レルゲンが真っ先に実行したのは、ターニャを風呂に入れることだった。上等な浴室は使われた様子がなく、新築の綺麗な状態が保たれていた。レルゲンは手早く湯を沸かし、石鹸とタオルを棚から引っ張り出した。
リビングルームの椅子に腰かけたままのターニャに声をかける。
「デグレチャフ、入浴の準備をしてくれ」
「……承知しました」
しかし、その場でターニャがシャツのボタンに手をかけたので、レルゲンは慌てて止めに入った。
「待て、ここで脱ぐ気か」
「なにか、問題でしょうか」
「ああ、いや、確かに君の家だ、君の自由なのだが……」
自分は何をしているのだろうか。レルゲンは混乱していた。子どもを風呂に入れることくらいなんということはないはずだ。しかし、戦場を共にした記憶が彼女を子ども扱いさせてくれない。
つまり、レルゲンは彼女が自分の前で肌を晒すことに的外れな羞恥心を感じていた。
だからといってターニャを手伝わないという選択肢はない。レルゲンは腹をくくって彼女を抱き上げた。
「ここで脱いでは体を冷やすぞ」
「閣下、自分で歩けます」
「私が甘やかしたいだけだ。いい浴室だな、あとで私も使わせてもらうがいいか?」
「それは、もちろんですが」
すっかり表情が乏しくなったターニャだが、困惑しているのは間違いなかった。
レルゲンはターニャの服を脱がせ、それを預かると、膝をかがめて彼女の目線に合わせた。
「下着はそこの籠へ入れておけ、着替えと取り換えておく。ああ、着替えの場所を聞いていなかったか」
「……寝室の衣装棚にあったと思います」
どうやら長らく着替えていなかったようで、あいまいな回答だった。汚れ方からもそれは察することはできる。とても衛生的とは言えない。しかし、それを追及することはせず、レルゲンは話を続けた。
「ゆっくり汚れを落として、温まってこい。そうだな、一時間後に声をかける。途中で何かあれば、気兼ねなく呼べ。いいな?」
ターニャがゆるゆると頷くのを確認して、レルゲンは浴室を出た。
女性服の洗い物は勝手がわからない。ひとまず空いている籠にまとめ、のちほど帝都のセレブリャコーフに指南を仰ぐことを決めた。
部屋の片づけもしたかったが、レルゲンは真っ先にやると決めていたことがある。
「……やはりか」
薬局の紙袋に入っていた調薬明細書と、入っている薬を比較する。明らかに減りが少ない。
ターニャの性格からして、自発的に服薬を拒否したわけではないだろう。しかし、服薬を忘れればそのぶん症状に苦しむことになり、回復も遅れる。このことは帝都の医師に直接確認した。
一日二回、六錠。レルゲンはしっかりと頭に叩き込んだ。忘れず飲ませるようにしなくてはならない。
薬を棚に戻すと、レルゲンは寝室に向かった。扉が開け放たれていたのですぐに分かった。
ほとんどものがない寂しい寝室だったが、壁には花束がかけられていた。また、小さな机にはいくつかの書き込まれた便箋が積んであり、セレブリャコーフから送られた手紙と、それにあてた返信であろうことは想像できた。目を通すことはしなかった。
あとで清潔なシーツに変えねばならないと思いながら、衣装棚から寝巻を取り出した。まだ日も沈んでいないが、ゆったりとした服は寝巻ぐらいのものだった。
浴室の扉をノックする。
「デグレチャフ、着替えを持ってきた。入るぞ」
返事の代わりに湿った咳が聞こえた。
妙に嫌な予感がして、レルゲンが扉を引くと、ターニャは浴槽に凭れて激しく咳き込んでいた。ひどく水を飲んだのが容易に分かる。
レルゲンは慌てて彼女を引き上げ、浴室の椅子に座らせた。
「どうしたデグレチャフ、大丈夫か」
「……申し訳ございません、閣下のお手をまた煩わせてしまいました」
「そんなことを気にしている場合か。痛むところはないか? どこも打っていないな?」
ターニャの咳に声が混じり始めた。それが泣き声だと気づくまで、それほど時間はかからなかった。ひどくか細く、弱弱しい泣き声だ。
なぜかはわからない。レルゲンはその泣き声に胸を締め付けられるようなつらさを感じた。
「あまりに、あまりにみじめだ、こんな……穢れて、傷だらけで、醜い姿を晒して……死んでしまいたかった……」
レルゲンは息を呑んだ。
あまりに、残酷なほど配慮に欠けていた。彼女の誇りを傷つけ、羞恥心に火をつけてしまったのだ。
レルゲンは血が出そうなほど奥歯を食いしばった。数十分前の自分を殺してやりたかった。水に沈むべきなのは自分のほうだというのに。
自分がひどく矛盾していることを自覚した。一方では子どもと思えないとしておきながら、もう一方では子ども扱いをして軽んじる。あまりに愚かで、あまりに邪悪だ。
「このみじめさとともに沈んでしまおうとしました。なのに……なのに、あなたの声が聞こえて。浅はかにも、死ぬことを諦めてしまった。私は、私は……」
「……デグレチャフ。私は君の誇りを傷つけ、恥をかかせ、屈辱を与えてしまった。この罪をどう償えばいいかわからない。しかし、いいことがひとつある」
見上げてくるターニャと目が合って、レルゲンはこれまでにない緊張に襲われた。
新品のバスタオルで彼女の体を包む。
「少なくとも、君は生きている」
「……はい、生きています」
「それは私にとって喜ばしいことだ。罪を償う機会があるかもしれない。君はどうだろうか、デグレチャフ」
ターニャはまだ涙を流し、時折しゃくりあげていたが、ゆっくりと返事をした。
「わかりません。生きているのが喜ばしいかどうかは。しかし……しかし、閣下に罪がないことも、閣下が努力してくださったことも、理解しているつもりです」
「……そうか。落ち着いたら体を拭いて、着替えてきなさい。夕食の準備をしておく。準備とはいっても、缶詰を温めるくらいしかできないが」
レルゲンは無力感に苛まれながら浴室を出た。しかし、敗北している暇はなかった。レルゲンは覚悟したのだ。必ずやターニャ・フォン・デグレチャフの幸福を回復すると。