「クリスタ。この瞬間から、君の爵位を剥奪する」
突然の宣告で、侯爵令嬢クリスタは、わけもわからないままに、全てを失った。
しかしそれらは全て夢の出来事であった。気落ちしながら学園に向かったクリスタだが、その日、貴族から虐められている、惨めな姿の平民の少女と出会ってしまう。
しかし彼女は夢の中で、クリスタの破滅を見送った一人だった。
そしてクリスタは、夢を否定するために、気まぐれで彼女を誘った。
――あなた、私のもとに来る気はないかしら。
人の気持ちに疎い侯爵令嬢と、気弱な平民の少女の運命が交わり、二人の運命は大きく変わってゆく。

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1話完結の短編です。


没落の夢を見た悪役令嬢は、平民の少女と未来を変える

 侯爵令嬢クリスタ・ドゥ・ニーベル。

 彼女は王国の最上位の貴族の娘という地位にあり、誰からも羨望を受けていた。

 

 クリスタは常に、自分が侯爵家の人間に相応しくあろうといてきた。

 誰よりも優秀でい続けて、貴族らしく振る舞った。

 その容姿も優れており、女性らしさを宿した美しい顔は誰もを魅了した。

 特に、透き通るような白水色の髪は、まるで氷で作られた糸のように透き通っており、彼女は王国の中で最も美しい美貌を有していることは疑いようもなかった。

 

 

 

「どう、して……?」

 

 しかしその日、侯爵令嬢クリスタは、学園の広間で跪いていた。

 目の前の光景を受け入れられない。

 こんな最悪の事態を招いた原因た経緯を、全く覚えていない。

 大勢の人間が、クリスタに蔑みや、見下すような感情を向けている。好意的な視線は一つも残っていない。どれも侯爵家に向けるようなものではなかった。

 

 突然、この場所に放り込まれたような、悪夢の中にいるような心地だった。

 頭の中が、不安定な宙に浮かんだような感覚に包まれる。

 強い吐き気がこみ上げてくる。

 すると、顔に黒い影がかかった男が、冷酷に告げた。

 

「クリスタ。この瞬間から、君の貴族の爵位を剥奪する」

「え……っ」

 

 その相手が誰かは、クリスタにはわからなかった。

 しかし、ただ一つ確かなのは、誰もその言葉を否定しなかったということ。

 つまりクリスタは、全てを失ったということだ。

 

 意味が分からない。なぜ、どうして。

 呆然としているクリスタをよそに、兵士がクリスタの両腕を掴み上げる。

 だが、抵抗することも忘れて『何故こんなことになったのか』を、考え続けた。

 

 そして、クリスタはようやく、奇妙なことに気がついた。

 目の前にいる男だけではない。

 この場にいる全員が、まるで夕暮れ時に地面に色濃くうつる影のような姿をしていた。右も左も影ばかり。黒い人形に、服を着せたような集団だった。

 

「何……何ですの、これは……?」

 

 おぞましいものを見てしまった、クリスタの背筋に恐怖が駆け抜ける。

 彼らが、人間であるかさえ分からない。

 誰か知っている人間はいないのか――そうやって周囲を見回していると、唯一、その影に紛れていない『人間』を見つけることができた。

 奥のほうでじっと、クリスタを悲しそうに見下ろしている。

 緋色の瞳を持った、金髪の少女はつぶやいた。

 

「……クリスタ様」

 

 その声は、たしかにクリスタの耳にまで届いた。

 だが、その相手をクリスタは知らない。心当たりもない。なぜ哀れまれるように見られているのか、それさえも分からないのだ。

 

 ――彼女に尋ねなければならない。

 

 しかし、クリスタが手を伸ばそうとした瞬間、それは敵わなくなる。 

 

「……ッ!」

「さあ、その平民をここから排除するのだ!」

 

 クリスタの追放を告げた男が、冷酷に命じる。

 腕を掴まれ、抵抗の術を持たないクリスタになす術はない。命令を聞く人間はいない。貴族の集まっていた広間から、排除されてしまう。

 

「離しなさい! 私を誰だと思っているのですか……! 私が、何をしたというのですか!」

「五月蝿い大人しくついてこい! 貴様は既に貴族ではないのだぞ!」

 

 クリスタが無礼を咎めるが、全くといっていいほど効果はなかった。

 有していた権力は手を離れて、無力な叫びだけが木霊する。

 しかし唯一、クリスタの問いかけを受けて、金髪の少女が助けに走ろうとした。

 

「クリスタ様っ……!」

 

 金髪の少女もクリスタに手を伸ばしたが、遅かった。

 学園の扉が、閉ざされた。

 貴族の住む世界から弾き出され、侯爵令嬢としての権力を失い、クリスタはただの平民に堕ちた。その運命に抵抗することは、ついぞできなかった。

 

 クリスタは、心の中に疑問を抱いた。

 どうして、こんなことに。

 自分は真っ当に生きてきたはずだ。責務も果たしてきたし、追放される謂れはない。それなのに何故、こんなことになってしまったのかが分からない。納得ができなかった。

 

 そしてもう一つ、クリスタの心を失わせる要素があった。

 

(私は一体、これから、どうすればいいの……?)

 

 侯爵令嬢として生まれて、その役割を全うするために、人生の全てを捧げてきた。

 それが自分の生きている価値だと信じていたのだ。

 

 しかし――もはや、その役目を果たすことはできない。

 今更、自分は何をすればいいというのか。

 生まれてから手元に手繰っていた綱が千切れたような、孤独がクリスタを襲う。

 

 平民に堕ちたクリスタは、その身に起きた破滅で、心を粉々に砕かれた。

 

 

 

* * * * *

 

 窓から差し込む朝日は、寮の一室を明るく照らした。

 部屋のベッドから跳ね起きた侯爵令嬢クリスタは、大量の汗を流しながら、自身の胸を抑えて息を荒げた。

 

「はぁ、っ、はぁ……っ」

 

 少しの間、今見ていた景色が夢のものだと理解できなかった。

 体から恐怖が消え去ってくれず、動悸がおさまらない。心臓が落ち着くまでに数分を要した。

 ようやく胸元から手を離したクリスタは、ぽつりと一言だけ呟いた。

 

「……悪い夢、ですわ」

 

 指先を見つめると、しびれて自由に動かない。

 こんな酷い悪夢を見たのは、生まれて初めてのことだった。

 自分が侯爵家の身分を失うなんて、あってはならないことだというのに、なぜこんな夢を見てしまったのかと、自己嫌悪に陥りそうだった。

 

 しかし、いつまでも寝てはいられない。

 ため息を吐いて、部屋の呼び鐘を慣らした。その直後に扉がノックされる。

 

「おはようございます、クリスタ様。朝の支度の手伝いに参りました」

「ええ、入りなさい」

 

 失礼しますと扉を開けて入ってきたのは、侯爵家専属のメイド達だ。

 それぞれ役割を分担して、緊張した様子なのに手早く、クリスタの服を着替えさせていく。

 その手際は見事なもので、あっという間に寝巻きだったクリスタは、学園に向かうための用意を整えることができた。

 

 メイド達に、いつも通り仕事をこなすように告げて、クリスタは部屋を出た。

 そして寮の螺旋階段を降りている途中で、一人の少女に出会した。

 

「あっ……く、クリスタさま……」

「ええ。ごきげんよう」

 

 石の螺旋階段の途中の、扉から出てきたのは、赤髪を一つに束ねた小柄な少女だった。彼女はクリスタを見るなり、慌てて頭を下げた。

 クリスタが通り過ぎるまで、決して微動だにしなかった。

 

 その様子を無視して、横を通り過ぎて寮を出ていく。

 怯えているような様子であったが、クリスタは気にもとめない。

 これは、彼女にとっては日常茶飯事な出来事だからだ。

 

 学園に向かう道中でも、すれ違う学生は皆、同じような態度を取った。

 

「お、おはようございます、ニーベル様!」

「しししっ、失礼いたしましたっ!」

 

 ある者は怯えたように頭を下げ、またある者は、クリスタを見るなり逃げるようにその場を立ち去った。

 人の波は割れて、真っ直ぐに開けた道が出来上がる。

 その中央を、クリスタは悠々と歩いていく。

 

 彼らは皆、クリスタを恐れていた。

 そしてクリスタは、そんな彼らの態度を全く気にしてはいなかった。

 誰一人として寄せ付けない、ニーベル侯爵家の令嬢。

 それが、『氷の令嬢』クリスタ・ドゥ・ニーベルという貴族であった。

 

 

 

* * * * *

 

 教室にたどり着いた後も、クリスタは孤独なままであった。

 普通であれば、仲の良い友人の一人や二人が集まって、他愛もない話を繰り返していることが多い。

 しかし、クリスタが教室の扉を開けた途端、水を打ったように静まりかえった。

 

 学生である貴族達が、一斉に口をつぐんだ。

 その中を何も気にした様子もなく、颯爽と真っ直ぐに歩いてゆく。

 堂々と中央の空席に座ったクリスタは、静かに講師の言葉に耳を傾けた。

 

「えー……オホン。それでは、これより魔法陣学の講義を始めるのであーる……」

 

 そして、静寂とした教室での講義がはじまった。

 剥げた頭の講師貴族は咳払いのあと、片目を開けて、侯爵令嬢クリスタの様子を伺った。

 彼もまた貴族であり、侯爵家の権力を恐る側であった。

 それゆえに決して機嫌を損ねないように、恐る恐る言葉を繰り出している。

 同じ講義を受けている他の貴族も、決して彼女の気分を害してはならないと、怯えながら講義に耳を傾けなければならなかった。

 

 

 やがて講義が終わると、次の用事に向かうために、足早に教室を去った。

 そして、クリスタが教室を出たその瞬間に、弛緩した空気が広がった。

 

「っ、はぁ! 氷の令嬢と一緒の講義とか、きついわぁ」

 

 ――中に残った誰かの声が聞こえてくる。

 

「下手なことしたら、学園を追放されるからな。マジで勘弁してほしいわ……」

「最悪の場合は家取り潰しだろ? せっかく中級魔法を使えるようになったのに、こんなところで目をつけられたらたまらねえよ」

「私たちも、目立たないように気をつけませんとね」

 

 立ち止まったクリスタは、僅かに視線を細めた。

 どれも、自分に好意的な言葉ではなかった。

 だが結局は振り返ることなく、たった一人で、その場を立ち去っていった。

 

 

 貴族の通うこの学園で、クリスタは『氷の令嬢』と呼ばれて、恐れられていた。

 その名前は、クリスタという人間の、態度の冷たさをよく表していた。

 十五歳で最年長のクリスタは、学園の誰よりも美人であり、最優秀の成績を誇る優れた能力を持っている。将来に国の根幹を担う人材として、これ以上ないほどの逸材だと、大人達から囃されていた。

 

 しかし、その性格は誰一人として寄せつけないほどに冷たかった。

 侯爵家の権力をうまく利用しようとする。あるいは、そのおこぼれに預かろうとする貴族は、最初のうちは後を絶たなかった。

 そんな彼らを、クリスタは全て、冷たく切って捨てたのだ。

 中には、一線を超えたことで侯爵家の怒りを買い、取り潰された家もある。

 

 そんな数々の逸話や、普段の態度から、クリスタの周囲に人は集まらなくなっていた。

 しかし、クリスタはそれでも構わなかった。

 もとより貴族とはそういうものだと、この日までは思っていたからだ。

 

 

 講義を終えたクリスタが、課題を進めるために蔵書室に向かう道中で、彼女の運命を変える事件が起きた。

 その日、クリスタがその場所に向かったのは、ほんの気まぐれであった。

 侯爵令嬢として果たさなければならない使命は数多くあり、たまたま資料が必要であることに気づいたのだ。

 その選択が、意外な出会いをもたらした。

 

 何の変哲もない学園の廊下が、やけに騒がしい。

 よく見ると、道すがらに男女の貴族が十人ほど集まっているようだった。

 彼らは壁際に誰かを追い込んで、罵るような言葉を繰り返している。貴族としての振る舞いとは思えない下品な言葉が、何度も繰り返されていた。

 

「……何をしているのかしら」

 

 それを見たクリスタは、眉を顰めて、彼らに冷たく問いかけた。

 そして、それまで調子づいていた彼らを絶望させるには、十分であった。

 自分たちを見咎めた相手が、遥か上の身分を持つ『氷の令嬢』であることに気づくと、手のひらをかえして罵倒を止め、口々に言い訳を繰り返した。

 

「に、ニーベル様……! これは、違うんです!」

「そうです、私たちはこの女を……!」

「黙りなさい」

 

 どんな言い訳も一切許さない。

 その強い意志が伝わったのだろう。彼らの表情からは血の気が消え失せて、真っ青になり果てた。

 侯爵家の反感を買ってしまった――それは、彼らには何より恐ろしい事だ。

 自分の不運を呪いながら、逃げ出すことも敵わず、小刻みに震えていた。

 

