――ただ見ていた。
ただ高い高い空の上の更に上にある『そこ』から地上を見下ろしていた。
この世界において最も異端な生まれである彼女にとって、地上とは未知の世界であり、一般に不可侵領域とされる場所こそが本来の住処だった。
生まれた時からずっとそこにいた。
地上の誰しもがそこにたどり着くことを願うはずの場所に、けれど彼女は最初からいた。
だからだろうか。
空の上に在るはずの彼女は、けれど逆に空の下の地上に興味を持った。
―――ただ見ていた。
地上をただ見下ろしていた。
* * *
人間というのは本当に多種多様な生き物だ。
同じ『人間』という一つの種族として括られている癖に、まるで言ってることもやっていることも考えるこも違う。それも個人個人で、だ。
シエル本人にとって『個』という概念はそれなりに馴染みがあるが、シエル『たち』にとっては余り馴染みの無い物であるが故に余計にだ。
基本的に動物というのは種族ごとに同じような生態をしている。
同じような物を食べ、同じような物を飲み、同じような場所に住み着き、同じような場所に寝て、同じようなサイクルで生活する。
同じ種族なのだから当然だろう。
特に幻想生物はこの傾向が非常に強い。
概念が魔力で肉体を形作り現象化した存在であるが故に、元の概念にどうやっても縛られる。
それは動物で言うところの『本能』というものだ。
だが人間にはここにさらに『理性』というものが加わる。
人間というのは自ら『我慢』ができる動物なのだ。
こればかりは世界中探しても滅多にいるものでは無い。
そしてその『我慢』が思考の多様性を生み、思考の多様性こそが『個性』を形作る。
人間は『群れ』で生きる生物だ。
この地上で生きるには『個』の力が弱すぎて、その体は脆すぎて、だから『群れ』を成して生きる。
だというのに人間は『個』を抱えたまま生きる生物でもあるのだ。
『個』でありながら『集』であり、そして『群』である。
人間というのは本当に不思議な生物だとシエルは思う。
誰も彼もが寝静まった夜半過ぎ。
宿のベッドの上で眠っていたシエルの目が開く。
正確に言えば『目を閉じてじっとしていた』というのが正しいのだろう。
『陽の住人*1』に分類される人間とは違い、シエルのこの体には『眠り』というものが存在しない。
まあとは言え、シエルが『夜の旅人*2』なのかと言えばそれはまた別の話ではあるのだが。
シエルはこの地上の生物のいずれとも違う存在ではあるが、あえて分類するなら『黄昏の幻影*3』である。
故に本質的に『食事』や『睡眠』と言った行為を必要としない。
つまり昼前に食べていたのも、夜に寝ているのも『道楽』の延長でしかない。
とは言えシエルが今この地上にいるのもその『道楽』のためという面が強いのでそれはそれで良いのだろう。
何よりも『
「良く寝てる」
呟きながら机に突っ伏して眠る少年の姿を見てくすりと笑みを浮かべる。
「本当はアナタだってそんなもの必要無いのに」
まだ『人間の時の習慣』が抜けないのだろう。
「もう一年も経つのにね」
彼と出会ってから。
* * *
地上の風景を見ることが好きだった。
でも。
こうして地上から空を見上げると不思議な気持ちになる。
「遠いのね……空って」
手を伸ばしてみてもまるで届かない。
立ち上がるだけで『天』に届くような巨人もいるらしいが、生憎シエルはそういう存在をまだ見たことが無い。
そうして見上げた『天』は星々が輝いていて、まるで真っ暗なキャンパスに散りばめられた光の粒のような芸術的な美しさがあった。
「本当に綺麗ね」
シエルはずっと『見下ろす』側だった。
だからこうして『見上げる』側になってみると、空の美しさに溜め息が出る。
「やっぱり地上に来て正解だったわね」
ずっと『天』に居たのでは何十年、何百年、何千年かかっても知ることは無かっただろう光景だった。
そうして見上げながら街の大通りを歩く。
数時間前まで人でごった返していたこの通りも、こんな夜遅くに歩くような物好きはシエルくらいしか居ないと言わんばかりに閑散としていた。
