東亰校外の多摩地域にある杜宮市。その中心地たる杜宮駅からも徒歩で行かれる場所に杜宮学園がある。その3階に置かれている生徒会室の中で、北都美月は書類に目を通してはサインを記したりそのまま反対側のスペースに置いたり黙々と自分のすべきことを進めていく。
しかし、壁にかけられた時計は既に0時を過ぎており、高校生が残るにしては遅すぎる時間だ。それでもここを追い出されずに済むのは、偏に自分が北都グループの会長の孫にあたるからだろう。もっとも、美月自身がそれに頼り切ることは滅多にないため、速い所学校を出た方がいい。
(でも、もう少しだけ……)
彼女がここまで躍起になるのは、つい先程本校の生徒である柊明日香が行方を晦ませたからだ。それは本来であれば警察に任せる事案なのかもしれないが、事実は違う。明日香は門(ゲート)と呼ばれる特異点から繋がる異界に入り込み、そこで異形の魔物たる怪異(グリード)との戦闘中に行方知れずとなってしまった。
美月は異界を知る者として、そして生徒会長として明日香を救出するべく各所への根回しと救出に必要な準備を整えて、未だに学園に残っていた。
「……ふぅ」
一段落ついたところで、大きく息を吐く。だいぶまとまったが、それでもまだやらなくてはならないことはそれなりにある。いつも傍に居てくれている秘書の京香は別で動いてもらっているため、生徒会室には自分1人だけだ。
身体をほぐそうとぐっと伸びをしていると、遠慮がちに扉がノックされた。
「はい?」
返事をするもののすぐに扉は開かれず、何故か溜め息をしているのが微かだが聞き取れた。いったい誰が──そう思っていると、答えを思いつく前に1人の男子生徒が入室した。
「やっぱり、まだここに居やがったのか」
「高幡くん?」
思わぬ来訪者に、美月は目を丸くする。
高幡志緒──少し前から異界に関わるようになった彼とは同級生であり、異界に関わる前から多少なりとも面識がある。
「お前のことだから1人で黙々と作業しているんじゃねぇかと思ったが……まさか本当に残っているとはな」
「そういう高幡くんこそ、帰るよう伝えたはずですが?」
「不良ってことで名前が通っている俺が、素直に帰ると思ったのか?」
笑み、自動販売機で買ってきたと思われる紅茶の入ったペットボトルを机の上に置く志緒。彼の手には、缶コーヒーが握られている。まだやることが残っているのを見越して、買ってきてくれたようだ。
「それにしても、お前はつくづく底が知れないな」
「まだ言うんですか? 時坂くん達に変な誤解をされては困るのに」
口ではそう言うが、表情はまったくそんな素振りがない。寧ろ笑顔で、志緒の言っていることを楽しんでいるように見える。本当に底の知れない女性だ──志緒は出かかった言葉を呑み込み、代わりに溜め息を零す。
「どうせ、俺が異界に関わるようになったのも、すぐに知っただろ?」
「そんなにすぐではありませんよ。まぁ、数十分はかかったでしょうか」
「……ったく」
美月が紅茶を飲み干したのを見ると、缶コーヒーを置いて空になったペットボトルを受け取った。
「捨ててくる」
「あ……」
制止する言葉をかける前に、志緒は教室の外へと出て行ってしまう。帰ってきたら、ちゃんと「ありがとう」と伝えなくては──そんな美月の目に、ふと彼が置いて行った缶コーヒーがうつる。種類としてはブラックのそれを手に取ると、躊躇うことなく一口。
「苦いっ……!」
だが、その苦さに美月は思わず悶絶する。普段からコーヒーなど飲まないのに、いきなりブラックコーヒーを飲めば苦味に戸惑うのも無理はない。しかしそんなことは考えれば誰でも分かることであり、傍から見れば美月らしからぬ行動だったことだろう。
(高幡くん、よくこんなにも苦いのを飲めますね)
紅茶を残しておけば良かった──そう思っている内に、志緒が戻ってきたため、慌てて缶コーヒーを元の位置に戻し、何食わぬ顔で出迎える。
「すみません、わざわざ捨ててきてもらって」
「別に。お前にはやらなきゃならねぇことがまだたくさん残っているみたいだからな」
「たくさんと言っても、もうほとんど片付きましたから、後は確認作業だけなんですけどね」
「……なら、少し聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「どうぞ」
「時坂に柊のことを、ネメシスの一員じゃなく学院生徒の1人として見て欲しかったって言われたが……あいつらのこと、試したんだろ?」
「……ばれちゃいましたか」
苦笑いする美月に、志緒は頭を抱える。行方知れずの明日香は、ネメシスと言う組織に属しており、そこで異界に関するエキスパートとして活動している。そんな彼女を助け出すことに、別の組織たるゾディアックに属している美月は足踏みしてしまった。
もちろん、内心では助けるべきなのは分かっていたが、それでもネメシスとゾディアックと言う組織に属している以上すぐに動くことはできない。それが美月に足踏みをさせた原因でもあり、故に洸たちが明日香を助けるべく動いてくれるかが気がかりだったのだ。
「でも、今思えばあれは失敗だったかもしれませんね」
「どういうことだ?」
「あんな試すようなことをすること自体、柊さんに対して悪かったんですから」
「……なら、良かったじゃねぇか」
「え?」
「それに気づくことができたんだろ。だからお前は今、柊のために頑張っている……違うか?」
「高幡くん……」
「お前がどれだけ頑張っているのか、俺は分かっている。だからもう、変に気負うなよ」
美月の頭を優しく撫でて、志緒は残してあった缶コーヒーを飲み干して教室を出て行こうとする。
「時に高幡くん」
「ん?」
「時坂くん達の前で、私のことを【底が知れない】と評したこと、忘れないでくださいね」
「へいへい」
にっこりとほほ笑む美月に、志緒は手をひらひらと返した。やがて扉が閉まったところで、溜め息を零す。だが、それは疲労から来るものでも、緊張がほぐれたからのものでもない。その証として、美月の顔は先程までの険しい物とは違い、少しだけにこやかになった。
しかしそれ以上に、志緒に撫でてもらった場所が妙に熱い。それに気付きかけた美月は慌てて頭を振って、改めて明日香を救出すべく動き出した。