 クリスタは、一体何事かと、彼らが罵倒していた存在に目をやった。

 そして見つけた意外な存在に気付いて、目を疑った。

 

「え……?」

 

 半開きの口から、声が零れる。

 恐らくは虐めに耐えるために、座り込んで耳を抑えていたのだろう。罵倒が止んだことも、クリスタの存在にも気付いていない彼女は、夢で見た金髪の少女であった。

 

 彼女は、やがて恐る恐る顔をあげて、クリスタを見た。

 弱々しい緋色の視線と、冷たい侯爵令嬢の視線が、交わった。

 

 その特徴的な瞳を、クリスタはよく覚えている。

 記憶に刻まれている。今朝の悪夢に出てきた、唯一の登場人物だ。

 しかし今は問い質すよりも先に、すべきことがある。固まってしまった貴族達に向き直って、いつものように冷たく言い放った。

 

「あなたたちの顔は覚えましたわ……次はありませんわよ。早く散りなさい」 

「ひ、ひぃっ……!」

 

 金髪の少女を虐めていた連中は皆、転がるように逃げていった。

 ある者は悲鳴をあげて。ある者は転びかけながら。蜘蛛の子を散らすように、廊下の床を蹴り上げて、その足音を学園中に響かせた。

 

 それを見送った後、クリスタは虐められていた少女と二人きりになった。

 改めて顔を見る。やはり一緒だ、夢の相手で間違いない。

 

「あ、あの……助けてくれたんですか?」

 

 まじまじと見てくるクリスタに、金髪の少女は疑問符を浮かべていた。

 夢の中以外では、初対面のクリスタは、自分はどう反応するべきかと悩んだ。

 結果的に、助けたのは確かだろう。

 しかしクリスタは彼女を助けたつもりはない。貴族として見逃せない行いをしていた者達を咎めたに過ぎないからだ。ゆえに首を横に振って、そのうえで尋ねる。

 

「あなたは、何者なの? 彼らに虐められていたのかしら」

 

 すると少女は答えづらそうにうつむいて、喉を詰まらせた。

 

「…………はい」

 

 クリスタが答えを待っていることを察して、やがて諦めたように頷いた。

 

 彼女は、虐められていることを認められたくないようだった。

 申し訳なさそうな表情を浮かべて、クリスタの目を見ようとしない。

 

 クリスタは、その様子に疑問を抱いた。

 やましいことでもあるのかと疑ったが、そういう雰囲気でもなさそうだ。

 虐められていたにしては、奇妙な態度だと感じた。それゆえに気になって、クリスタには関係のないことまで聞いてしまう。

 

「なぜ、彼らに虐められていたのか、答えることはできまして?」

「…………」

「彼らにも、それなりの理由があったはずよ。あなたが罪を犯したというのなら、私はそれを裁かなければなりませんわ」

 

 頑なに、理由を口にしようとしない彼女に、脅しをかける。

 もしも彼女のほうに原因があったのなら、それは上の立場の者が咎めなければならない。

 しかし――語られたのは、あまりに意外な理由であった。

 

「……多分。わたしが平民だから、だと思います」

「何ですって……?」

 

 クリスタの顔色が、明らかに変わった。

 なぜなら、それはありえないことだからだ。

 この学園は貴族の入学のみが許されており、平民は決して立ち入れることができない。しかし、従順そうな彼女の表情に嘘の色は見つからない。

 

 今年の学園で、とある噂が流れていることを思い出した。

 

『この学園に、平民が紛れ込んだ』

 

 嘘か本当か、貴族が魔法を学ぶために作られた学園に流れた噂話は、一人ぼっちのクリスタが耳にするほどに広まっていた。

 あまりに信憑性がなさすぎて、自分には関係のない話だと切り捨てていた。

 しかし、噂が本当ならば。

 目の前の金髪で、緋色の瞳を持った少女が、噂の当人なのだろう。

 

(夢で見た相手が、平民の子ですって……?)

 

 クリスタはわずかに、気味の悪さを感じた。

 普通であれば、面識のない相手が夢に出てくることはない。

 しかし今、こんなにもはっきりと相手の顔も声も思い出せる。夢の中で見た相手と、初対面である彼女が、完全に一致していた。

 

(……平民の子ですか)

 

 奇妙な因果を感じて、片手で胸元を抑えた。

 クリスタは学園に平民がいることに、他の貴族ほど嫌悪感を感じていない。 

 しかし悪夢から目覚めた瞬間の嫌悪感が思い出され、平静ではなかった。

 

「なぜ、平民が学園に通っているのかしら……?」

 

 普段の、責めるような冷たい口調ではなく、純粋な疑問のトーンであった。

 学園は貴族のための場所であり、魔法は貴族しか学ぶことが許されていない。

 だが恐らく、彼女は特例で入学を許されているのだろう。

 そうでなければ、門で弾かれているはずで、学びの道具も手に入るはずがない。

 

「……入学を許されたんです。手紙が来て、学園で魔法を学ばないかって」

 

 嘘をついているようには見えなかった。

 確かに、学園に入学する年齢になった貴族の元には、入学証が届く。

 どんな理由があるかは分からないが、それを受け取ったということだろう。

 

「それで、あなたは学園に魔法を学びに来たということかしら」

 

 クリスタは、より深く尋ねたことに、自分で驚いた。

 基本的に、他人に興味を持つことは非常に少ない。それは日頃の多忙さや、常に考え事をしているという事情があるためだ。

 しかし、今は目の前の平民のことが、気になって仕方がなかった。

 悪夢の中で唯一、クリスタを嘲笑しなかった少女。

 寂しげな顔を浮かべて、自分に手を伸ばした相手を、知りたいと思った。

 

「はい」

 

 だが、力強い返事が返ってくるとは、思ってもみなかった。

 緋色の瞳を持った彼女は、誰よりも強い意志で、クリスタに胸の中を明かした。

 

「わたしは、どうしても、魔法を学ばなければいけないんです」

 

 平民の彼女は、理由は告げなかった。

 しかし、酷い虐めに遭った後とは思えないほどの、光が宿っていた。決して消えない輝きは、クリスタの言葉を失わせるほどに、強いものだ。

 宝石のような意思に、クリスタは魅了されていた。

 

 運命を感じた。

 夢の中で見た景色、そして、その日に出会った平民の少女。

 

「あなた……名前は何というのかしら」

「アリスです」

「なら、アリス。あなた、私のもとに来る気はないかしら」

「えっ?」

 

 孤独な侯爵令嬢クリスタは、僅かに微笑んで、運命の導きに従うことを選んだ。

 平民アリスは、奇妙な表情を浮かべた。

 見ず知らずの、偉い立場のように見える相手が、自分に誘いをかけている。

 

「私の名はクリスタ・ドゥ・ニーベル。この国を統べる王家直属の貴族、侯爵家の娘です」

 

 そんなアリスの心を見透かしたように、クリスタは身分を告げる。

 王国において、侯爵家は最上位の爵位だ。

 今まで罵倒してきた相手を束にしても叶わない。そんな相手が、自分を誘っていることを知って、アリスは完全に固まってしまった。

 

「どうして……? 平民のわたしを、助けてくれるんですか……?」

 

 学園に入学してから、誰一人として自分の味方はいなかった。

 だから、混乱するのは当たり前のことだった。そんな地位の高い人物が、自分に声をかけてくれた理由なんて思い浮かばない。

 だがクリスタは、悪どい笑みを浮かべながら、軽く言った。

 

「気まぐれに過ぎません。そしてあなたにとっては、降って湧いたチャンスのはずです」

「チャンス……?」

「ええ。私に仕えて、そして価値を示しなさい。そうすれば私が、あなたの望みを叶えてあげましょう」

 

 アリスのそばには、ズタズタに引き裂かれたうえ、水に濡れた教科書があった。

 服も汚れきっており、痛々しい酷い状態だ。

 そんな自分に何故……と思ってしまうのは、至極当然の疑問であり、そして、それをいくら考えても、納得のいく答えは出なかった。

 

 一方でクリスタは、アリスを気に入っていた。

 気まぐれと言ったのは事実だ。アリスは知りようもないが、今朝の悪夢がなければ、誘いをかけようとさえ思わなかっただろう。

 しかし、それだけではない。

 一瞬だけ見せた強い意志の目は、クリスタの心を強く惹きつけた。

 

 もしも、自分が彼女を導くことができれば、大きく化けるかもしれない。

 そんなある種の予感を信じたからこそ、配下に誘ったのだ。

 

 

 王国最上位の貴族と、ただのありふれた平民が出会い、その手を握り合う。

 アリスは直感を信じて手を掴み、クリスタはそれを引きあげた。

 

 この選択が、クリスタを取り巻く運命を、大きく変えていくことになった。

 

 

 

* * * * *

 

 ただの平民が、かの『氷の令嬢』に気に入られ、配下に加わることを許された。

 その噂は学園中に広まり、そして誰もが耳を疑った。

 

 誰に対しても厳しい侯爵令嬢が、平民を受け入れるなんて、あり得ない。

 しかし、クリスタとアリスは行動を共にすることが多くなり、次第に噂は真実として認識されるようになっていった。

 

 ――なぜ、平民が侯爵令嬢と。

 

 すると今度は、平民アリスを妬むような雰囲気になりはじめた。

 しかし彼らはもはや、手を出すことはできない。

 アリスに手を出せば侯爵家に歯向かうことになるし、クリスタに物申したとしても、決して聞き入れてはもらえないだろう。

 

「あんなの、どうせニーベル様の気まぐれだわ」

「ええ、そうよ。すぐに追い出されるに決まっていますわ」

 

 それが貴族の子女達の、統一した見解となった。

 平民ごときがクリスタの欲している能力を持っているとは到底思えなかった。

 実際にアリスは魔法を使えなかったし、貴族に関しても無知なことは知れ渡っていた。どう考えても侯爵令嬢の配下に相応しいとは思えなかった。

 

 しかし、彼女達の予想に反して、アリスは予想外に優秀であった。

 

 

「クリスタ様、お仕事ですか。お手伝いします!」

「紅茶が切れそうでしたので、買い足すようにお願いしておきましたが、よかったですか……?」

「はい! もう先生の方には、連絡しておきましたので大丈夫です!」

 

 噂は真実であり、学業においてはほぼ底辺の成績を叩き出している。

 しかし、できる範囲でクリスタの役に立とうとして、それが大いに役立った。

 誰にでもできることばかりだったが、それを最高のタイミングでこなすのだ。平民の頃に培った技術を生かした結果、クリスタに手放すのが惜しいと思わせることに成功していた。

 クリスタが買ったのは彼女の将来性だが、嬉しい誤算であった。

 

 だが、当然それだけでは足りない。

 学園に通う以上は現状のままでは許されないが、そこでも彼女は必死だった。

 

「クリスタ様。わたし、ちゃんと魔法を勉強したいんです……!」

 

 彼女はクリスタに尋ねた。

 

「ならば、私の名前を使って構いませんわ。欲しい情報や環境は手に入るはずよ」

 

 当然、配下に優秀であることを求めるクリスタが、その願いを拒むはずがない。

 アリスは、その名前が持つ権力を知らないまま蔵書室に向かった。

 

 ――そしてその日から、蔵書室はアリス専用の部屋に成り果てた。

 

 もとより、人が来ない場所ではあったが、アリスは気づかなかった。

 そしてクリスタも、熱心に学んでいることに、良い拾い物をしたと上機嫌だ。

 彼女達を止める者は、誰一人としていなかった。

 

 

 

* * * * *

 

 クリスタは一人、庭で紅茶を楽しんでいた。

 学園の屋上に作られた庭の、木製の傘の下でくつろいでいた。こうした休息の時間も、常に忙しい侯爵家の人間には必要なことだった。

 

 すると、階段から登ってきたアリスがクリスタを見つけて、近づいてきた。

 課題で分からない箇所を聞きにきたのだが、不思議そうな顔をした。

 

「クリスタ様、こんなところに一人で何を……?」

「見て分からないのかしら。休息の時間、ティータイムですわ」

 

 それは見れば分かる。

 アリスには、主が一人でこの場所にいることが、とても奇妙に思えた。

 広い庭には他に人影は見つからず、孤高というより、どこか哀愁が漂っている。

 だから、できるだけ遠回しに聞いてみた。

 

「あの。お一人で、寂しくないんですか?」

 

 直球で尋ねてしまった。

 平民として生きてきたアリスに、気を遣って遠回しに聞くなんて芸当は不可能だったのだ。

 さすがに言ってから不味いと後悔したが、しかしクリスタは特に気にしておらず、顔色は変わらない。平然と返した。

 

「休息をとることが目的なのですから、問題はありませんわ」

「そ、そうですか……」

 

 本当に問題ないと思っているみたいで、アリスには理解ができなかった。

 

