悪役貴族の矜持   作:羽場

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第0話 学生時代の記憶

 ――生まれて初めて地面に叩き伏せられた。

 

 ――そのとき噛んだ砂は、鉄の味がした。

 

 ――それは、決して忘れられない敗北の味だった。

 

 

 

 1

 

 貴族の子弟なら誰でも通う、ラ・ポーテ王立高等学校。

 そこで僕は、『あいつ』と同じ教室だった。

 あの黒い髪をした、憎ったらしい、僕の運命を決定づけたといっても過言ではない男と――。

 

 もっとも、入学してしばらくは、ほぼ他人同然だ。

 同じ教室であるし、全寮制でもある。もしかしたら、一言二言くらいは言葉を交わしたことがあったかもしれないが、あいにくと記憶にはない。

 興味のない者にわざわざ関わろうとするほど、僕も暇じゃなかった。

 

 そんな僕が、あいつと他人以上の関係になったのは、一年の課程も中盤に差し掛かったころ。

 大型走鳥類の騎乗訓練で、僕とあいつがバディになったのがきっかけだった。

 

「やあ、よろしく」

 

 これが始まりの挨拶。

 あいつがにこやかに笑って言い、手を差し出したのだ。

 

 だが、ちょっと待ってくれと僕は言いたい。

 その態度はだいぶおかしいんじゃなかろうか、とね。

 

 自慢じゃないが、僕はすでに教室の中心グループのリーダー的存在だった。

 なにせ僕の生まれは侯爵家。この威光の前には誰も太刀打ちできず、皆がこぞってゴマをする。

 

 それに僕自身の素晴らしさも忘れてはならないだろう。

 眉目秀麗にして頭脳明晰。そこを見込まれて、入学式の学年代表挨拶をしたのは誰であろう、この僕だったのだから。

 

 対してあいつはなんだ。

 根暗グループに属して、さして優秀さも見受けられない。

 貴族ではあるが、その家格は中の下といったところ。

 僕のような侯爵家の生まれからすれば、庶民と変わらないといって良かった。

 

 だからこそ、あいつの「やあ、よろしく」なんていう気安い挨拶と、手を差し出した馴れ馴れしさには反吐が出た。

 本来であるならばそこは、「どうかよろしくお願いします」と頭を下げ、僕が手を差し出したのちに、「ありがとうございます、ありがとうございます!」と感涙にむせびながら両手でもって、僕の手を握り返す場面だ。

 

 まあ、僕は優しいから、「あわわわわ」と立ち尽くすだけでも、及第点をあげただろうがね。

 偉大な人間を前にして、緊張に言葉を喋れなくなるというのはママあることだ。

 

 とにかく、僕が言いたいのは――敬意。

 そう、あいつには僕に対する敬意がまるで足りていなかった。

 

「僕の実家は、侯爵の位を戴く名門中の名門。少し口の聞き方がなっていないんじゃないか?」

 

 もちろん指摘したさ。同格だと勘違いされても困るしね。

 すると、あいつはちょっと驚いたあと、得意げな顔になってこう言ったんだ。

 

「この学校では皆が横一列。立場や地位は持ち出さないという規則ではなかったかい?」

 

 確かにそういう規則は存在する。

 僕は「なるほど」と答えると、あいつの手を取って握手を交わした。

 頭の中では、この空気の読めないこましゃくれをどうしてくれようか、と企みながら。

 

 

 

 2

 

 刑は速やかに執行された。

 僕の密かに伝えていた命令によって、昨日まであいつと仲良く話していた者たちが、揃って無視したのだ。

 

 再三になるが、僕は教室の中心グループのトップ。

 あいつを孤立させることなどわけはなく、そのときの「え?」と訳もわからずに立ちすくむあいつの姿といったら、これまでに見たどんな喜劇よりも滑稽だった。

 

 周囲からもクスクスという笑い声が聞こえ、嘲笑の視線があいつへと向けられる。

 なにも知らなかったのは、あいつだけ。

 そして、あいつは顔を真っ赤にして自分の席に座った。

 

