それは、数え始めてから丁度一万回目の目覚めになるはずだった。
混濁した意識と身を起こして最初に見るのは廃墟同然の診療所、そのはずだった。
目が覚める、とも違う奇妙な感覚の中で意識が覚醒する。
「…………………」
起きて早々にこの状況が異常である事を察知する。
(………どこだ?)
知らない土地だと辺りを見回して確信する、今までの陰惨な古都とは打って変わって自然が一面を覆う場所に寝転がっていた。
(どういうことだ、何故あの診療所ではなくこんな所で………まさか悪夢にでも迷い込んだか?)
確かに悪夢ならばヤーナムとは似ても似つかぬ異様な風景が見られる、しかしその考えは即座に切り捨てる。
(明るい………しかもこれは)
日光、太陽から発せられるそれが身体を包んでいる。試しに手をかざしてその温もりの真偽を図る。やはり温かく、それでいて心地よい感触が掌に伝わる。
かざした手を動かすと指と指の間から日光が溢れる。慣れない光に目を細め、そして思う。
(いや、まさか)
思考が揺らぐ。瞳が明滅する。鼓動が騒がしい。
そんなことがあっていいのか、そんなことが起きてしまっていいのか。
今まで体験してきたどの狂気も、この瞬間には劣ると確信を持って言える。
「…たのか」
だがこの状況は、そうとしか言えない。
「終わった……のか」
見渡す限りの自然、天から降りる光、これだけ見せつけられてしまえば、認めるしかない。
「終わったんだ……っ!」
獣狩り。
冥く、永く、血と狂気に彩れたその使命が果たされた事を。
「遂に夜が明けた、開放されたんだ………良かった…っ!」
あまりの歓喜に膝から崩れ落ちる、しかし身体とは裏腹に感情が収まる気配が無い。
ここまでにどれだけの時間を費やしただろうか、十年か二十年、いやそれ以上だろうか、もしかするととっくに百年は経っているかもしれない。
それでも、そうだとしても遂に抜け出したのだ。繰り返す夜を越えて、ここに。
今ならあの処刑隊が血の女王を肉塊に変えた時の気持ちが分かる。
不可能とも言える悲願を、しかして望みを捨てずに追い求めた末に辿り着いた場所。
あの時は狂気に駆られた姿にただ慄いて殺す事だけを考えていた、しかし今となってあの変貌ぶりにも理解が及ぶ。
ああ、何と素晴らしい事か。理性が邪魔しなければ自分とて彼の様に大声でこの喜びを叫びたい位だ、とそう悦に浸っていた矢先に意識がハッとする。
(いや待て落ち着け、夜が明けたとは言えここは見知らぬ土地、別の脅威が無いとも限らんだろう)
興奮した脳と身体を鎮めて改めて思考する。
結局ここはどこなのか、まずはそれを探らなくてはならない。もう一度辺りを探索して正確な地形を把握する必要がある、とりあえずは落ち着いた身体と未だに力が入らない膝を無理やり起こし、当てもなく森の中を突き進んでいく。
そしてやはりというか、少し移動しただけでもここが未知の土地だと思い知らされる。
(ヤーナムとは違うな、木も生き物も活気に溢れている)
吹き抜ける風にしても、それに揺られる木々も、そしてその木々で囀る鳥達も、全てが生命に溢れている。
そこまで考えて、足を止める。
「……水か?」
正確には水が流れ落ちる音だろうか、氾濫した川の様な轟音がどこからか聞こえる。
耳を澄ましてみるがどうにも音の発生源が複数あるようで正確な位置が分からない。
一先ず一番近くから聞こえる場所に向かう。先程まで同じ風景だったのが音が聞こえる位置に近付くにつれて視界が開けてくる、どうやらここら一帯が森という訳では無いらしい。
「近いな」
遠くから聞こえた水の音が騒がしくなってきた、目的の場所が目前に迫ったのだろう。
それと同時に目の前の木々の先から光が差し込んできた、森を抜けるのも間近の様だ。
慣れない陽の光を手で遮りながら前へと進む、そして森を抜けた瞬間に太陽光を邪魔していた木々がなくなったことで先程とは比べ物にならない光が身体を包む。
眩む目を必死に凝らして順応させる、真っ白な視界が晴れ、世界が瞳に飛び込んでくる。