 これも貴族の中では当たり前なのだろうか――

 一瞬だけ、そんな風に思ったが、違う気がする。

 アリスが見た貴族の中は、互いに仲良く会話を交わしている人ばかりであった。孤独に過ごしていたのは自分くらいのものだ。

 

「あの。無礼だったら申し訳ありませんが、ご一緒してもいいでしょうか?」

 

 恐る恐る、気遣うように、アリスが申し出る。

 もしかすると、とんでもない事を言ってしまっているのかもしれない。しかし、そう申し出ずにはいられなかったのだ。

 

「構いませんわ。ただし、紅茶は自分で淹れなさい」

「は、はいっ……!」

 

 そして主は、特に咎めることもなく受け入れた。

 アリスの表情に、笑顔が溢れた。

 

 紅茶が注がれて、アリスも一口だけ口をつける。

 何となく、芳しい香りを感じた気がした。しかし肝心の味が薄くて、美味しさがあまり分からなかった。貴族らしい味、というのがぴったりな表現だと思った。

 

「あなたを迎えてから数日が経ちましたわね。生活は変わったかしら」

 

 クリスタは、そんな風にアリスに尋ねた。

 一方でアリスも感謝を告げて、頷いた。

 

「はい。クリスタ様のおかげで、ちゃんと魔法も勉強できるようになりました」

 

 アリスをいじめる貴族は、今は一人もいなくなった。

 全て自分を救ってくれた人のおかげだと、嬉しく思わずにはいられない。

 

 

 ……この場に指摘する者はいなかったが、アリスはとても恐れ知らずだった。

 

 例えば、侯爵令嬢クリスタに茶会を申し入れるなど、とんでもない。

 他の貴族には、爆弾を炎の中に放り込むような、危険な行為だと思われている。

 

 当然アリスも、クリスタが雲の上の人物であることは分かっている。

 しかし他の貴族が考える「侯爵家の人間に対する距離感」を知らないせいで、平民であった頃と同じような距離感で接してしまうのだ。

 そして、それが許されてしまったことで、今の関係が成り立っている。

 

 一方でクリスタは、アリスの距離感を何とも思っていなかった。

 そもそもクリスタは他の貴族に対して「侯爵家の人間をうやうやしく扱え」と指示した覚えはない。最低限の礼節さえ弁えていれば問題はない。

 その点、アリスは教えた通り、決して距離感を間違えなかった。

 所謂『氷の令嬢』を恐れていないアリスだからこそ、クリスタと親密になった。

 

 

 先日までは、怖い人だと思い込んでいたが、今はそうでないことを知っており、明るく居ることができていた。

 一方でクリスタも、アリスと過ごす時間を心地よく感じていた。

 

 互いに一人ぼっちであったもの同士、共感があったのかもしれない。 

 

「そういえばクリスタ様は、お友達などはいらっしゃらないのですか?」

 

 本当に心底不思議そうに、アリスは尋ねた。

 クリスタの人柄を知った彼女だからこそ出る質問だった。ともすれば激怒されかねない問いだったが、クリスタは冷たく返すだけだ。

 

「ええ、必要ありませんから。そのようなことに時間を割いたことはありません」

「でも、それだと寂しくないですか?」

「私の感情など関係ありませんわ。侯爵家の人間として、他にやるべきことはいくらでもありますから」

 

 クリスタはそう断言して、アリスは紅茶を溢しそうになった。

 ――これは、だめだ。

 この時に、主の考え方はどこかおかしいことを確信したが、面と向かってそれを口にすることはできない。今度こそ、遠回しに聞いてみた。

 

「どうして私だけ、側に置いてくれているんですか?」

「必要だからですわ。それに私の配下は、あなただけではありませんわよ」

「えっ」

 

 初耳である。

 そんな人がいただろうかと記憶を掘り返してみたが、思いつかない。

 というより、クリスタに話かけている人を、一人も見かけていなかった。

 ……もしかして学園に通っていない人だろうか。

 さすがに、配下の人がいるのに、一人ぼっちになるということはないだろう。

 

「そうなんですね……」

「ええ。ですがら、その心配は無用ですわよ」

 

 しかし、アリスは気付いてしまう。

 周囲に恐れられて誰も近寄ってこず、自らもそのことに気付いていない。

 ――主はもしかすると、とても悲しい運命を背負った人なのではないだろうか。

 

「それなら、クリスタ様!」

 

 アリスは決意を決めて、立ち上がり、詰め寄った。

 

「私、クリスタ様と、お友達になりたいですっ……!」

「は……?」

 

 クリスタは呆けた。しかし、アリスは極めて真面目であった。

 無礼かもしれないと思いながらも、言わずにはいられなかった。

 なぜなら、そうしたいと思ったからだ。自分を見出してくれたことに感謝しており、主従の関係を結んでいるが、友人になったっていいはずだ。

 一人の人間として――友達になりたいと、そう願った。

 

 一方で、クリスタは本気で困惑した。

 言われた内容を、ようやく理解して、それから思案する。

 

(友達……? 何を言っているのかしら、この子は)

 

 俗世に疎いクリスタも『友達』 という言葉の意味は知っている。

 低位の貴族が、そんな言葉を使って集団を作っていることは知っていた。

 しかし、貴族には常に権力がつきまとう。利害関係こそが全てであり、表面上は親しく見せても、冷酷な判断を下さなければならないのが常だ。

 侯爵家として、そういう教育を受けてきた。

 だからクリスタは、学園の誰にも心を許してこなかった。

 

 今のアリスの提案は受け入れる訳にはいかない。

 ――だが、断ろうとした瞬間に、胸のあたりがうずいた。

 

(……?)

 

 言葉を止めて、胸元を抑える。

 不愉快な感覚が、そこにとどまっていた。理由は分からない。

 今まで一度も迷ったことのない選択なのに、今は断ることを、心が拒んでいた。

 

 なぜ、そんな風に感じるのか。

 それを探ろうとして、そしてクリスタはようやく思い至る。

 

 断る理由が、何一つなかった。

 

 アリスは平民であり、権力とは全く無縁の存在だ。

 おまけに自分の配下であり、他の貴族との利害関係を持つこともない。

 そして、その相手が自分との絆を求めている。

 それならば受け入れて、より自分に親密になってもらうのが良い選択だろう。

 そう考えたクリスタは、やっと縦に頷いた。

 

「ええ、構いませんわよ」

「ほ、本当ですか……!?」

 

 クリスタは、本当の意味で『友達』を理解していなかった。

 しかし、とにかく平民と友達になることを認めさせた――もしも、他の貴族が見たらひっくり返るような事態だった。

 

「……何をそんなに喜んでいるのかしら」

 

 アリスの喜びようは、理解できないものだった。

 しかし、クリスタ自身も気づかないうちに、微かに頬が緩んでいた。

 心が浮かんでくるような感じが、心地いい。

 だがその感覚を自覚するまでには、まだ暫しの時間が必要であった。

 

 

 

* * * * *

 

 クリスタと『友達』になってから、数日が過ぎた頃の話だ。

 

 誰も寄り付かなくなった蔵書室で、アリスは勉強に励んでいた。

 この日は貴族についての歴史を学んでいた。平民であっても最低限の教養が必要と言われており、十五年分の人生の遅れを取り戻そうと必死だった。

 しかしこの日、そんなアリスの集中を妨害する者が現れた。

 

「あなたねっ!!」

「ひゃっ!」

 

 怒声と共に、対面の机の前に平手が叩きつけられた。

 集中している最中であったため、一瞬頭が真っ白になり、変な声が出てしまった。

 慌てて本から顔を上げると、一人の女性が怒った表情をむけていた。

 彼女はアリスを見てあからさまに不機嫌な感情を浮かべて、そのまま机を回って、そばまで詰め寄ってくる。

 

「あなたが、最近クリスタ様に取り入ったっていう平民ね」

「あ、あなたは……誰、ですか?」

「こっちの質問に答えなさい!」

「ひぅっ」

 

 一切の有無を言わせない、という態度を撮り続けた。

 アリスとは少し違う金色の髪で、そばかすが特徴的な彼女は、アリスのことを全く恐れていないようだった。

 最近は、侯爵家の権力を恐れて、めっきり人が近寄らなくなっていたので、怖くて目を瞑ってしまう。虐められていた時の恐怖が、体に蘇った。

 しかし、そんな態度もよくなかったのか、さらに少女を苛立たせた。

 

「どうなのよ、あなたなんでしょう?」

「は、はい。確かに、クリスタ様にお仕えしています……」

「ふん、やっぱりそうなの。調子に乗っている子がいると聞いていたけど、その通りだったみたいね。お仕えしているなんて、おこがましいにも程があるわよ」

 

 苛立ちを隠そうともせず、トントンと机を指で打っている。

 アリスが平民であること”そのもの”を嫌う者は多い。しかし彼女は、侯爵令嬢の側に仕えていることのほうに苛立っている様子であった。

 しかし、アリスにはなぜ、そこまで怒っているのかが分からなない。

 

「何故クリスタ様が、あなたのような子を加え入れたのかは知らないわ」

 

 アリスと異なる金髪の彼女は、堂々と語る。

 

「でも、あの方は、私のような優秀な者を必要としているの。あなたなど不要よ」

 

 女性は、刺々しい口調でアリスの存在を責めた。

 

「一刻も早く、この学園を立ち去りなさい。偶然気に入られたからって、図に乗らないで、身の程を知ることね!」

「え……あっ」

 

 アリスの反論は受け付けられなかった。

 彼女は一方的に怒鳴って、そしてさっさと去っていった。蔵書室にアリス一人がぽつんと残されたが、胸は大きくざわついていた。

 開きっぱなしの本の内容を、読み直す気にもならない。

 しばらく呆然としていると、蔵書室に新たな女性が立ち入ってきた。

 

「ああ、アリス。やはりこの場所にいましたのね」

 

 その立ち振る舞いは、高貴な雰囲気を漂わせている。

 アリスもすぐに気がついて、顔を上げた。主である侯爵令嬢クリスタだ。

 

「あ……クリスタ様」

 

 しかし、アリスの心は、いつものように浮かばない。

 クリスタは近づいて、アリスの読んでいた書物に視線を落とした。そして自分の言いつけを守って勉強を進めていることを確かめて、機嫌を良くした。

 

「自学とは感心ね。ですが最初に目を通す書物なら、もっと分かりやすいものもありますわ。そちらから先に見たほうが良いでしょう」

「…………」

「……あなた、聞いているのかしら」

 

 若干怒ったように言うと、アリスははっと顔をあげた。

 

「も、申し訳ありません……!」

「疲れているのなら、適度に休みなさい。その調子では、何も頭に入ってこないでしょう」

「はい……」

「……それとも、何かあったのかしら?」

 

 クリスタは、アリスの様子の変化に目ざとく気づいた。

 心ここに有らずといった態度は、どう見てもただ疲れたわけではない。普段とは何か違う、不穏な空気を感じさせた。

 

(まさか以前のように、彼女の成長を妨害する輩が出たのかしら)

 

 もしもそうなら、少し面倒だが、自分も動かなければならないかもしれない。

 そう考えたが、アリスの答えを聞いて、そうではないことを察した。

 

「クリスタ様の配下の方は、他にも学園にいらっしゃるんですか……?」

「ああ、そういうこと……」

 

 合点がいった。

 恐らく、他の配下に出会ったのだろうと、容易に想像がついた。

 確かにアリスには紹介していなかったと、咳払いしてから話し始める。

 

「その様子だと、どちらかに会ったのね。この場所ならアンリの方かしら」

「アンリ様ですか?」

「金髪の子よ。よく蔵書室に出入りしていて、私の仕事を任せています」

「はい、金髪の方でした。あの、どうしてか、わたしに怒っているみたいで……」

「……そう」

 

 クリスタには、心当たりがあった。

 他の配下にはアリスのことを、直接紹介したりはしていない。

 いずれ会わせなければならないだろうと考えながら、クリスタは対面の席について、アリスに説明しはじめた。

 

「いま、学園には他に二人、私に仕えている者がいますわ。彼女達について教えておきましょう」

「お、お二人もいらっしゃったんですか……?」

「ええ。優秀な者が限られる中で、それだけ仕える者がいるということは、喜ばしいことね」

 

 アリスの驚きを誤解したクリスタは、誇らしげに胸を張った。

 一方で、『配下』と呼んでいる人が二人もいるのに、今まで一度も見たことがなかったのは一体どういうことなのかと、驚いているのがアリスだ。

 二人は若干すれ違っていたが、クリスタだけが、そのことに気付かない。

 

「貴方が会ったのは、古爵の娘のアンリでしょう。気が荒いところもありますが、専門性の高い仕事をこなすことのできる、優秀な子よ」

「は、はぁ……」

 

 アリスの中で、アンリは既に『怖い人』のカテゴリに入っている。

 また会ったときに怒られやしないかと不安でいっぱいになった。

 