 あいつの孤立無援は、以後もずっと続いた。

 それだけじゃない。あいつのあらゆる行動に対し、僕が中心となって揚げ足を取ったり、あるいは罠にはめたりした。

 そのたびに笑い声が巻き起こり、そうやってあいつは教室内における『娯楽の対象』という、憐れなポジションへと堕ちていった。

 

 もちろん僕に、酷いことをしている、という認識はまるでない。

 すぐに原因を理解してあいつが謝ってきたのならば、海よりも深い寛大さで、僕も許してやるつもりだったしね。

 

 しかし、あいつはそうしなかった。

 いや、もしかしたら自分がなぜイジメられているのか、いまだに気付いていないのかもしれない。

 そもそも、そういう察しの悪さが現在の状況を生んだのだ。

 

 やがて、この状況に耐えられなくなったあいつは、僕に直接文句を言ってきた。

 仮にイジメられる原因が不明であっても、イジメの主犯は僕であったし、その行動はわからなくはない。

 でも、僕はしらを切った。

 

「なんのことだい? 言いがかりはよせよ」

 

 だが、あいつはそんなことでは納得せずに、「ふざけるな! お前たちがいつもやっていることだろ!」と声を荒らげて突っかかってくる。

 そこで僕からの一対一の決闘の提案だ。

 

「こいつはとんでもない侮辱だ。よろしい、ならば決闘で勝負をつけよう」

 

 あいつの顔がギョッと引きつった。

 これまで暴力的な行為を僕は一切していない。

 だからこそ、そういった展開にはならないと高をくくっていたに違いない。

 

 こちらとしては、あいつに決闘を受ける度胸がないことは知っていたし、仮に決闘を受けたとしても、僕が負けることはありえない。

 武器術でも徒手格闘術でも魔法術でも、僕はこの教室で一番だったからだ。

 

 予想通り、あいつは逃げるように言葉を濁し、その場を取り繕った。

 そして、これこそが互いの上下関係を確定的なものにしたのだといっていいだろう。

 

 それから一週間が過ぎた、昼休みの教室。

 そこにあるのは、『対等』という価値観をポッキリと折られ、僕に屈服したあいつの姿――。

 

「おい、弱虫。焼きそばパン買ってこいよ」

 

 僕が言うと、あいつの顔がひどく歪んだ。

 口を一文字に縛って、悔しそうに、嫌そうに。

 

 あいつはすぐには動き出さない。

 ただ言いなりになるのは、プライドが許さないのだろう。

 

 しかし、「制限時間は三分な」という言葉を付け加えると、あいつは渋々といった様子で立ち上がり、教室を出ていった。

 言いなりになるのは嫌だが、制限時間に間に合わなかったときに強制執行される罰ゲームはもっと嫌だ、ということだ。

 教室を出たあとは、全速力で走っているに違いない。

 

 そして僕たちは、あいつが間に合わなかったときになにをやらせるかを、笑い声まじりに話し合う。

 これが、今では当たり前となった教室の昼休みの光景。

 馴れ馴れしく握手を求めたかつてのあいつは、もうどこにもいないのだ。

 

 しかし、この状況がそれほど長く続かなかったことは、あまりに予想外――。

 それこそ、買ってこさせた焼きそばパンの中に、あいつがこっそりと鼻糞を入れていたのを知ったとき以上に、思いもよらないことだった。

 

 

 

 3

 

 春、夏と季節が移り変わる。

 それに伴って、僕たちも二年生となった。

 

 別に進級したからといって、これまでと大きくなにかが変わるというわけでもない。

 教室のメンツはそのまま。せいぜい徽章の色が赤から橙になり、教室が廊下の東から廊下の西へと移動するのが、一年から二年への一般的な変化だ。

 

 けれども、うちの教室にだけは、ちょっとしたサプライズがあった。

 ある女が転入してきたのだ。

 

「えー、彼女は今日から皆さんの新しいお友達となります――」

 

 担任の中年女教師による、転入生の紹介を聞きながら、僕は「おや?」と思った。

 貴族学校はここラ・ポーテ王立高等学校しかない。

 そのため、転入とはおかしな話である。

 

 だが、担任の説明によると、転入生は教会所属の人間。

 そこでずっと教育を受けていたため、一年生課程は免除ということになったらしい。

 

