「高幡くんは、キスをしたことがありますか?」
二人きりの教室に突如として響いた問いかけ。いつもなら凛としていて涼しげな声色のはずが、緊張しているのか僅かに乱れていることが分かる。問われた側の少年、高幡志緒は読んでいた雑誌を閉じ、声の主であり質問者でもある少女、北都美月に視線を移した。
「なんだ、藪から棒に」
「いえ、つい気になったので。幸い、今は私たちしかいませんから」
そう言って教室を見回す美月。それに倣って志緒も室内を見渡すが、確かに自分たち以外には誰の姿もない。みな、部活動と言う名目で異界の調査をしている頃だろう。
異界と言っても、お伽噺などではない。本当に実在するのだ。門(ゲート)と呼ばれる特異点を起点にして、現実世界と異界が交わることがある。そうして顕現した異界を、志緒と美月、そして同じ部活──X.R.C.に所属する面々で対処にあたっているのだ。
異界は本来、素質のある人間にしか見えないらしく、待ち受けているのも怪異(グリード)と呼ばれる魔物ばかりだ。志緒はあることが切欠でその異界と関わることになった。美月は自身の祖父が会長をつとめる北都グループが所属しているゾディアックと呼ばれる組織の一員と言うこともあり、こうして部活に在籍している。もっとも、部活に顔を出すのはゾディアックからの指示ではなく、あくまで自分の意思だが。
そして今、志緒と美月を除く面々は異界の調査などを行うべく校外に出ている。志緒と美月も本来であればそれに参加するはずなのだが、美月は生徒会長の仕事もあるため今日は待機組に回され、志緒もいざと言う時の戦力として温存することを決められたのだった。
「それで、したことあるんですか? ないんですか?」
興味津々といった様子で身を乗り出してくる美月。それに対して志緒は関心がないのか溜め息を零す。
「そもそも、どうしてそんなことを聞くんだ」
「実は、生徒会メンバーの1人に恋人ができたらしいんです。
ですが、ここX.R.C.では一切そのような話は聞かないので。なにより高幡くんには聞いておいた方がいいと思いましたから」
「おい、最後のはどういう意味だ」
「特に深い意味はありませんよ」
いつものにこやかな笑みを浮かべる美月。本当に食えない奴だ──と、内心で毒づくが、聞きやすいと言うのもあるのだろう。これでもX.R.C.の面々の中では1番付き合いが長いのだから。
「あるっつったらどう思う?」
「えっ……」
志緒の言葉に面食らったのか、美月は目を丸くしてしばらく硬直してしまう。
「冗談に決まってんだろ」
「そ、そうですよね……びっくりしました」
「まぁ、お前の予想通りそんなことは1度たりともしてねぇよ」
「だろうと思いました」
「だいたい、そういうお前はどうなんだ?」
「私ですか? 当然、ありませんよ」
志緒の問いかけに、美月は何故か胸を張りながら自信満々に答えた。
「流石にあるわけないか」
「ふふっ、今のはどういう意味でしょうか?」
「……別に」
食えない奴だから──そう言いかけたが、美月の笑みに意味深なものを感じて口を閉ざす。恐らく真意には気付いているのだろうが、彼女もそれ以上は言及してこなかった。
「では……せっかくですから、試してみますか?」
「……は?」
「キスを、してみませんか?」
「何を言っているんだ、お前は」
突拍子もないことを言うのには慣れたはずなのに、今回ばかり驚かされた。どうせ冗談に決まっている──そう決めつけて再び雑誌を開いた志緒だったが、美月が席を立ち、すぐ傍まで歩み寄ってきた。
「高幡くん、こっちを向いてください」
流石に無視し続けると言うのもよくないだろう。致し方なく、美月の方を向くと、ゆっくりと近づいてくる。
「お、おい、北都……!」
長く艶やかな髪が志緒の前に下がり、女性らしい甘い香りが微かに薫った。直視できず、目を逸らしそうになるのを必死に耐える志緒。やがて美月は近づくのを止めて、すっと下がった。
「ふふっ♪」
「……お前、たばかったな?」
「高幡くん、顔が真っ赤で可愛かったですよ♪」
からかうためにわざと志緒に近づいた美月は、満足なのかにこにこと微笑んでいる。一方、からかわれた志緒は未だに鼓動が高鳴っており、笑っている美月を恨めしく睨む。
「高幡くん、あまり動じないかと思っていたんですが、貴重なものが見られました」
そう言って自分の所定の席に戻ろうとする美月。しかし突如として、行く手を阻むように横からぬっと手が伸びた。驚き、下がろうとするが、それより早く背後も手が出されて逃げ場をなくしてしまう。
「あ、あの……高幡、くん?」
壁際に追い込まれる形となった美月は逃がすまいと両手を突き出している志緒と向き合う。あまりにも近い互いの距離に、今度は美月の方が顔を赤くしていく。
「ならお前は、何も思わないって言うのか?」
顔を背けることはさせまいと、志緒の指が美月の顎にかけられる。互いにしばし見詰め合い、そして───。
「人をからかうのも、程々にしておけよ」
それだけ言い残し、志緒はさっさと教室から出ていった。残された美月はへなへなとその場にへたり込み、恐る恐る自分の唇に触れる。
もし本当にキスをしていたら──その状況を妄想し、あることに気がつく。
(嫌じゃない、かも……)
そう思ったのは、未だに静まることのない緊張故なのか、はたまた本心からなのか。それは、美月にも分からなかった。
一方、教室を出た志緒はまっすぐに屋上へ行き、美月と同様に座り込んでいた。
(何やってんだ、俺は……)
仕返しとは言え、我ながら随分と大胆なことをしたと思う。美月に迫ったことを思い返し、また溜め息を零す。
(寿命が縮むかと思った……)
鼓動は未だにおさまる気配を見せない。羞恥心を示すように差した赤みが顔から引くのは当分先のようだ。