「もう一人、レティシアという子もいます。私が子供の頃からの付き合いで、魔法分野に優秀な才能を持っていますわ。あなたが、より実践的な魔法を学ぶようになれば、会う機会もあるでしょう」

 

 もう一人のことも心に留め置いて、うんうんと頷いた。

 そして、追加で尋ねてみる。

 

「あの……その方達がクリスタ様とお話しているところを、見たことがないのですが……?」

「そういえば確かに、しばらく会っていませんわね」

 

 主は、自らの配下と言っているにもかかわらず会っていないという。

 それは一見すると、配下を、配下と思っていないような冷たさだ。しかしそれが誤解であると知っているアリスは、ある想像が頭をよぎった。

 

(クリスタ様、もしかして、他の人にしてるみたいに接してるんじゃ……)

 

 アリスには、他の配下の人がどう思っているかまでは分からない。

 そもそも二人のうち、片方には会ったことさえない。

 ある想像が頭を過ぎる。

 

 しかし、もしかすると配下の人が側にいなかったのは。

 他の人のように――主を怖がっているからではないだろうか、と。

 

 アリスはたまたま気づくことができたが、そうでなければどうだっただろう。

 虐めから助けられた後、積極的に話しかけにいったのが良かった。

 しかし、クリスタのことを怖い人だと誤解し続けていたら、配下でいながら、ずっと話しかけることができなかったかもしれない。

 

「クリスタ様、それは、よくありませんっ!」

 

 この場が蔵書室であることも忘れて、アリスは勢いよく立ち上がった。

 それはあくまでアリスの妄想であったが、現実だと思えてならなかった。友達として問い質さなければいけないと、頑張って叫んで主張した。

 そしてクリスタも、たじろいで、聞き返す。

 

「な、何か問題でもあるのかしら……?」

「ありますっ! そんなの、絶対にいいはずがありません!」

 

 侯爵令嬢に対して、絶対の自信を持って、否定した。

 

 ――アリスは後に、この時の行動がどんなに無謀であったかを知る事になる。

 

 小さな村に生まれて、そこで人生を過ごしてきたアリスにとって、クリスタの今の考え方は危険だと感じていた。伝えなければならないと、使命感に燃えていた。

 平民は助け合い、寄り合って生きていかなければならないのが常だから。

 

 しかし、もしもこの場に貴族がいれば、必死になってアリスを止めたはずだ。

 貴族では全く事情が違うし、そのうえ侯爵令嬢の意志の否定は、貴族の否定に他ならない。国家に対する反逆行為と捉えられる可能性もある。

 今、アリスがしていることは、そういうことなのだ。

 

 奇跡的であったのは、クリスタが孤独な茶会を嗜んでいるタイミングであったことだ。

 アリスのとんでもない主張は、主以外の誰にも聞かれることはない。

 当のクリスタはというと、なぜ怒られているのか全く理解ができず、自分の何が悪かったのかを考え続けていた――侯爵令嬢は、あまりに素直であった。

 

「私には、あなたが何を言っているのか理解できませんわ……」

 

 現状では何一つ、不自由など感じていない。

 配下は仕事をこなしている。適切に、クリスタの思う通りに動いているのだ。

 そこに一体何の問題があるというのか、自分ではわからない。

 

「あなたは、何が問題だと思っているのかしら」

「そんなのっ……クリスタ様は、いつも一人でいて、それでいいんですか!?」

 

 やっとアリスが何を怒っているのか、少しだけ理解し始めた。

 彼女はきっと、配下のことを『友達』のように捉えているのだろう。

 

 そうであれば、誤解だ。

 彼女達は、アリスと違って貴族だ。利害関係が存在する相手であり、友達などという付き合いに巻き込むことは許されない――

 

(……いえ、むしろ『友達』という立場を使って、取り込むべきなのでは)

 

 そこで初めて、クリスタの中に、新たな選択肢が生まれた。

 それは明らかに以前とは違う変化であり、アリスの主張を裏付ける感情が生まれている証拠でもあった。

 

 

 アリスと過ごすようになってから、クリスタは『友達』を知った。

 貴族間の付き合いではない。紅茶を飲みながら、アリスのこれまでの人生話を聞いたり、散歩に付き合わせたり、時間を共有することは多くなった。

 

 侯爵令嬢として、自由な時間が少ない中で共に過ごすことが増えたのは、クリスタ自信が心地よく感じているからに他ならない。

 侯爵家の人間として扱わない、そして自分に好意を持っているアリスの態度は、クリスタにとってひどく心地のいいもので、満更でもなかった。

 

 

 今思えば、他の二人と『友達』という関係にならない理由が見当たらない。

 彼女達は貴族だが、身内のようなもので、対外的な利害関係は成り立たない。関係を強化するという意味でならば、それを選択肢から外す理由はないのだ。

 それにクリスタ自身が、本当に今のままでいいのかとモヤモヤしはじめている。

 アリスと出会って知ったものが、新たな視界を持たせた。

 この状況が好ましくないと――ようやく、僅かながら、気づいたのだ。

 

「……分かりませんわ」

 

 だが、やはりクリスタには、この状況が良いか悪いかは即答できない。

 普段、こんな風に弱みを見せることはないが、アリスだけは別だった。

 話してもいいと思ったし、平民で配下の彼女だから、気を遣う必要もない。

 微妙な感情の間で、揺れた。

 するとアリスが、さらにクリスタの感情を押してくる。

 

「アンリ様と、レティシア様……わたしは、どんな人かはほとんど知りません。でも、わたしにしてくれるみたいに、一緒の時間を作らなくていいんですか……?」

 

 アリスの問いかけは、どれもクリスタが人生の中で一度も気づけなかった気付きをもたらしてくれる。

 共に過ごす時間が、あまりに少なすぎる。

 それは確かに事実であり、このままでは今の関係さえ薄れてしまうのではないかと、今ではそんな懸念さえ浮かんできた。

 

 クリスタは、貴族に対して冷たい態度を取ることで有名だ。

 しかし正しいと思ったことに関してはどこまでも真摯であり、たとえ平民の言葉であろうとも、聞き入れて、自分なりの答えを出そうと努力できる人間であった。

 そしてそれが、侯爵令嬢として生きてきた、クリスタのやり方であった。

 

(私が、間違っていたというのなら、正さなければなりませんわ)

 

 クリスタはやっと、自分の中にあった不安が明確になって、決意が定まった。

 

「クリスタ様は、とても優しい方です。お一人でいるところを見るのは、私、すごく辛いです」

 

 気づいた後に言われた言葉は、ようやく理解できた。

 

(一人が辛い。確かに、そうかもしれませんわ)

 

 クリスタは、自分の胸の中にあったわだかまりが、不安であることを知った。

 不安を感じていることを、ようやく認めたのだ。

 

 しかし――いざ対策を立てようとしたところで。

 どうしていいかが分からないことに、ようやく思い至った。

 優秀な頭脳を持つクリスタだが、『適切な選択肢』が見つからなかった。

 クリスタは生まれて初めて、問題に対する解決策を決めることができなかった。

 

「あなたは、どうすればいいと思うかしら……?」

 

 今思えば、教室に居座っていた下級貴族達は、その方法を知っていたのだろう。

 彼らは常に楽しそうに会話を交わしており、クリスタは、自分があの輪の中に混じるような光景が、全く想像できなかった。

 だから、自らで答えを出すことができない。

 しかし今、目の前には鍵がある。

 自らの過ちに気づかせてくれた『友達』に頼ることを選んだ。

 すると今までにないくらい、一番胸を張って――アリスは自分を示した。

 

「クリスタ様……! そういう事なら、私に任せてください!」

 

 意見を求められたためか、嬉しそうな表情を浮かべている。

 そしてクリスタにも、そんな平民の少女が、とても頼もしく見えた。

 

 

 

* * * * *

 

 アンリ・パトリックは、しがない下級貴族の長女だ。

 下から数えて二番目の古爵という地位を持つ家で、侯爵家の配下に相応しくない彼女は、才能で成り上がった強者であった。

 

 アンリは生まれ持った才能を発揮し、常に成績はトップクラスであった。

 その才能を目を買われて、現在は侯爵令嬢クリスタの配下として働いていた。

 しかし、順風満帆に思えるアンリだが、大きな悩みがあった。

 

「クリスタ様、どうして、なんの才能もない平民を……っ」

 

 悔しさが心の大部分を占めており、抱いていた本を強くしめあげた。

 

 あの人がいたおかげで、今の自分があるのだと自負している。

 そんなアンリの唯一の悩みが、自分とクリスタとの関わりが、あまりに薄いということであった。

 

 自分は侯爵令嬢クリスタを、誰よりも尊敬している。

 そして、爵位も気にせずに拾ってくれた恩に報いるため、アンリは侯爵令嬢クリスタの配下に加わってから、それは努力を重ねてきた。

 だからこそ、平民の存在を許すことができなかった。

  

 急に湧いて出たアリスという少女だが、最初はすぐに追放されると考えていた。

 それがいきなり侯爵令嬢の配下として立場を示し、学園中の話題をさらった。

 一体どんな子かと思ってしばらく様子を見ていたのだが、アンリが見る限りでは何の才能もないように思えた。

 賢いわけでもなく、かといって魔法が上手なわけでもない。

 侯爵令嬢の配下として、到底ふさわしいとは思えなかった。

 

 

 

 ――自分が、学園の代弁者として、平民を排除しなければ。

 

 アンリは、そのように考えた。

 もともと貴族達は、誰もが学園に彼女が通うことを、ふさわしいとは考えていなかった。だが、クリスタという存在に守られたことで、学園からの排除を為すことはできなくなったのだ。

 

 だがアンリは、他の貴族と同意見であり、クリスタに具申できる立場にいた。

 身分も、能力も相応しくないのならば、それを進言すればいい。

 侯爵令嬢の名前を汚さないためにも、周囲の評価に気づいている自分こそが動かなければならないのだと、そう考えて――教室に座り込んでいたときだ。

  

「あら、ここにいたのね、アンリ」

「えっ、クリスタ様……!?」

 

 考え込んでいたアンリは、大層驚いて、思わず立ち上がった。

 ここは講義を受けるための教室の一つだ。

 だが今の時間は使われておらず、考え事をするときに、よく利用していた。

 

 滅多に自分とも顔を合わせない主が、この場所にいる。

 ありえないことで、どうしてかさっぱり見当もつかなかった。そして、そんな内心を見透かしたクリスタが、アンリに話しかける。

 

「なぜ、私がいるのかという顔をしていますわね」

「い、いえっ! もしかして、わたしを探しに……?」

「ええ。あなたに、これを渡しに来たのよ」

「わ、わたしにですかっ!?」

 

 アンリは、一体何だろうと、心臓がバクバクと脈打っていた。

 まさか贈り物だろうか。こんな前置きで、仕事を渡してくることはないだろう。

 クリスタが差し出してきたのは、一通の手紙であった。

 ニーベル侯爵家の家紋の封蝋がされており、宛名は確かにアンリとなっていた。

 

「身構えなくても構いませんわ。開けなさい」

「は、はい。では、失礼します……」

 

 いくら仕えているとはいえ、所詮は学園の身近な付き合いでしかない。

 侯爵家からの手紙を受け取ったのは生まれて初めてだ。

 何かの公的な書類だろうか。全く予想がつかず、震える手で封を開く。そして中に入っていた手紙の内容を素早く読み進めて、やがて顔をあげた。

 

「あ、あの……茶会のお誘い、ですか?」

「ええ、その通りよアンリ」

 

 唖然と主を見上げて、クリスタはそれを肯定した。

 手紙の内容は茶会の誘いであり、貴族の間ではいたって普通のやりとりだ。

 

 アンリがこれほどまでに驚いたのは、そんな()()()貴族のようなことを、主から誘ってくるとは思っていなかったからだ。

 今まで一度たりとも、アンリも、もう一人の配下も誘われたことはない。

 こういった事はしないのだろうと思っていただけに、その衝撃も大きかった。

 

 ……いや、もしかすると、自分の今後の進退に関わる話をするのかもしれない。

 そう思い直して、気合を込めた。 

 

「分かりました。当日は、よろしくお願いします、クリスタ様」

「そのように身構える必要はありませんわ。その日は気楽に私に付き合いなさい」

「は、はい!」

 

 クリスタの意に反して、アンリは誤解した。

 侯爵令嬢クリスタは、その全てにおいて合理性を求めており、決して無駄な行いはしてこなかった。

 余暇にも仕事や勉学、そして魔法の鍛錬を行う、筋金入りの"貴族"だ。

 そんな主を見てきたからこそ、この手紙にも意図があると、そう思うことしかできなかったのだ。

 

(これは、クリスタ様の信頼を得るチャンスだ……!)