 転入生はショートカットの黒髪で、顔は良く整っていたが、彫りは浅く、十代前半であるかのようなあどけなさを残していた。

 しかしその一方で、同学年にはない大人びた雰囲気を彼女は帯びている。

 なんというか、他人を路傍の石でも見るかのような、――そう、冷めているのだ。

 自己紹介でも、まるで誰とも仲良くするつもりはないとでもいうように、そっぽを向いて名前だけを口にした。

 なんという愛想のなさだろうか。

 

 もっとも、僕は彼女のことがちょっと気に入っていた。

 人形のような綺麗な容姿もさることながら、他人に媚びようとしない高潔さは、僕に通ずる部分があったからだ。

 

 ならばと思い、彼女に粉をかけようとしたのであるが、これは残念――。

 僕も他の者と同様、素気なくあしらわれるだけだった。

 

 まあ、別にどうでもいい。女なんて、ほかにいくらでもいるしね。

 世界の半分は女で、僕は侯爵家の跡継ぎだ。負け惜しみでもなく、本気でそう思っていた。

 しかし、どうにもこの転入生は特別な存在であったらしい。

 

 それは格闘訓練でのことだった。

 あいつと転入生をわざとペアにさせ、僕たちはヒューヒューと皆で冷やかしていたんだ。

 

 しかし、そんな周囲の空気を拒むように、転入生はあいつを叩きのめした。

 これには、一同等しく沈黙である。

 転入生の強さは僕ですら舌を巻くほどだったが、それ以上にあいつに対する容赦のなさ――必要以上にあいつをボコボコにする彼女の姿が、僕たちに言葉を失わせた。

 

 しかも、暴力だけで終わりじゃない。

 転入生の残酷ともいえる追い打ちが、その口から発せられたのだ。

 

「あなた、周囲からイジメられたままで、自分で自分を情けないとは思わないの?」

 

 尻餅をつくあいつに対し、上から軽蔑するように投げかけられた言葉――。

 あいつをイジメていた主犯の僕ですら、うげっ、と思わずにはいられない。

『イジメ』というキーワードには、はっきりと触れないでおく優しさが、僕にも、仲間たちにもあったからだ。

 

 性別の違いゆえか、男には越えてはならない一線があることを転入生は知らないのだろう。

 それとも知っていて、あえて言っているのか。

 

 どちらにしろ、性格に難ありだ。気遣いという人間に必須の要素が欠如している。

 将来、三度は離婚するだろうな、と転入生のかわいそうな未来を僕は確信した。

 

 なお、言われたあいつは、唇を噛むようにして転入生を睨んだ。

 ――が、逆に睨み返されて、地面に視線を落とす始末。

 なんとも情けないやつだと僕は思った。

 

 転入生もこれには、はぁ、と呆れ混じりのため息を吐いた。

 そして、彼女はとんでもない爆弾を落とすことになる。

 

「もう少し秘密にしておくつもりだったけど、あえて言うわ。私は教会に認められた『賢者』。――はい、これが証明のペンダントね」

 

 周囲の沈黙が、騒然へと変わった。

『賢者』とは、教会における最も栄誉ある称号。

 地位や名誉、業績や信仰などといったものに一切囚われず、求められるのはひたすら戦闘技量のみ、という話は世間の常識である。

 

 転入生が胸元から取り出したペンダントの意味こそわからなかったが、その成否の所在を担当教師に視線で求めると、教師はおもむろに頷いてみせた。

 つまり、転入生の言葉に嘘はない。

 それどころか、教師に驚いた様子がないところを見るに、最初から知っていたのだろう。

 僕たちには知らせないよう、あえて秘密にしていた、ということだ。

 

 ならばなにゆえ、これまで秘密にしてきた身分を転入生は明かしたのか。

 それを転入生が話したとき、この『問題』は『大問題』へと変わっていた。

 

「私が転入してきた理由は、この学校に勇者がいるという神託を大司祭様が授かったから。

 ひと目でわかったわ。あなたが勇者だって。今のあなたの情けない様を見る限り、正直、信じられないけどね。

 でも、あなたが勇者だってことは絶対に曲げられない真実であり、確定事項なのよ」

 