まあそれでも見回りの兵士が巡回しているらしい松明の光も見えたし、何やら悪だくみでもしているのかこんな夜半にこそこそと動く人影も見た。
はて、これからどこぞに窃盗でも行くのだろうかなんて思いながらもシエルはそれを誰かに伝えようとは思わない。
そういう人間のことは人間が対処すれば良い。
シエルはそんな人間同士のあれこれに首を突っ込むつもりは無い……シエルは。
そうして大通りを歩いて抜ければやがて港へと出る。
居並ぶ魚市場は朝になれば賑わうのだろうが、さすがにこの時間では誰も居ない。
ざあざあという波の音が響いてくると暗闇の向こう側に漆黒に染まった海が見えた。
「おっきな水溜まりよねえ」
海は広大だ。
初めて見た時はこんなにも大きな水溜まりが存在することに目を丸くしたし、その上この水溜まりが世界中で繋がっていると知った時の衝撃は計り知れない。
シエルが『見下ろしていた』頃に見ていたのは地上の生物の営みだった。
地上で生きる者たちがどんなことをしているのか、特に人間は多様性があって見ていて飽きない存在だった。
けれどこうして地上に降りて来てみると、世界はそれだけじゃない、ということが良く分かる。
見上げた空の美しさ。
どこまでも広がる海の広大さ。
壮大なる草原に、そこに吹いた風、香る草木の匂い。
陽に照らされた森の影の移ろい。
湖面に映った月の寂寥感。
人の街の賑やかさ。
どれもこれも見ているだけじゃ分からなくて、気づけなかったものばかりで。
だからシエルはこの地上にやってきて良かったと思っている。
それに、何よりも。
「
その名を呼ぶと、少しだけ心臓が跳ねる。
彼に合わせて人の姿を取ってみたがどうにもこの体は不思議が多い。
初めて彼を見つけてから一年。
それは彼と共に旅を始めてからの時間に等しく。
一年の間、ずっと胸の奥でむずむずと疼いていた何か。
「何なんだろうこれ」
胸を手を当ててみても、良く分からない。
人の姿をした弊害だろうか、とも思ったがそもそも彼を見つけた時、つまりまだ地上に降りる前から同じような感覚はあって。
ソレーユに聞いてみようか、と思ったこともあったが。
「何でだろう?」
それを口にしようとするとどうしてだろう、言葉が出なくなる。
それに何だか顔が熱くなって、思考がぐるぐるとして上手く回らなくなる。
人の身を再現しただけの『化身』であるが、本質的にシエルは人ではない。
だからこそ不調なんてものとは無縁のはずなのだが。
「本当に何でだろう?」
そんなことを考えていると、ふっと光が海に反射した。
顔を上げれば太陽が昇り始めようとしていて。
ああ、もうそんな時間か、と思うと共に。
「……綺麗」
朝焼けの海の美しさに息を吐いた。
* * *
人間というのは本当に多種多様な生き物だ。
そこには一人一人に『個性』があって、『嗜好』がある。
その中でも『食』に対するこだわりは本当に凄い。
「え、生? 生で食べるの? 魚を?」
「そうですよ。新鮮な海の魚はきちんと処理すれば生で食べることができます。『刺身』と言いましてうちの人気メニューですよ?」
びっくりしたような顔で目の前の皿を穴が開くほど見つめるソレーユに笑顔で説明する宿の従業員。
その横でシエルは平然とした顔で茶色のソースのかかった白身の魚にフォークを突き立て、口に入れる。
「あ、シエル」
「んぐ……んぐ……あら、美味しいわね。このぐにぐにした食感が溜まらないわ」
「だ、大丈夫なの?」
「大丈夫に決まってるでしょ。私を何だと思っているのよ」
例え猛毒を持つ魚だったとしてもシエルからすればただの『物質』だ。
口に入れ、咀嚼し、嚥下した段階でそれは『魔力』へ置換される。
人間の体を模していても本質的には人間ではないのだから、この地上でシエルをまともに害せる物質はほぼほぼ存在しないと言っても良い。
「ソレーユだってもう似たようなものなんだから、安心して食べなさい」
「うーん……分かったよ。物は試しだ」