「…………」
声が、出なかった。
目に入ってきたのは、ヤーナムや悪夢では有り得ない大自然だった。
切り立った崖、流れ落ちる無数の滝。
そして何よりも目に付くのは、大穴。
「下が見えない……雲海なのか?」
あまりにも大きく、深い。
この大穴の直径だけでも相当なものだが深さが計り知れない、それ故か穴の奥底は雲で覆われている。
「聖杯で地底に潜った時でもここまでの深さは無かったぞ……」
ヤーナムの狂気とは別で、この大穴の異様さに慄いていた。
直後、明らかに不自然な音が響く。
「…っ!」
即座に木の影に身を隠し、周囲を警戒する。
狩人の業によって右手にノコギリ鉈、左手に獣狩りの短銃をそれぞれ装備する。
そっと身を晒して音が聞こえた方向に視線を向ける。
「人工物か?」
視界に入ったのは大穴の底から雲を掻き分けて上がってくる金属製の大きなカゴ、中は良く見えないが恐らく人が乗っている様だった。
「吊り上げられている……昇降機、ゴンドラの類か」
ヤーナムでも何度かお目にかかった物だが、重要なのはゴンドラそのものでは無い。
「人が……乗っていたな」
果たしてこの地の人間は話が通じるのか。
もしヤーナムの様な知性なき獣と同等であれば、開放されたとは言え自衛の為に狩りをせねばなるまい、しかし使命も無しに何かを殺めるのはどこか引っかかる。
「む?」
ある事に気付く、そもそも何故あのゴンドラは上へと吊り上げられているのか。
ふと空を見上げる、そしてここに来てその違和感を感じ取る。
(太陽はどこだ、この光はどこから来ている?)
確かに辺りは明るい、この光も太陽から発せられる光である事は間違いないだろう。
しかし肝心の太陽は空を見上げてもない、あるのは下と同じく大空を埋め尽くさんばかりの雲だった。
どういう事なのか、焦る気持ちを抑えてこの現象の原因を確かめる為に目を閉じる。
(もしこの不可解な現象に見えない何かが関わっているのなら、あるいは)
目を閉じ、瞳を開く。
(何だこの布の様な物は)
己の瞳から理性と先入観を取り払い、蒙きを啓らみ、世界を一切の齟齬なく認識するそれを啓蒙と呼ぶ。
そして既に抱える啓蒙が極まっているこの瞳は、しっかりと元凶を捉えていた。
薄い、とても薄いヴェールの様なものが辺りに漂っていた。それがなんであるかは分からないが、恐らくこれが何重にも重なっているが為に太陽そのものが見えず、代わりに光が屈折してここに届いているのだろう。
(分からない……この薄布も大穴も……穴?)
咄嗟に大穴を覗いて、その目を見開く。
そこには目の前ではただ風に揺られて漂うだけだった薄いヴェールが、大穴の中心に引っ張られるように捻れていた。
それを見て、思わず笑ってしまった。
「面白い」
探索、収集、戦闘。
散々やってきたそれは忌むべき事なのだろう、しかし今となってはその認識を改めねばなるまい。
ヤーナムから開放された今、何をしようと自由だ。どこか静かな場所で隠居するのも良いだろう、積み上げた智慧と技術を放棄して人の生活に溶け込むのも悪くない。
だがこの身に宿るのは紛れもなく多くの狩人が目指した技術の極致、この脳に刻まれているのは智慧の全て、それだけの自負はある。
そして目の前には未知なる大穴、得体の知れない薄いヴェール、それを飲み込む穴底の力場。
これだけの力がありながら、この未知に背を向けられるのか。
「あぁ……無理だろうさ」
一歩、一歩と大穴へと近付いていく、これが狂人の発想であるのは勿論理解していた。
だがここで、頭の中にメンシスの悪夢で出会った男の言葉を浮かんでくる。
「けれど、我らは夢を諦めぬ」
あと一歩、それより先は奈落の底。
「何者も」
だがその一歩を躊躇うことはなく
「我らを捕え、止められぬのだ」
音もなく、その姿は深淵に飲まれていった。
狩人もまた、未知への憧れは止められないのだ。
とりあえず書いてる分だけ投稿します(続くかどうかは気分次第)