 勇者の予言。

 こともあろうに転入生は、あの弱虫を勇者だなどと意味不明な妄言を吐いたのだ。

 

 当然、なんの冗談だと誰もが笑った。

 僕もそうだ。仲間たちと共に腹が捩れんばかりに大笑いした。

 

 勇者とは、人類の英雄にして最強の証明。

 対してあいつは、どこからどうみても弱虫。それ以外の何物でもない。

 だいたい言われた本人ですら、なんの反応もできずに唖然としているのだ。

 

 あいつが勇者なら、僕は神か悪魔か。

 情けない者に対する叱咤激励にしたって、もっと適切な言葉があるだろう。

 僕は呆れてものも言えなかった。

 

「笑いたい者は笑えばいい。けれど、いずれ思い知るときが来るわ。そのときになってから手のひらを返したところで、はたしてどれだけの者が許されるかしら。

 せいぜい地面に額を擦り付ける練習でもしておくことね。特に彼をいいようにしていた連中は」

 

 転入生の語り口は、いつになく饒舌に、しかし嫌味たっぷりに。

 そして、周囲に向けたやや蔑むような視線は、僕を見つけるとひときわ冷たく、刃物のような鋭さに変わった。

 

 この場に、もう笑う者はいなかった。

 冗談でもなんでもなく、転入生が大真面目だということがわかったからだ。

 また、仲間たちがあいつをイジメることに否定的になったのも、このときからだった。

 

 

 

 4

 

 以来、教室内は熱を失ったかのように、ただただ白けた空気が漂っていた。

 いつもどおり僕があいつのことをからかうも、かつての爆笑はどこへやら、皆ノリが悪いのだ。

 

 要するに、転入生のあの暴露話が功を奏したといったところか。

 僕自身、あいつが勇者だなんて信じていなかったが、それでもあいつに対するちょっかいは減っていった。

 

 ただし、パシリは続けさせている。

 転入生もそのことについて文句を言ってくることはなかった。

 

 そして、そんな日々が続く中で事件は起きた。

 広場で行われた召喚の授業。本来なら、どこにでもいる小動物を喚び出すはずのものだ。

 しかし、教師が手本として喚び出したのは、なんの間違いか、全く別の存在だった。

 

 それは、獅子の顔をしていた。

 背にコウモリの翼を広げ、体は人間と獣の中間――ちょうどサーカスで見たゴリラのような外形だったが、その大きさはまるで違う。

 脚より長い両腕を地面に着けて、前かがみになっている状態であっても、その頭ははるか見上げる位置にあった。

 また臀部からはサソリの尾が生えており、こちらも腕や足がもう一本生えたかのような太さをしていた。

 

 誰もが知っている魔物だ。

 その知名度の高さは、身近にいるからではない。恐ろしさゆえだった。

 

 名前を『マンティコア』。

 並みの使い手では束になっても敵わない、上級の魔物である。

 

 ――ウォオオオオオオオオオオッッッッ!!!!

 

 マンティコアの雄叫び。さらに生徒たちの悲鳴を合図として、授業はあっという間に中止になった。

 すぐに教師陣が立ち向かったが、マンティコアの口から吐き出された火炎は、杖を燃やし、剣をも溶かした。

 頼りになるのは、教会に賢者として認められたあの転入生のみ。

 

「邪魔よ、下がりなさい!」

 

 転入生が颯爽と躍り出ると、教師をまるで邪魔者扱いするかのように言い放った。

 しかし、言うだけのことはある。

 マンティコアが放つ炎は、転入生が作り出した魔法障壁を突破できなかったのだ。

 

 ならば、と回り込んだマンティコアが、サソリの尾を矢のように伸ばして転入生を傷つけるも、その傷を転入生は一瞬で治した。

 マンティコアの尾には猛毒があるはずだが、それすら意に介した様子はない。

 逆に、転入生が放つ無数の氷刃は、面白いようにマンティコアの皮膚を切り裂いていく。

 

「おい、いけるぞ!」

「ああ、さすが賢者として認められるだけのことはあるな!」

「頑張れ、転入生――っ!!」

 

