大きな鞄を抱えて再び現れたレルゲンをどう受け入れたものかターニャはひどく迷ったが、ひとまずリビングに通した。荷物を預かろうと思ったが、衰えた腕ではとても受け取れない。客人に鞄を持たせたままという失態に胸が苦しくなった。
レルゲンの訪問があること自体は手紙で知らされていた。到着も時間通りだ。何の荷物かターニャには見当もつかなかったが、それが大きな問題だとは思わなかった。レルゲンにはすでに醜態を見られている。これ以上評価が下がることもないだろう。これがセレブリャコーフであればターニャは断っていた。彼女の期待を裏切りたくない。
しかし、目の前に座る男がやけにまっすぐな目をしていること、これはターニャにとって不可思議だった。軍人、それも権謀術数渦巻く参謀本部の人間の目ではないだろう。
「……それで、傷痍軍人の長期慰問とのことですが」
「ああ、私が君の担当だ。ゼートゥーア閣下に掛け合った。知った顔のほうがお互い都合がいいだろう」
知っている、と頷いた。ゼートゥーアから電話があったのだ。ゼートゥーアからは、ターニャの現状に関する情報が広まったわけではないこと、セレブリャコーフとレルゲンが直訴しにきたことを聞いていた。
「解せません。閣下は多忙な身でらっしゃるはずです」
「こう言うと君は怒るかもしれないが……志願したのだ。総務部はセレブリャコーフ少佐に預けてきた」
はあ、と呆れた声が出た。
総務部は少佐程度に預けてよいものではないし、准将が軍から身を引いた隠遁大佐を訪ねてくるものでもないし、有能な将校が長期間不在にできるほど今の軍部は暇ではない。なにもかもが馬鹿げていて、自分は薬で朦朧として夢を見ているのかとも思った。
ためしにターニャは頬をつねってみたが、レルゲンが訝しがる視線を向けているのに気づいて、手を下した。
「失礼。あまりにおかしな話なので、夢かとばかり」
「そうか。現実だ」
「そうですか。であればますます解せません。……私に気を割いている暇はないでしょう」
ターニャは時計に目をやった。今から電車で引き返せば、ぎりぎり午後の業務が終わる前に帝都へと帰ることができるだろう。残業すれば今日の決済も片付くはずだ。
そのことをレルゲンに伝えると、レルゲンは困ったように眉をひそめた。
「私が滞在するのは迷惑か?」
「いえ、そういうわけではありませんが、帝国のために……滞在?」
「二か月、君のそばで生活の手伝いをする。このあたりに借家があればよいのだが」
目の前の彼が言っていることはなにもかも理解できず、理解できない言葉だからこそターニャの心中には別段不快感が湧かなかった。久しぶりに知人との対話、それも落ち着いた対話が成立したことで、ターニャの気分はいくらか和らいだ。
とはいえ、人家もまばらなこの地域に、准将が住めるような借家があろうはずもない。
「土地の空きはいくらでもありましたが、借家はありません。借りる者がいませんから。……使っていない部屋があります。何もせずお戻りになるのも不都合でしょうから、もしご入用でしたらお使いください」
「いや、しかし、君は未婚だろう」
「私に女としての価値などありませんよ。部屋の掃除をしてきますから――」
「そんなことを言うな!」
ターニャは立ち上がろうとして硬直した。声を荒らげたレルゲンに恐る恐る目をやると、レルゲンはひどく困惑している様子だった。
何に困惑しているのだろうか。ターニャの卑屈さ、あるいは職務の奇妙さ。どちらもあり得そうだった。
「その、なんだ。君はまだ幼い。女性としての魅力はこれからいっそう醸造されるものだと、私はそのように思うし、そうであってほしいと願っているし、そうなるだろうと予想している。それだけの素養があると私は感じている。……声を荒らげてすまない。しかし、これは私の偽らざる本心であり――」
不思議な気持ちだった。ターニャは自分が女であることを意識したことはなかったし、意識するつもりもなかったが、こうしてまっすぐに、不純な感情もなく、己の魅力を語られるのは、少しくすぐったい。
頬を何かが伝うので、手の甲で拭うと、それが涙だと分かった。
「あああ、すまない、怖かったか、いまハンカチを……しまった、どこにやったか……」
「いえ、大丈夫です、大丈夫ですから」
「女性の大丈夫は大丈夫でないことを意味するそうだな、本当にすまない……ああ、あった」
臆病なほど優しい手で涙を拭かれるのを感じながら、ターニャは小さく笑った。自分が笑い方を覚えていたことが意外でしょうがなかったが、どうやらまだ心の生きている部分があるようだ。
慌てた様子で謝罪の言葉を繰り返すレルゲンは、かつて戦争を共に生き抜いたあの軍人とは思えないほど人間的だ。
「閣下は、御父上に似られたのですね」
「何の……ああ、君には話したのだったか」
「ええ、謝り癖の話を。私は本当に大丈夫です、閣下に怯えたわけではありません」
「しかし、涙が」
「久しぶりに感情が動くと、まずは涙から始まるようですね。……何のおもてなしもできませんし、たくさんご迷惑をおかけすると思いますが」
レルゲンのぎこちない微笑みからは、憐憫も同情も感じなかった。ターニャはそれが嬉しかった。だから、ハンカチを握る彼の手に、己の骨ばった手を添えた。
「二か月、よろしくお願いいたします」
「……ああ、もちろんだ、デグレチャフ」