 

 アンリは、決してこの機会を逃してはならないと、胸の中で拳を握る。

 普段会えないクリスタに、自分を売り込むことができる。

 そして、あわよくば、例の平民を排除することができるかもしれない。その絶好のチャンスがやってきたのだと、内心で喜んだ。

 

 この茶会が、その平民の提案で生まれたことなど、彼女が知る由もない。

 アンリは誤解を抱いたまま、そのまま数日後、茶会に訪れた。

 

 

 

 約束の時間よりも早く、正装で学園の屋上の庭に訪れた。

 服にも髪にも乱れはないし、主を楽しませるための話題も用意してきた。自分の想定通りに話が進めば、平民を追い出すように提案することだってできるだろう。

 準備を万全に整えてきたアンリだが、一つだけ誤算があった。

 

 まだ随分と時間には早いはずなのに、木製の傘の下に作られたテーブルに、主であるクリスタが既に座っていたのだ。

 

「えっ、く、クリスタ様……!?」

 

 それを見て青ざめた彼女は、慌てて駆け寄って、頭を下げた。

 

「も、申し訳ありませんっ……! 遅れてしまったでしょうか!?」

「私が早く来ただけですわ。あなたには、何の落ち度もありませんわよ、アンリ」

 

 クリスタは優しく微笑み、配下に着席を促した。

 許されたと分かったアンリは、安堵して椅子についた。そして不思議なことに気づいた。

 この場所には他に誰もいなかった。

 屋上の広い庭には、他の貴族どころか、警備や給仕の姿さえも見えない。

 ティーポットやビスケットなどは用意されているものの、それを用意する人間が、どこにも見当たらないのだ。

 

「あの、使用人が見当たりませんが、呼んできたほうがいいでしょうか?」

「必要ありませんわ。あえて、呼んでいませんから」

「ですが、それでは茶会ができません」

「今日は非公式の会ですから、問題ありません。私があなたの紅茶を淹れましょう」

 

 そう言うと、クリスタは置かれていたティーカップを二つ表にした。

 ガラス製のティーポッドを手にしたとたん、アンリが、慌てて止めようとした。

 

「い、いけませんクリスタ様! わたしが注ぎますっ!」

「今日は貴方を労うため、この席を用意しましたのよ。受け取ってくれるかしら」

「えっ……?」

 

 しかし、アンリの言葉を無視して紅茶は注がれていく。

 湯気が立ち上り、香ばしい香りが二人の鼻腔をくすぐった。ポッドを置いたクリスタは、優しくアンリを諭した。

 

「アンリ、あなたはよく働いてくれています。これはその褒美よ」

 

 クリスタが差し出したティーカップとソーサーを前に、アンリは言葉を失った。

 少しの間、薄茶色の水面をじっと見つめていた。

 だが、やがて頭を下げた。

 

「……頂きます」

 

 アンリは口元が緩むのを、抑えきれなかった。

 今までずっと、主人から怒られたことも、褒められたことはなかった。

 だからこの瞬間に、今までの自分のしてきたことが認められたような気がした。

 

 ――嬉しくて、来る前に考えてきた平民の排除の話も、頭から飛んでいった。

 

 頬が緩まないように気をつけながら、しっかりを味わうため、唇をつける。

 僅かに含んだ液体の豊潤な味に、息をこぼした。

 

「すごく美味しい、です」

「それは良いことね。この種類は、私が特に気に入っているものなのよ」

「はい。今まで飲んだ中でも、一番だったと思います!」

 

 アンリは息巻いて、身を乗り出した。

 貴族として茶会に出る機会もあるアンリだが、これほど上質な紅茶を飲んだのは、初めてのことであった。

 

「それは良かったわ。貴女のために、最高級のものを用意したのよ。ゆっくりと味わいなさい」

「え……私のために、そ、そんな凄いものを頂いても、いいんですか?」

「あなたは、それだけ私の役に立っています。このくらいは当たり前ですわ」

 

 アンリは、そんな風に言われるだけで、天にも登る心地であった。

 そして、幸福そうな配下の表情を目にしたクリスタは、内心で驚いていた。

 

『ちゃんと配下の人とお話しして、気持ちを伝えてあげてください!』

 

 それだけのアドバイスだが、正直に言って半信半疑であった。

 そんなことをしなくても、侯爵令嬢である自分についてくるのは当然だと、今の今まで考えていた節があったからだ。

 しかし、アリスの言っていたことは正しかった。

 思っていたことを伝えるだけで、紅茶も普段飲んでいるものを淹れただけだが、これほどまでに喜ばれるとは思っていなかったのだ。

 

「アンリ。賢い貴女のことだから、色々と話題を用意してきてくれたのでしょう」

「……っ、はいっ!」

 

 そして、茶会で配下に華を持たせるのも、主としての務めだ。

 計画高いアンリが、自分を楽しませるような話題を用意してくることは、クリスタには分かっていた。

 そしてアンリも期待に応えるため、頭の引き出しに用意した話を、楽しげに、生き生きと述べていく。

 

 今までは距離が遠く、関わりが薄いことに悩んでいた。

 しかし今は、すっかりそんな悩みも忘れて、主を楽しませることに夢中になっていた。

 話題の引き出しの広いアンリは、一つ一つを丁寧に語った。

 そして、主が聞き入っている、その途中のことだった。

 

「アンリ。あなたは、よくやってくれていますわ」

 

 話の流れを断ち切って、クリスタは静かに告げる。

 嬉しくはあったものの、急な話題の転換と不自然な態度に、首を傾げた。

 

「あなたは今日、私に言いたいことがあってここに来ている。そうでしょう?」

「えっ……」

 

 胸の中が見透かされたような気がして、どきんと、脈打った。

 クリスタは咎めるわけでもなく、優しく微笑んだままだ。

 

「あ、あの……わたし……えっと」

 

 いつ切り出そうか悩んでいたアンリは、一瞬だけひどく悩んだ。

 元々そうするはずだったのに、いざとなって、主の見込んだ平民を批判するのが怖くなってしまったのだ。

 

 アンリの平民を憎む気持ちは、今は、そこまで大きなものではなくなっていた。

 自分は、主であるクリスタに認めてもらったのだ。

 今になって主の選択を責めるようなことを言って、見限られてしまわないかと、ひどく不安になっていた。

 

「ここは非公式の場。あなたが何を言っても、誰にも伝わることはありませんわ」

「……では、一つだけ聞いてもいいでしょうか」

「ええ、何でも聞きなさい」

「クリスタ様は、何故、平民を配下に加えられたのですか……?」

 

 ちらりと、クリスタの瞳を覗き込んだ。

 ここまで言えば、アンリの言いたいことは大方予想がついているはずだ。しかしクリスタはやはり微笑んでいるままで、アンリを咎める様子はない。

   

「私が必要だと思ったからです。それ以上の理由はありませんわ」

「ですが……平民なんて、クリスタ様には、相応しくないのではありませんか?」

 

 恐る恐る、アンリがクリスタに物申すと、そこで黙り込んでしまう。

 アンリの言っていることは、貴族として当たり前の感覚、一般論である。

 誰よりも貴族を重んじる『氷の令嬢』が、それを無視している理由が、アンリにも分からない。

 

「そうね……ならアンリ。貴女に一つ、質問をしましょう」

「え、質問ですか……?」

 

 クリスタの思わぬ返しに、アンリは目を丸くした。

 

「私はいつも貴女に、与えた仕事をこなすよう、申し付けていますわね」

「はい……ですが、それが何か?」

「その仕事が、どれほど私に影響を与えているか、考えたことがあるかしら」

 

 アンリはその質問の意図を、正しく読みきることができなかった。

 しかし待たせるわけにはいかない。言われた通りに、しっかりと考えてみた。

 

 普段こなしている仕事は、侯爵家に振ってくる仕事の一部だ。

 情報の整理や統合、政治関係の手紙をまとめて内容を報告するなど、数えればきりがないほど、その種類は多い。

 普通であれば、自信を持って胸を張れるくらいの仕事量だ。

 しかし……アンリは不安げに、こぼした。

 

「……分かりません」

 

 うつむいた配下に、クリスタは責めるようにではなく、優しく尋ねた。

 

「なぜ、分からないのかしら」

「…………」

 

 アンリはすぐには答えなかった。胸の中で感情が渦巻いているのが、側から見ていてもわかった。

 やがて、答えを出すのではなく、むしろクリスタにこんな風に尋ねた。

 

「わたしは……クリスタ様のお役に、立てているのでしょうか」

 

 瞳に宿っていたのは、心が揺れているのが見て分かるほどの大きな不安だった。

 クリスタはしばらく目を瞑って、ティーカップを置いた。

 そして真剣な眼差しを向けて、はっきりと告げた。

 

「私には、あなたの存在が不可欠だと、そのように考えていましたわ」

「え、えっ……!?」

 

 アンリの驚きは作り物などではなく、間違いなく本気のものであった。

 それを見たクリスタは、今まで配下と話す機会を一度も作らなかったことを、深く反省した。

 

 主と配下は、深い信頼関係で成り立っている。

 クリスタはアンリを信頼して、数多くの仕事を任せてきた。そして、仕事を与えることで信頼が示せるものだと思い込んでいた。

 しかし、それでは足りなかった。

 

「あなたのおかげで、私は自由に動くことができています。あなたの代わりなど、誰にも務まるはずがありませんわ」

「あっ……」

 

 微笑み、アンリに向かって片腕を伸ばした。

 何よりも大切なのは、相手に想いを伝えることだと、今は分かる。

 

 クリスタは今まで、それを怠ってきたのだ。

 明らかにクリスタの落ち度であり、アリスに言われるまで思い至らなかったことを恥じるのは、当然のことであった。

 しかし、まだやり直すことができる。

 これは決してアリスの入れ知恵などではない。配下と向き合うことで導き出した、侯爵令嬢クリスタだけの答えだ。

 

「なぜ平民を加え入れたのかと、あなたは尋ねましたわね。その問いに答えましょう」

「……っ」

 

 口で、言葉に出して、大切な配下に思いの丈を全て伝える。

 主を疑うことは配下にあるまじきことだが、正しい思いを伝えず、その心を繋ぎ止められないのは主の責任だ。

 

「それは――私が必要だと思ったからよ」

 

 だからもう一度、配下の忠誠を確かめる。

 

 クリスタは、自分自身に絶対の自信を持っている。

 今まで生まれてからとってきた行動全て、自分自身で選び抜いてきたことだ。

 身の回りに誰も置かなかったことも、アンリを配下に加えたことも……そして平民アリスを救い出したことも、全て必要だと考えたから、そうしたまでのことだ。

 

 侯爵令嬢として、その権力を正しく振るってきたつもりだ。

 そして、これからもその方針を変えるつもりはない。

 

「彼女はおそらく、私の未来の大きな助けになる。そう判断したまでのことです」

 

 アンリは胸の中で握った拳を強く握りしめた。

 もう、その中に不安はない。

 主からの信頼を確かめて、そして疑う気持ちも全て消えてなくなった。

 

 

 

 ――これは、もう辿ることのない、消えた未来の話だ。

 

 侯爵令嬢クリスタは、夢の通りに糾弾されて、学園でその身分を失った。

 その地位と権力を妬む敵にはめられて、罪を着せられ続けた結果、没落した。

 

 クリスタの配下であるアンリは、主のことを疑ってしまった。

 

 周囲の人間は皆、クリスタを疑ってかかり、強く糾弾した。

 しかし配下であるはずのアンリはそれを否定できなかった。なぜなら『氷の令嬢』と呼ばれるほどの鉄仮面である主との付き合いが、あまりに薄かったから。

 

 だから、大衆の言葉を信じて、逃げ出して、その後に後ろ指を指されて。

 他の貴族によって、学園を追放されてしまった。

 

 

 

 だが、そんな未来は、もはや訪れることはない。

 長く仕えてきた配下に対して、更なる絶対の忠誠をクリスタは求めた。

 

「これからも、私の配下でいてくれるかしら」

 

 その主の姿は、アンリが命を賭けて忠誠を誓うに相応しいものであった。

 これまでの関係とは違う、新たな主従の誓いが行われる。

 クリスタの伸ばした手を、アンリは両手で掴む。

 たった一言褒められた――それだけのことが、配下の心を動かしたのだ。

 

「これからも、お仕えすることを、許していただけるのでしょうか……?」 

「ええ。私に忠誠を尽くす以外の未来など、決して許しませんわ」

 

 アンリは涙を流しながら頷いた。

 夢に出てきた未来が、粉々に打ち砕かれた。

 

 

 

* * * * *

 

 レティシアが、生涯の主となるクリスタと出会ったのは、五歳の頃だ。

 辺境伯ピィ家は侯爵家に次ぐ権力を持っており、厳格な家族の下に生まれた彼女は、『貴族であること』を常に強いられてきた。

 

 貴族として、常に研鑽を怠ってはならない。

 振る舞いは完璧でなければならない。

 そして、ニーベル侯爵家に仕える者として、忠誠を尽くさなければならない。

 