 こうなると、皆は逃げることを忘れて、その場に留まった。

 教会に認められた『賢者』という肩書に対する信頼もあっただろう。

 あるいは貴族としてのプライドが、ただ逃げることを許さなかったのかもしれない。

 もっとも戦線に加わることはなく、あくまでも遠巻きに転入生を応援するだけだったが。

 

 しかし、転入生が優勢だと思われた戦況は、実は全く逆だった。

 確かに転入生の防御魔法と治癒魔法は優れている。

 ――が、肝心の攻撃魔法に関しては、見た目の派手さに反して、マンティコアの表面を傷付けているだけ。致命の一撃を与えるには程遠かった。

 やがて、転入生は防戦一方となり、――そして魔力が尽きた。

 

「ゴバァ!」

「くっ――!」

 

 マンティコアの振るった豪腕が、転入生を捉え、数メートル先に吹き飛ばした。

 転入生のか細い左腕がだらしなく垂れ下がっていたが、もう彼女には治癒魔法を唱える力はない。

 

 絶体絶命だ。比喩でもなんでもなく、僕はそう思った。

 このままでは転入生は殺されてしまうのだ、と。

 

 広場には、再び恐慌とした悲鳴が巻き起こった。

「逃げろ! このままじゃ殺されるぞ!」と叫んだ誰かの声は、転入生に向けたものではなく、自分たちへのもの。

 薄情にも、転入生が死んだのちを見越してのことである。

 

 しかし、僕は逃げなかった。

 貴族としての矜持があるからだ。

 

 貴族の祖の大半は、かつて魔王率いる魔物との戦いで活躍した者たち。

 すなわち貴族とは、生まれながらの対魔物におけるスペシャリスト。

 中でも僕はとびきりだ。

 生まれもさることながら、その能力もほかの者たちより優れている。

 

 だからこそ、行かなければならない。

 貴族として、魔物に立ち向かわなければならない。

 

 しかし、そんな勇ましい気持ちとは裏腹に、足は一歩も動いてくれなかった。

 視線を落としてみれば、僕の足はガクガクと震えていた。

 今になって僕は、ようやく自分がどうしようもなく恐怖していることに気付いたのだ。

 

 一度自分の弱さに気付くと、あとはもう堕ちていくだけである。

 ほかの奴らが逃げているのに、なんで僕が立ち向かわなきゃいけないのか。

 相手は、教師でさえどうしようもならない……、教会に認められた賢者でさえ、敵わなかった魔物なのだ。

 勇気と無謀は違う。次の機会があれば、そのときこそ見事に倒してみせ、今日の汚名を雪げばいい。

 そんなふうに、今の自分を正当化するための言い訳が、心中に蔓延した。

 

 そして、ついに僕はこの場から逃げようとし、――しかし、僕の体は動かなかった。

 今度は恐れのためではない。

 僕の目が、僕の意識が、ある一点にのみ釘付けになったのだ。

 

 そこにいたのは、――あいつだった。

 ブルブルと恐怖に震えながらも、魔法で作った剣を握り、あいつはマンティコアの前に立ちはだかっていたのである。

 

 

 

 5

 

 結果を先にいえば、あいつはマンティコアを倒してみせた。

 最初こそ、おぼつかない戦いぶりだったが、危機一髪というところで突然動きが変わった。

 マンティコアから放たれた止めの攻撃を危なげなく躱すと、ただ一刀でもって相手の強靭な肉体を両断したのである。

 

 またこの際あいつの腕には、教科書で見たことのあるものが光っていた。

 勇者の紋章だ。転入生が言っていたとおり、あいつは勇者で、今その力が覚醒したということなのだろう。

 

 そこからは説明をするまでもないかもしれない。

 勇者の誕生はすぐに学校中に広まった。

 あいつは一躍人気者となり、そして僕は一日にして学校中の嫌われ者となった。

 

 勇者が人々から尊敬を集める存在であるがゆえだ。

 過去に勇者となった者の多くが、大なり小なり大陸の平和に貢献していたし、さらには魔王なんてものを倒した勇者もいた。

 

 勇者という威光の前には、どんな地位や立場も通用しない。

 実際にあいつは、マンティコアを倒して実力を示し、学校を守ってみせもした。

 そんな者をイジメていたのだから、嫌われ者になるのも当然だった。

 

