になるだろう」
要件はあらかじめ伝えていたとはいえ、このような形で彼女の名が出るとは思わず、レルゲンは驚いた。
「貴様より先にその件で俺を頼ってきた奴がいてな。デグレチャフの元副官で、いまは貴様の部下だ」
「セレブリャコーフが……」
「あれは伸びるな。ゼートゥーアではなく俺に相談してきたのも、おおかた貴様と同じ理由だ」
上司であるゼートゥーアを疑うわけではないが、ターニャの引っ越しには彼が関わっている。直接問いただす前に情報を集めたいし、そもそも問いただすべきか、問いただしてよいことかを考える必要がある。
しかし、検討の材料を揃えるにしても、ターニャの事情をあちこちに流布するわけにもいかない。
「……どうやら、デグレチャフのことをひどく誤解していたようです」
「そのようだな。誤解によって救われた帝国か。間抜けな響きだ」
ルーデルドルフがぱたりと本を閉じた。表紙にはフランツ・カフカの名が刻まれている。レルゲンも名前だけは聞いたことがある作家だ。
「俺に似たのか、ヒルデガルドは聡くてな。それも優しさのある聡明さだ。ひどく叱られた。少女の一人も守れないなら帝国の名誉などお捨てになればよろしい、と」
「それは……果敢なお孫様でらっしゃいますね」
「そこも俺に似たのだろうな。……ふむ、ジョークのつもりだったのだが」
「ああ、いえ、その」
「よい。ゼートゥーアにも学生時代から散々言われた。俺にはジョークのセンスとバイオリンのセンスが欠如しているらしい」
確かに、この男がバイオリンを奏でる様を想像するのはレルゲンにも困難だった。軍隊ラッパ以外の楽器が似合うとも思えない。
ルーデルドルフは笑みを消して、話を続けた。
「ヒルデガルドの言葉はある意味で正しい。犠牲は必要だった。しかし、犠牲となるのは志願した者であるべきだった」
「……デグレチャフは志願兵です」
「国政が志願を強いたのだ。強制された志願など、徴兵となにが変わろうか。我々は幼子に出血を強いた。……許されることではなかろう」
ルーデルドルフは懐から古びた紙束を取り出し、テーブルに投げた。顎で示されるままにレルゲンはそれを手に取り、記されている文言に目を通す。軍を非難する手紙であるようだ。
「帝国内の良識ある市民が起こした勇気ある行動だ。幼い少女を戦争の道具にするな、と」
「この日付は、戦時中のものでは」
「そうだ。すべて俺が握りつぶしていた。公開しては士気に関わる。他の省庁に届いた手紙も俺に従う者に処理させていた。なんということはない、帝国の名誉を傷つけていたのは俺自身だ」
「おやめください、閣下。閣下は帝国の名誉を守るため戦われたのです」
ルーデルドルフは返事をせず、コーヒーを手に取った。ミルクと砂糖の香りがした。思えば、レルゲンはこの男が軍でコーヒーを飲んでいる姿を見たことがない。
レルゲンの視線に気づいたのか、ルーデルドルフが片眉を上げた。
「隠していたが、苦いものが苦手でな。特にピーマンはいかん。これもヒルデガルドにはよく説教される」
「は、はあ」
「どこにでも秘密はある。明かされれば案外なんでもないものも多い。この件はゼートゥーアに直接聞いてみるといい。あいつは冷徹だが、冷酷ではない」
正直、レルゲンにはゼートゥーアが冷酷な男に思えていた。言葉こそ穏やかだが、ゼートゥーアが私情を見せたことがあっただろうか。ターニャを上回る規律人間。それがレルゲンの抱くゼートゥーアに対する認識だった。
「……軍大学の卒業間近のことだったか。当時、まだ恋人だった俺の妻に迫った馬鹿がいてな。ぶん殴ってやった。だが、そいつは高官の息子だった。退学も覚悟したよ。そこを救ってくれたのがゼートゥーアだ。あらゆる伝手を駆使してその高官を失脚せしめた」
「……それは」
「すさまじい話だろう。あいつは無能を切って有能を拾っただけだと嘯いていたがな、俺が礼にと贈ったカフスを今も使っている。それに、妻が倒れた時、仕事を続けようとする俺を怒鳴りつけて病院に走らせたのもあいつだ」
ここしばらく、レルゲンの中で様々な人物の像が修正されていく。それも正反対のものばかりだ。柔和なルーデルドルフ、人情家のゼートゥーア、そして戦争嫌いのターニャ。
そして、レルゲン自身、変化があったことを自覚している。その最たるものがターニャ・デグレチャフに向け続けていた感情への後悔だ。
ルーデルドルフはカップを空にすると、ビスケットを指先でつまんだ。
「問題は、デグレチャフを傷つけずにデグレチャフの幸福を回復する手段が思いつかないことだ。貴様とて思いついていれば相談になど来ないだろうがな」
「……ご高察のとおりです。小官の無見識を恥じるばかりであります」
「戦争で心を傷つけた少女を救う方策に心得があるほうが不気味というものだろう。ゼートゥーアとてそれは同じだ。誰か適任を見つけるのがよいだろうが、果たして、いるかどうか」
花束を抱えて涙するあの少女がレルゲンの脳裏に浮かんだ。心強くも恐ろしい戦友があのような姿をさらしているなど、レルゲンには到底耐えられるものではない。加えて、言語化の困難な義務感と熱意が、レルゲンを突き動かした。
レルゲンは起立した。
「小官が……小官が、彼女の助けとなります」
「……ほう。容易な任務ではないぞ。貴様が有能な軍人であれども、いや、だからこそ、困難を極める」
「承知の上です」
ルーデルドルフはじっとレルゲンの目を見つめ、そして重々しく唸るように問いかけた。
「覚悟のほどは」
「帝国の、いや、小官の名誉にかけて」
「いいだろう。ゼートゥーアに一筆書いてやる。おい、悪いがペンと便箋を」
使用人が屋敷へと向かうのを傍目に、レルゲンは大きく息を吸い、吐き出した。それはまるで、自らを換気するような心地だった。