 それが父母の口癖であり、ずっとそれに従ってきてきた。

 それは幼いレティシアにとって苦難であったが、唯一幸いであったのは、最も重要である『魔法の才能』を持って生まれてきたことであった。

 素晴らしい才能を、最高の環境で生かすための努力だけは、怠らなかった。

 今では侯爵家の側近として、相応しいと思われる以上の実力を身につけた。

 

 しかし、それでもレティシアの人生はうまくいかなかった。

 

 貴族会は、魔法が使えれば、他の全てが許されるという世界ではない。

 礼儀は窮屈に感じ、なかなか覚えられずに叱られた。

 言葉遣いを間違えたり、忘れてしまったせいで、何度も失敗を繰り返した。

 

 レティシアは、貴族としての振る舞いが、致命的なまでに苦手だった。

 外で遊ぶのが何よりも大好きで、よく平民の街に遊びに行っていた彼女の性格は、貴族という世界に住うには、あまりに相性が悪かったのだ。

 

『お前は、従順にニーベル令嬢に従っておけばいい。余計なことは決してするな』

 

 両親から、侯爵令嬢クリスタの配下にふさわしくないと、烙印を押されていた。

 幼い頃のレティシアは、絶望した。

 クリスタ様に仕えるために生まれてきたのだと、執拗に言い聞かされてきた。

 それなのに、その意味を否定されたのだから、絶望は当然だ。

 

 

 結局レティシアは、その高い才能が買われて、クリスタの配下に加わった。

 だが、両親から何度も『余計なことをするな』と言いつけられたレティシアが選んだのは――主と共に過ごさない日常を築くことであった。

 

 例えば、学園で共に過ごしていても、レティシアはこんな風に言い逃れた。

 

『あ、あの……クリスタさま。今日は、用事があるので失礼します』

『ええ、今日も魔法の練習に励むのでしたわね。行きなさい』

 

 クリスタは、レティシアが傍にいないことを、気にした風ではなかった。

 魔法の研鑽を言い訳にして、側にいることを拒んだ。

 ずっとその関係が続いてしまっており、今ではクリスタも何も聞かなくなった。

 

 むろん、嘘をついたわけではない。

 行っている練習は本物で、学園で魔法の腕は上位二番目にもなった。今では、最上位であるクリスタの次点として君臨している。

 周囲からの評価も高く、クリスタの名前を高めるのにも、大きく役立っていることは、誰にも否定できないだろう。

 

 

 

 自分は、貴族として失格だ。

 でも、主の傍にいなければならない。貴族であり続けなければならない。

 だから避け続けているのだが、それは主従としては失格だ。

 矛盾、矛盾、矛盾。

 幾重にも両手両足に絡みつくように、矛盾の縄がレティシアをしめあげる。

 しかしそれでも、そんな態度をとることを、止めることができなかった。

 

 

「はぁぁ……今日も、やってしまいました」

 

 幼い頃から、そんなギクシャクした関係を繰り返した結果、かなり暗い性格になってしまったように思っている。

 主と顔を合わせないように、起床時間をずらして寮を出た。

 一生、こんなふうに逃げ続ける生活が続くのかと思うと、辛かった。

 

「あの……レティシア様でしょうか」

 

 透き通るような晴天に反して、暗い気持ちで寮の外に出たレティシアに呼びかけたのは、知らない金髪の女生徒であった。

 顔を上げて誰かを確かめるが、まったく記憶にない人物だ。

 

「何か用でしょうか」

 

 警戒心を抱きつつ、それを出来る限り表に出さないように尋ね返した。

 自分に話しかけてくる貴族は、たいていろくな用事を持ち込んでこない。

 侯爵家に取り入ろうとして、自分を利用しようと考える貴族ばかりだからだ。

 しかし、今は様子が違っていた。

 

「あの、まずはご挨拶をさせて頂けないでしょうか……?」

「挨拶ですか?」

「はい。先日から、クリスタ様にお仕えすることになりました。アリスと申します。よろしくお願いします、レティシア様」

「へっ」

 

 レティシアは目を丸くした。

 主が、新しく配下を取ったことは、レティシアも知っている。

 しかし今の挨拶には、奇妙な点があった。

 

「あの、家名はないのでしょうか?」

「はい。平民ですので……どうかアリスとお呼びください」

「えっ……そ、そうなんですね」

 

 レティシアは信じられないものを見る目で、アリスを見た。

 侯爵令嬢であるクリスタは、誰もが考える『理想の貴族』像を体現する存在だ。

 そんな主が、平民を側近に加えるなんて。

 

(どう見ても、普通の平民さんです……噂は本当だったのでしょうか)

 

 レティシアは、本気で困惑した。

 噂には聞いていたが、何かの間違いだろうと思い込んでいたのだ。しかし、わざわざ、すぐにばれるような嘘をついてまで近づく貴族はいない。

 しかし、真実だとすると、おかしいと思う部分があった。

 目の前の少女は魔法を使えるようには見えなかったし、かといってもう一人の配下であるアンリのように、頭脳明晰という風にも見えない。

 つまり、主が、わざわざ配下に加えるほどの人間には見えなかったのだ。

 

「わかりました。顔合わせということでしょうか?」

「はい。それと、レティシア様に伝言を伝えにきたんです。数日後に王都に降りるので、ついてくるようにと言っていました」

「王都ですか……?」

 

 一体何をするのだろうと、疑問を持った。

 侯爵令嬢であるクリスタは、基本的に貴族の領域から出ることはない。

 

「他に、何か聞いていることはありますか?」

「はい。身分がばれないように、平民に紛れるような衣装で来てほしいそうです」

「……貴族として外に出るわけじゃないんですね。何をするかは聞いていないのですか?」

「はい。それだけお伝えするようにしか言われていなくて……」

 

 アリスは申し訳なさそうに顔を伏せるだけだった。

 本当に、何も聞かされていないみたいだ。

 これは、今までにない命令だ。平民に扮して街に出るということは、何かの調査だろうかと、色々と考えてみた。しかし、これという答えは浮かんでこない。

 

(いえ。それを考えるのは、また後にしましょう)

 

 今は待ちぼうけさせている、新しい仲間に挨拶をするべきだ。 

 気を取り直して、咳払いする。

 

「わかりました。とにかく伝言は受けとりました。ではこれからよろしくお願いしますね、アリスちゃん」

「はいっ! よろしくお願いします、レティシア様!」

 

 花開くような笑顔を浮かべたアリスを、レティシアは内心でうらやんだ。

 

(この子は、すごくいい笑顔ですね。羨ましいです)

 

 自分もそんな風に、配下として心から仕えたかった。

 そんな想いが、胸を焦がした。

 

 

 

* * * * *

 

 貴族のために作られた学園の庭は、どこも美しく彩られている。

 芝生は全く同じ背の高さに切りそろえられており、花壇には七色の花弁が、瑞々しく咲き誇っている。朝焼けに照らされたその場所の空気は美味しい。

 指定された日の早朝、人の気配のないその場所に、レティシアはやってきた。

 しかし、たどり着いたとたんに、肝を冷やした。

 

「く、クリスタさまっ!?」

「あら、早いわね。レティシア」

 

 たった一人で待っていた人物を、レティシアが見間違えるはずもない。

 白水色の髪を束ねて、平民の格好をしたクリスタは、意外そうな表情を浮かべてレティシアを出迎える。

 

 まさか、自分は遅れてしまったのだろうか。

 ひどく後悔しながら走り寄って、そして、慌てて頭を下げて謝った。

 

「も、申し訳ありませんっ、お待たせしてしまいました……!」

「私も今来たばかりですのよ。少しも待っていませんわ」

「そうなんですか……?」

「ええ。それでは行きましょう、レティシア」

「あっ……」

 

 レティシアは主と会ってすぐ、この不思議な外出の目的を問いただすつもりであった。しかし、その機会を逃してしまった。

 クリスタは手早く手続きを済ませて、レティシアとともに門の外に出た。

 平民の住む世界に出たが、早朝であるためか、人影は見当たらない。

 学園から外につながる跳ね橋を通る途中で、不安に思っていたことを尋ねる。

 

「あの……二人で外に出てしまって、いいんですか?」

「許可は取りました。監視もついていますから、有事には対応できるはずです」

「それでも、悪い人に狙われたら……大変じゃないですか?」

「ええ。ですから、あなたを頼りにしていますわよ、レティシア」

 

 クリスタは、悪辣な笑みを浮かべてレティシアを見下ろす。

 唾を飲んで、無意識に懐に手をやった。

 そこには緑色の光を放つ、強力な魔法の杖が入っている。

 

 これは、思ったよりも責任重大かもしれない――

 レティシアには『魔法』という力がある。

 平民はおろか、大抵の貴族が束になっても負けることはないだろう。

 絶対に主を傷つけさせないように、しなければならないと、気合を込めた。

 

 緊張したレティシア達が最初に向かったのは、王都の市場であった。

 そこに足を踏み入れた途端に、朝の静寂が嘘だったと思えるほどの、人の波が現れた。その雰囲気の一変に、二人もおののいて、一瞬足が止まった。

 客引きの声が響き、そこらで籠に食料品を詰め込んだ主婦や、朝の仕事に向かう男などが行き交っている。騒がしく、そして人の生み出す熱が肌で伝わってくる。

 王国中から集まった品々が取り揃えられるこの場所は、王都の経済の大部分を支えている要所だ。

 

(いったい、ここに何の用が……?)

 

 貴族であるクリスタが知らないものも、数多く存在していた。

 たびたび露天の前で足を止めて、物珍しそうに見つめる主を見て、レティシアは一体なぜこの場所に訪れたのかと不思議に思った。

 いかし、一度聞きそびれてしまった以上、尋ねるのは難しそうだ。

 するとクリスタは、民芸品を扱う露天でレティシアを呼び寄せて、尋ねた。

 

「あなた、これが何か知っているかしら」

 

 指さしたのは、木製の、いくつか穴の開いた道具だ。

 一見すると何のためのものかがわからない。

 一体何の用途で使われるものなのか。心底不思議そうにするクリスタに対して、レティシアが恐る恐る、説明した。

 

「それは多分、楽器だと思います。穴の開いたところから息を入れるんです」

「お、嬢ちゃんよく知っているねえ。ついでだし、聞いていってくれよ!」

 

 レティシアを褒めたのは、髪の生えていない陽気な店主だ。

 変装はバッチリだったようで、二人が貴族であることに、全く気づいていない様子だった。目の前で口にあてがった楽器を鳴らしてみせる。

 森の小鳥が歌っているような綺麗な音色が響き、それを聞いたクリスタは感心したようだった。

 

「随分と綺麗な音色が出ますのね」

「どうですか、これを作った職人の腕のよさが分かるってもんでしょう」

「ええ。中々のものだと思いますわ」

「ひえっ。これで中々とは、嬢ちゃん手厳しいねえ」

 

 苦笑いする、礼儀の欠けらもない店主に対して、主は普通に接している。

 そしてレティシアにとって、それは意外なことだった。

 

(クリスタさまが、平民の人と普通に喋ってます……!?)

 

 『理想の貴族像』を体現するクリスタと、目の前の主の姿は違っていた。

 貴族は、平民と仲良くなったりはしない。 

 身分の違う者と親しくなったとしても、意味がないとされているためだ。

 

 さらに言えば、平民の作った道具に興味を示していることも、意外だった。

 確かに、レティシアから見ても感心するほど、その道具はよくできている。だが所詮は『よくできている』だけなのだ。

 貴族が普段聴いている音とは、全く質が違う。

 専門の人間が作る道具を使い、最高の演者が奏でる上質な音楽とは比べ物にならない。貴族の世界で"最高"を知っているはずのクリスタが、感心する理由がわからなかった。

 

 

 その後もクリスタは、まるで平民の街に遊びに来たかのように振る舞った。

 露天を回っては、貴族界では見かけないものを見つけて、それが何であるかをレティシアに尋ねた。

 幸いにもレティシアは、平民の文化に対して知識を持っていた。

 そのため、ほとんどの質問に難なく答えることができた。

 

(もしかしてクリスタさま、本当に平民の街に遊びにきただけなのでしょうか……?)