少しばかり躊躇が見えたが同じようにフォークを使って口に運ぶ。
「あ、美味しい」
「それは良かった」
従業員が喜色をあらわにしながら、さらに追加で小皿を並べる。
「こちら付け合わせのソースですね。塩ベースの柑橘系ソース、今かかっている醤油ベースの山葵ソース、オリーブオイルを使ったバジルソースに、根菜を摩り下ろしたみぞれソースともみじソースになります」
「ソースだけでこんなにたくさんあるんだ」
「どれも試したいわね……こっちの刺身の皿もう二皿お願い」
「はーい、毎度ありがとうございます」
「え、シエル二皿も食べるの?」
「これだけバリエーションがあるなら全部試してみたいじゃない」
「よく食べるね……」
この地上において食べる物を『調理』をするのは人間という種族だけだ。
基本的に生物は食べるという行為を『必要』に迫られてやっている。故にそこに味は余り関係しない。
極論生きるための『栄養』さえ補給できれば何でも良いのだ。
そこにさらに消化器官などの関係で『食べられる物』と『食べられない物』を区別する。
そして食べられる物の中から自分の手に入る範囲の物を選択して食べようとする。
そこに『調理』という手間は入らない。
何故ならそれは必要の無い手間だからだ。
動物にだって味覚はある。
より美味しい食べ物を食べようとする思いはあるし、だからこそ良質な食べ物を求める。
だが自分で食べ物を『美味しくしよう』とするのは人間くらいだ。
それは大概の生物にとって『食事』とは生きるための行為であるが、人間にとって食事とは『娯楽』の一つだからだ。
食事だけに限らず、人間というのは『無駄』が好きな生き物だ。
『必要』のためにあれこれと欲する傍らで、同じくらい『無駄』も集めているのが人間だ。
だがその『無駄』こそが『文化』と呼ばれ、人の多様性を生み出しているのだとするならば、その『無駄』は決して無駄ではないのだろう。
少なくとも、シエルはその『無駄』を嫌いだとは思わない。
それはシエルの元いた場所には無い物だ。
『天』は合理と法則の世界だ。
『無駄』を省き、『必要』と『合理』で持って構成されるその世界は、半ば機械的ですらあり、絶対的な『システマチック』だった。
正直なところ今更あの場所に帰っても退屈すると思っている。
あの場所には本当に何も無いのだ。
そこに住まう者たち全員が指先一つでこの地上を滅亡に追い込むことができるような存在ばかりだったが、けれど必要以上のことをしようとしない。
気まぐれに地上に手を出すことも無く、悪戯に地上をかき乱すことも無く。
『天』では何もする必要が無い。
一番上の存在が決定したことを下位の存在が淡々と熟す。
それだけの日々が延々と繰り返されている。
地上において『天』に住まう存在を『神』などと呼ぶこともあるらしいが、けれどシエルからすればあそこにいるのは『枯れ木』どもだ。
まだしっかりと土台となる根が……力があるのに、葉を、花を咲かせようとしない、実をつけようとしない。
何かを『達観』してしまったように、あそこの住人は心を動かさない。
まるで機械仕掛けか何かのように。
正直あの場所を好きだったなどとシエルは口が裂けたって言わない。
とは言え嫌いだったかと言われるそうでも無い。
はっきり言えば好きも嫌いも思えないほどに何も無い、というのが正しいだろう。
この地上を、この星を、この世界を統括するはずの理を司る者たちがいる『天』なのに、けれどそこはこの世界のどこよりも空虚な場所だった。
「あむ……うん、美味しい」
色々なソースを試し、時に組み合わせながら一番美味しいと思うソースの配分を見つける。
試行錯誤という言葉をこの地上に来て初めて知ったシエルだが、それは素晴らしい言葉だと思った。
「やっぱり人間って面白いわ」
上から見ていただけでは分からないことがたくさんあった。
少なくとも海を泳ぐ魚を生で食べるとこれほど美味しいのだとシエルは今日初めて知った。
「今日も一日楽しみね」
そう呟きながら笑みを零した。