 いや、嫌われ者どころか、完全に敵視されているといっていいかもしれない。

 ついこの間まで一緒になってあいつを笑っていた者まで、そんな視線を向けるのだから、なんと都合のいいことかと笑ってしまいそうになった。

 

 仲間からは「一緒に謝りに行こう」と言われた。無論、あいつにだ。

 彼らも敵視されている側であり、今の状況には耐えられなかったのだろう。

 

 しかし僕は、「謝りたければ、自分たちだけで行けよ」と突っぱねた。

 すると、仲間たちは勇者に謝って無事に許しを得たのか、その日から僕に話しかけることもなくなった。

 

 別にどうだっていい。今さらなんだというのだ。

 あの弱虫が勇者など、馬鹿げている。

 結局のところ、あいつは勇者という与えられた力があるだけで、それがなければただの人間だ。

 いや、それよりもっと酷い。なぜなら、勇者の力さえなければ、ただのいじめられっ子に過ぎないのだから。

 

 気に入らなかった。

 なぜあの弱虫が勇者なのか。実力的には、僕のほうがよっぽど相応しいはずなのに。

 

 これは決して嫉妬や妬みではない。

 あいつを選んだ、神に対する正当な意見だ。

 

 僕の胸の中で、日ごとに不満が積もっていく。

 周囲の僕に対する態度が、それに拍車をかける。

 

 一週間も過ぎると、すでにあいつが勇者であるということすら頭になかった。

 半ば捨て鉢となって、僕はあいつに決闘を申し込んだのだ。

 あいつは最初こそ拒否したものの、僕が徹底的に扱き下ろすと、ようやくこの申し出を受諾した。

 

 そして、来たる放課後。

 あいつが勇者となったあの広場にて、僕はあいつと向かい合った。

 

 観衆として多くの生徒たちが詰めかけている。

 教師も来ているが、止めようとする者はいない。

 それどころか、逆に立会人となって勝負を煽った。

 

「武器及び、殺傷力のある魔法の使用は禁ずる。ルールは以上だ。両者とも貴族の名に恥じぬ決闘をするように」

 

 こうして始まった決闘。

 あいつが勇者だなんて絶対に認められるか、という強い思いとともに、僕は魔法を放った。

 

 しかし、本当はわかっていた。わかっていたのだ。

 あいつのほうがよっぽど勇者に相応しいのだと。

 

 あの日の光景が、ずっと僕の瞼の裏に焼き付いている。

 恐怖に震えながらも、マンティコアの前に立ったあいつの勇敢さが。

 

 自分が勇者だと言われ、それに触発されたのか。

 もしくはすでに勇者としての、なんらかの力を得ていたのか。

 それはわからない。

 だが、マンティコアの前に立ったあいつは、確かに恐怖に震えていたのである。

 

 僕は生涯で、これほどまでに憎らしいと思ったことはなかった。

 ――あのとき、ただ震えるだけであった自分を。

 

 だから、この敗北は当然のものなのだと思った。

 受け入れようと思った。勇者という強大な存在に『敵』として立ち向かう。それだけでも十分に自信となる。自分に納得がいく。

 しかし――。

 

「ごめん」

 

 殺意が躍った。

 組み伏せられた僕に対し、あいつは憐れみの言葉を吐いたのだ。

 

 そして、ようやく理解した。全ては一人よがり。

 そうか。つまり僕は、あいつにとって敵ですらなかったというわけか。

 

 許せないと思った。

 絶対に許せるわけがない。

 

 関節を極められながらも、僕は無理矢理に立ち上がった。

 肩が外れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。

 どんな痛みも、この怒りの前では無価値だ。

 

 僕は、禁じられていた殺傷力のある魔法を放った。それも掛け値なしの全力で。

「あっ」という教師の声が上がったが、知ったことではない。殺してもいいと本気の本気で思っていた。

 

 だが、そんな攻撃すら、今のあいつにとっては子どもの戯れに等しいのだろう。

 気付いたときには、僕は再び土を舐めていた。

 そして、焦ったように「それまで!」という教師の声が聞こえ、ワッという大歓声が広場いっぱいに轟いた――。

 

 

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