 

 ありえないと分かっている。

 しかし査察の雰囲気もなければ、時間を気にしている様子もない。行動に目的のようなものは見られず、平民の街並みを興味深げに見つめるばかりだ。

 息抜きに来たのかと思ったが、それならどうして自分を連れてきたのかがわからない。

 理解不能な状況が、レティシアを悩ませた。 

 

「そろそろ昼食にしましょう。あそこは、空いているのかしら」

「え、あの……大丈夫なんですか? ここらは全部、平民の食堂ですよ?」

「あら、何か問題でもありましたか」

 

 そんな風に普通に返されて、レティシアは言葉につまった。

 主が問題がないと思うのなら、確かに何の問題もない。しかし、立ち入った食堂は、それなりに格式が高いものの、貴族が訪れるような店ではなかった。

 

(ま、まずいです……きっとクリスタさまは、気づいていないです……)

 

 レティシアは知っている。

 平民の料理は大抵、貴族の口には合わない。

 それに文化も全く異なっていて、例えばテーブルマナーなんて皆無であるし、料理も残すことは基本的に許されない。

 そんな場所に主が立ち入って、ただ事で済むはずがない。

 最悪、自分が怒られるだけでなく、この店が潰れてしまうかもしれない。

 しかし、それらを全く無視して、クリスタはテーブルについた。

 逆らうこともできず、天に祈りを捧げながら料理を注文したレティシアであったが――

 

「…………これは?」

 

 やはり、ギャップは大きかった。

 自分の前に置かれた皿を、奇妙な視線で見つめた。

 注文したのは、平民の食卓では定番の肉料理と、パン類にジャムが付いたセットだ。しかし、それだけしか出てこない。

 怒るそぶりはなく、心底不思議そうにレティシアに尋ねる。

 

「これで終わりなのかしら」 

「は、はい。種類はありませんが、大丈夫でしょうか……?」

「いえ、確認しただけです。平民の食事には慣れていませんから、貴女がいてくれて助かりましたわ」

 

 貴族の食卓では通常、余るほどの料理を、好みの分だけ取って食べるのが普通だ。それはクリスタにとっても例外ではなく、平民の食卓は物珍しかった。

 しかし、レティシアに軽く確認したあとは、特に何も言わなかった。

 

「他にも注文したほうがよかったでしょうか……っ」

「必要ありませんわ。今は平民に紛れているのですから、私もそのルールに従いましょう」

 

 そう言って、上品にパンを口に運んだ。

 口を動かす様子に、冷や汗を流しながら注目する。

 しかしクリスタが食事に対する反応を示すことない。むしろ、不安そうに見つめてくるレティシアを、じっと見つめ返した。

 

「レティシア。あなたは、食べないのかしら?」

「ふえ。あっ、い、いただきますっ!」

 

 手早くパンにジャムを塗って口に含んだ。

 朝市で出回る果物の質が高いせいなのか、貴族の食卓に出てくるものと相違ないほどに美味しかった。甘くて濃厚で、パンの生地によく合う味だ。

 

「美味しいです……クリスタさまは、お口にはあいましたか?」

「悪くありませんわ」

 

 意外にも反応が悪くない、主の様子にほっとした。

 二人は知らなかったが、そこは王都でも評判の食事処であり、質の高い料理が提供されていた。そのおかげで、二人の間に和やかな雰囲気が流れた。

 やがて食べ終わって一息ついたあたりで、気を取り直す。

 そしてようやく、ずっと聞きたかったことを切り出すことができた。

 

「あの……クリスタさま、聞いてもいいでしょうか」

「何かしら、言ってみなさい」

「今日は、どうして平民の街に降りてきたんですか?」

 

 昼時になってから、それを聞くのは、あまりに遅すぎると自分でも思った。

 だが恥を忍んで、ようやく目的のわからないこの旅の目的を尋ねた。

 クリスタは、僅かに眉を顰めた。

 そして俯いて鼻を摘んだ――明らかに、失望しているといった雰囲気だ。

 

「ああっ、ごめんなさい! 本当に申し訳ありません……!」

「……あなたは、何も悪くありませんわ」

「え、クリスタさま……?」

 

 レティシアは、目を丸くして主を見た。

 よく見ると失望ではない。心底後悔している――醸し出していたのは、そんな雰囲気であった。

 やがて、ぽつりと呟くように言った。

 

「場所を変えましょう。ここでは、いささか騒がしすぎます」

「は、はい!」

 

 席を立ったレティシアとクリスタは、テーブルにお金を置いて、そのまま店を出た。

 その時にクリスタが代金にと、机に置いたのは金貨だった。

 それを見つけて、店員が慌てて追いかけるのだが――それはまた別の話だ。

 

 

 

* * * * *

 

 クリスタ達は人気のない住人区の一角を訪れていた。

 階段上に建築物が並んでおり、最も高い場所は展望台のようになっており、城壁の向こう側の草原までを見渡すことができた。

 

 王都には市場の他にも、様々な地区に別れている。そこは有事の際に、住民の集合場所として使われる場所だが、今は全く人の姿は見えない。

 灰色の石畳の階段を登って、やっとたどり着いた。

 クリスタはその見晴らしのよい場所から、遥か遠くを見渡して、感慨深そうに言った。

 

「聞いていた通り、綺麗な場所ね」

 

 配下であるアンリから教わった場所で、クリスタもいたく気に入った。

 王都の民衆の営みを、一眼で見渡すことができる。

 流れている風も、浴びていると心地いい。

 そして振り返ると、小さな配下が、不安げに自分を見上げていた。

 

「平民の街も、案外悪くありませんわね。あなたはどう思ったかしら」

「は、はいっ! そう思います……!」

 

 幼い頃の付き合いである彼女は、こくこくと何度も頷いてみせる。

 緊張した様子の相手を前に、クリスタは思いを馳せた。

 

「レティシア。あなたと出会ったのは、五歳の頃でしたわね」

「はぁ……」

 

 急に変わった話に、レティシアは混乱した。

 今日、王都に降りてきた理由を話してもらえるとばかり思っていたからだ。

 クリスタとレティシアは、誰よりも昔から付き合いを続けている相手同士であり、その主従関係も十年続いている。

 生まれた頃から一緒だったと言っても過言ではない相手に、初めて尋ねた。

 

「私が、あなたに最初にした命令を覚えているかしら」

「最初……?」

 

 少しの間考えて、レティシアは迷いなく答えを出す。

 

「魔法を覚えてほしいと、言われました」

「ええ。私はそう命じました。そして今まで貴女は、その期待に答えてきたと考えていますわ」

「……はい」

 

 褒められているにも関わらず、レティシアの表情は暗い。

 確かに、その言いつけを今まで守ってきた。

 しかし、そのことを言い訳に主から逃げ続けてきたことが、胸をしめつけた。

 

「あなたが努力をして、期待に答えてきた以上、私もそれに答える義務があると考えています」

「義務、ですか?」

「ええ。今日はそのために、あなたをここに呼びましたのよ」

 

 主の言いたいことが分からない。

 そしてクリスタは、戸惑うレティシアの核心を突いた。

 

「あなたは私に、何か言えないような悩みを抱いていますわね」

「……っ」

 

 体が凍えるような、背筋を冷たいものが這い登っていくような感覚が走った。

 クリスタの言う通り、悩みは抱いていた。

 表情が青ざめる。だって、その質問には答えられない。主から逃げるために、魔法の練習を言い訳にしていたことなんて、言えるはずがないのだ。

 

「責めているのではありません。あなたが悩んでいる原因には、おおむね察しがついています。それは全て私の失態ですわ」

 

 だが、クリスタは、そんな内心さえも見越していた。

 だから先んじて言った――それが自分の責任であると、認めたのだ。

 しかし、むしろそれに慌てたのがレティシアだ。

 

「失態なんてそんなっ! クリスタさまは、何も悪いことなんてしていません!」

「……先ほどあなたは、何故平民の街に降りてきたのかと、私に尋ねましたわね」

「へっ。は、はい」

 

 慌てて否定しようとしたレティシアが、真剣な眼差しを向けられる。

 きょとんと目を丸くして、頷いた。

 

「答えましょう。レティシア、あなたとの時間を作るため、私はここに来たのよ」

「時間……」

「ええ。ここならば、誰にも聞かれることはありませんから」

 

 そう言ってクリスタは、王都の遠く離れた場所を見つめた。

 レティシアには、主の視線の先にあるものが何か、分からなかった。

 しかし、そこに普段の"貴族らしい"雰囲気はなかった。

 一人の女性が、未来を憂いた表情を浮かべている――その姿は、ひたすらに美しかった。

 

「あなたが、私を苦手としていることも、知っています」

「っ……!? そ、そんなことはっ!」

「当然ですわね。あなたとの対話を怠り、命令だけを下してきたのですから」

 

 レティシアを悩ませた全ての原因を、クリスタは自分の責だと認めた。

 いつの間にか、主の放つ雰囲気に深く呑まれていた。

 

「そう、これは当然の結果ですわ……私の犯した、最悪の失態です」

「クリスタ、さま……?」

 

 レティシアは、主の寂しそうな面影を前に、何も言えなくなってしまった。

 

 

 クリスタは、アンリに対して、自分に仕えていることへの感謝を伝えた。

 そして返ってきた感謝の感情を受けて、自分がどれほど愚かであったのか、ようやく気付いた。

 クリスタが、彼女達に強く感謝していることを、相手は全く知らなかったのだ。

 その原因は全て、気持ちを伝えなかった自分にあった。

 それは、侯爵令嬢として歩んできた人生の中でも、最大の失態であった。

 

 レティシア・ピィという存在は、クリスタにとって何よりも大切な存在だ。

 その配下に避けられていることにも、薄々は気付いていた。

 だから――その原因を、今、知らなければならない。

 

「私は、あなたの信頼をもう一度、勝ち得たいのです、レティシア」

「…………」

 

 それを聞いたレティシアは俯いて、ぐっと拳を握った。

 レティシアは主を憎んでいるわけでも、嫌っているわけでもない。

今まで一度だって理不尽な叱りを受けたことはないし、大切にされてきたと思う。

 

 ――だが、主を信頼しているかと問われた時に頷けない自分がいて。

 それが、どうしようもなく、恥ずかしかった。

 

「レティシア。これまでの貴女の功績をもって、どんな願いでも、一つだけ叶えましょう」

 

 街の外から視線を戻したクリスタは、問いかける。

 儚く微笑む主から、視線を外せなくなる。

 

「私は、あなたにこれからも仕えてもらいたい。そのために教えてほしい」

 

 まるで舞踏会のダンスに誘うときのように。

 クリスタは、たった二人しかいない石畳の舞台で、レティシアに手を伸ばした。

 

「あなたの悩みを、何でも聞き入れます。私のもとを離れたいと言うのであれば、このクリスタ・ドゥ・ニーベルの名にかけて、叶えてみせましょう」

 

 クリスタは、この失態を受け入れなければならなかった。

 もしも、既に配下の心が自分に無いとしても、それは仕方のないことだ。

 本心では、絶対に手放したくないと思っている。

 配下を、こんなところで失いたくない。

 しかし――大切にしなかったのは自分であり、既に心が離れているならば、それは受け入れなければならないと思った。

 

「クリスタさま……っ」

 

 そしてレティシアは、自分の目蓋から涙が溢れていることに気づいた。

 決して、主の前で出してはいけなかった感情があった。

 

「クリスタさま、違うんです」

 

 それを胸の中に押さえ込もうと手をあてがって、しかし、手に力が入らない。

 

「離れたいなんて、思ってないです……っ」

「…………」

 

 でも、そんなことを言ってしまえば、きっと、見捨てられてしまう。

 見捨てられるのは、嫌だった。

 

「全部、レティが、悪いんです……貴族なのに、クリスタさまにお仕えしているのにっ……貴族でいることが、こんなに苦しいなんて……」

 

 胸の中に押し殺してきた想いが、耐えきれずに、露呈してしまった。

 苦しくて息があがって、歯を噛み締めた。

 とうとう言ってしまった。

 膝をついて、涙がぽたぽたと地面に落ち続ける。

 

 

 なぜ自分は、平民に生まれなかったのかと思う時があった。

 十五年も貴族界に身を置いても、それは変わらなかった。

 失態を犯せば、自分だけでなく実家や、そして尊敬する主であるクリスタにも、多大な迷惑がかかってしまう。

 できない。どう工夫しても、うまくこなせない。

 それでも絶対に、一度たりとも失敗は許されない。

 そのプレッシャーに、何度押し潰されそうになったことだろう。

 

「クリスタさま、ごめんなさい。こんな、だめな配下で、ごめんなさい……っ」

 

 生まれ持った高い地位の貴族でいることが、どうしようもなく、苦しかった。

 喉を締め上げられるような環境が、幼い貴族の少女を歪めてしまった。

 痛いほどの感情の篭った懺悔が、クリスタに捧げられた。

 

 今では父親の命令もあって、ほとんどそういう場に出されることはなくなったが、過去にレティシアは何度も失態を犯し、クリスタを貶めてしまっていた。

 今でも、そのことでクリスタを侮る貴族がいることを、知っている。

 

「あなたの願いを聞き入れましょう」

 

 だがクリスタも跪いて、レティシアの顎に触れて、前を向くよう促した。

 

「クリスタさま……?」

 

 自分を愚かだと考えているレティシアは、主に何も頼むつもりはなかった。

 しかし、クリスタは願いを叶えると言った。

 配下の心を正確に見抜いたクリスタだからこそ、約束することができた。

 

「貴女が責務を果たし続ける限り、その心のままに振舞うことを認めましょう」

「え……」

 

 クリスタは、まだ理解していない表情の配下に、優しく言い聞かせる。

 

「貴女が、貴族であることが苦手だというのなら、もうそのように振舞う必要はありません。私が、その全ての責を負いましょう」

「だ、だめです……だって、そんなことをしたら、クリスタさまが……」

 

 自分のせいで謂れのない批判を受けてしまう――

 それは、配下として生まれたレティシアにとって、許し難いことだった。

 

「批判は受けるでしょう。ですがその程度のこと、問題にもなりませんわ」

 

 だがクリスタにとって、レティシアが考えるほど、重大なことではなかった。

 その手で自分自身の胸元を示して、迷いなく言い放った。

 

「私はこの国の大貴族、侯爵令嬢クリスタ・ドゥ・ニーベル」

 

 そう。クリスタは、この国の最上位の権力を持つ女だ。

 レティシアはいつの間にか、涙を流すことも忘れて、主に見入っていた。

 

「その程度の批判など、全て放り捨ててみせましょう――あなたの心を繋ぐためなら、その程度など安いものです」

 

 いつの間にか暮れ始めた茜色の空を背景に立ち上がり。

 絶対の自信を持って、信を示した。

 やがて上から伸ばされた手が、目の前にまで伸びてくる。

 

「貴女が自由に振舞う代わりに、私の配下で有り続けることを求めます」

 

 その手を見て、言葉を聞いたレティシアは。

 主に抱いていた恐怖のような感情が、嘘のように溶けて消えていくのを感じた。

 

「クリスタ、さま……っ、う、ぁ……っ」

 

 侯爵令嬢たる主が、常に”貴族”であろうとするのは、当然のことだ。

 だが、自分なんかのために、汚名を背負うと言ってくれている。

 それでも自分を必要だと、そう言ってくれたのだ。

 

 

 

 ――これはレティシアが辿るはずだった、別な世界線の話。

 

 破滅の夢の通りに、クリスタは謂れのない罪で、貴族達から糾弾された。

 しかしレティシアは、主から罪を拭い去ることができなかった。

 もちろん必死に弁明した。

 だが、誰もがレティシアの言うことを信じなかった。

 

 主を捨てた配下の言葉なんて意味がない。

 そう言われて、誰一人として、まともに取り合わなかった。

 

 クリスタが追放され、主も役目も失ったレティシアに、行く先はなかった。

 ピィ家も、ともに没落の運命を辿り、レティシアは平民に堕ちた。

 貴族であることが苦手だったレティシアは、平民の生活を送ることになる。

 だが、その後の人生はどこまでも色褪せていて、無意味なものになった。

 死ぬよりも辛い。

 そんな未来が、待っていた。

 

 

 

「あなたには、私とともに、歩んでほしいのです」

 

 主の伸ばした手を掴めば、その未来は否定される。

 もちろんレティシアは、クリスタが見た夢の内容など知るはずもない。

 この手を拒否した時に待ち受けている未来なんて、見えていない。

 しかし、それでも、答えは決まっていた。

 

(ありがとうございます、クリスタさま……っ)

 

 レティシアの選択肢は、一つしかなかった。

 それは、厳しい両親に言いつけられたからではない。自分の意思で、望んで主の手を取ったのだと、後から何度でも自信を持って言うことができた。

 真の意味で、レティシアは、侯爵令嬢クリスタに忠誠を誓った。

 

「クリスタさま。改めて、レティの忠誠を受け取ってください」 

「ええ。確かに、受け取りましたわ」

 

 五歳の頃に、両者の父親立ち合いの元に、半ば強制的に行われた主従の儀とは違う。

 微笑み、そして、誰にも聞こえないように囁いた。

 

「……ありがとう、レティシア」

 

 互いに本心から求め合い、改めて、未来を誓い合った。

 

 

 

* * * * *

 

 それから日々は過ぎ去って、クリスタは夕日の落ちはじめた空を、学園の屋上から見つめていた。

 

 この夕焼けを見ていると、どうしてか、寂しげな気持ちになる。

 寂寥感に浸っていたクリスタのもとに、一人の少女がひょっこり姿を現した。

 

「こちらにいらっしゃったのですね、クリスタ様」

「あら、アリス。もう魔法の練習は終わったのかしら」

「はい。レティシア様のおかげで、中級魔法まで使えるようになりました!」

 

 にこやかに微笑んで、侯爵令嬢に対して友達のように近づいてくるのは、配下に加わったと噂の只中にある平民アリスだ。

 普通なら無礼であると怒られるような行為も、クリスタは咎めない。

 皆がクリスタを恐れるせいで、ここに人の目はない。侯爵令嬢に対する態度としては不適切であったが、クリスタは彼女との距離を、心地よく思っていた。

 

「……綺麗な夕日ですね」

「ええ、そうね」

 

 アリスも、クリスタの隣に並んで向こう側を見渡した。

 夕暮れも沈んで、夜の帳が降りる頃だ。

 反対側の空は藍色に染まり、うっすらと星空が見え始めている。

 こんなふうに穏やかな気持ちで、空を見ていられるようになったのは、アリスと過ごすようになってからだ。心は以前よりも、平穏であった。

 

「平民のあなたが、これほどに成長するとは、些か予想外でした……ここまで、よくやりましたわね」

「頑張っているつもりですけれど、まだまだ、駄目な部分も多いです……あははっ」

「なら、理想に追いつけるように、これからも励みなさい」

 

 アリスは謙遜したが、クリスタから見ても、その成長速度は異常だった。

 数年はかかると言われている魔法の習得を、半年以内にこなした。

 すでに、一般的な貴族の知識もほとんど身につけている。

 舞踏会のダンスは今も苦手なようだが、貴族の世界に足を踏み入れてからの日数を考えれば、その程度は些細なことだ。いずれ完璧にこなすことができるだろう。

 

 

 アリスに最初に目をつけたきっかけは、偶然の産物である。

 最後にクリスタの背を押したのも、夢で見たからという曖昧な理由に過ぎなかった。

 しかし、結果的にクリスタは、かけがえのないものを手に入れた。

 自分の欠けていたものが、やっと埋まった感覚があった。

 クリスタは、破滅の運命を変えたのだ。

 

 

「クリスタ様」

「何かしら、アリス」

 

 黄昏ながら、遠くの空を見上げているクリスタは、アリスの声を聞く。

 隣を見ると不安げに、暮れていく夕日を見ずに俯いていた。

 

「……今では、友達なんて、恐れ多いことを言っていたって分かります」

 

 クリスタの傍にいるようになって、貴族の常識を知ったアリスは、そう言った。

 しかし、やがて決心して問いかけてくる。

 

「でも、ずっとクリスタ様とは友達だって、そう思ってもいいですか……?」

「私は一度認めたことを、簡単に覆すつもりはありませんわよ」

 

 何の迷いもない、即答だった。

 言葉に似合わない、生まれ持った悪辣な笑みを浮かべて返す。

 すると、アリスは花開くように微笑んだ。

 対照的な二人は深く――身分の離れた『友達』として、信頼しあっていた。

 

「あっ、アリス! クリスタ様に何してるのよ!」

「あー! クリスタさま! ようやく見つけましたっ!」

 

 騒々しい声に振り返ると、誰かが叫んでいる姿を見つけた。

 配下の二人が、クリスタを迎えにきたのだ。

 アンリは不機嫌そうに、そしてレティシアは嬉しそうに、手を振っている。

 そんな姿を見たクリスタは悪辣な笑みではなく、自然で優しい笑顔がこぼれた。

 

(これからは貴族として国を守り、そして三人を守ってみせましょう) 

 

 駆け寄ってくる不機嫌な忠信と、嬉しそうな小さな腹心。そして、隣で手を振り返す友達への想いを胸に秘めて。

 クリスタはそうやって生きていくことを、誓ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学園の広間であり、普段は舞踏会などが執り行われる場所で、クリスタは貴族達に取り囲まれていた。

 学園の生徒や、既に執務に励んでいる貴族が集まっている。

 彼らは全員、侯爵令嬢クリスタの断罪を見届けるために訪れた者達だ。

 

 そして目の前に立っている黒髪の男は、完全に勝利を確信した表情で、クリスタを見下していた。

 

「さあ、クリスタ・ドゥ・ニーベル侯爵令嬢、君の罪は暴かれた。何か言い逃れはあるかい?」

 

 侯爵家の人間に向ける表情にしては、あまりに下衆であった。

 しかし、それを咎める者はいない。

 むしろクリスタの方を見て、ヒソヒソと小声で言葉を交わし合っていた。

 この場での罪人は、侯爵令嬢クリスタだ。彼の主張が正当なものならば、そんな視線を向けられても当然だろうと、誰もが思った。

 

 男の隣には泣いている少女が一人いた。

 彼女こそが被害者であり、目撃者でもあるという。

 その証言が何よりの証拠としてあげられていて、もはやクリスタに、この局面を覆す術はなかった。

 

 しかし、次第にニヤニヤと笑んでいた男の表情は変わっていく。

 侯爵令嬢クリスタの表情は変わらない。

 それどころか、むしろ悪辣な笑みに染まっていった。

 

「な、何が可笑しいんだ!」

「滑稽ね。自分で仕掛けておきながら、その程度しか私を追い詰められないなんて、用意が足りないのではありませんの?」

 

 まるでクリスタの方が、勝ち誇っているようで、男はひどく動揺した。 

 

「っ……! ふ、ふざけるな! 罪を認めるどころか、僕を乏しめるつもりか!」

 

 黒髪の男は逆上して、顔を真っ赤にしながら、クリスタに食ってかかった。

 しかし、当のクリスタは全く余裕の表情を崩さない。

 

 彼は頂点であるクリスタを侯爵令嬢の座から引きずり落とせば、自分が浮き上がることができる。個人的な恨みもあり、とにかく彼女が邪魔であった。

 だが、そんな駄々をこねる子供を諭すように、見下しながら言い放つ。

 

「貴方の茶番など、全てお見通しであったことを、私が教えてあげましょう」

 

 今度はクリスタが、攻める番だった。

 ゆっくりと手を上げると、人混みの中から、腹心であるレティシアが、ひょいと姿を表した。

 数人の人間を引き連れており、不安げにゾロゾロとついてきたのは、メイド服を来た女性達だ。

 

「クリスタさま! 証言してくれそうな使用人の人を、連れてきました!」

「っ……!」

 

 平民に近い思想を持つレティシアは、使用人からも好かれている珍しい立場の大貴族だ。ゆえに、彼女達も意を決して、この場に立ってくれていた。

 その数人の平民を見た男も、僅かに顔色を変えた。

 彼女達は、男の罪の目撃者だった。

 自分の犯した罪をクリスタに着せるつもりであった男は、ひどく焦った。

 

 始末したはずだった奴らが、何故……!

 そんな表情を一瞬浮かべたが、しかし、すぐに気を取り直した。

 

「平民の証言が何だっていうんだ。こっちには、貴族の証人がいるんだぞ!」

 

 勝ち誇った笑みを崩さないように返す。

 そう、貴族の世界において、平民の証言なんて何の役にも立たない。

 例えば侯爵家の権力を使って命令すれば、簡単にねじ曲げることができるだろう。

 

「ええ。ですから当然こちらも、『貴族の証拠』も用意していますわ」

「何……?」

 

 しかし、当然クリスタも、そんな男の主張は予想している。

 

「クリスタさま!」

「な、何だっ……!?」

 

 レティシアが杖を振り、得意な風の魔法で、人混みから一通の手紙を飛ばした。

 それを二本の指で受け取ったクリスタは、聴衆に見せつける。

 全員の視線が、その紙に集中した。

 

「貴方の連れてきた証人だけでなく、貴方の家の紋章の入ったこの手紙についても、詳しく説明をして頂きたいものね」

 

 封には、男の実家の家紋が記されている。

 手紙自体にも、他家には決して偽造が不可能な、魔法の印がされていた。

 間違いなく男が関わった証拠であり、初めて、さあっと顔色を変えた。

 

「な……何故それを、君が持っているんだ!?」

「あら。侯爵家である私に、手に入れられないものなどありませんわよ」

「だ、だとしても、その手紙に書かれている内容が読めるはずは……」

「暗号化されていたようですが、私の優秀な配下が、全て解読してくれましたわ。解読版もあることですし、内容を読み上げて差し上げましょうか?」

「な、な、なっ……やめろ!」

 

 男は明らかに血の気がひいていき、さらに証人だと言って泣いていた女性も内容を知っているのか、どんどん青ざめていった。

 隠蔽されかけていた手紙を手に入れたのが、魔法に優れたレティシア。

 そして、短期間で、複雑な暗号文書を見事に解読して見せたのが、アンリだ。

 アンリは主の名誉を守るために必死に徹夜しており、今はふらふらと目に隈をつけながら、人混みの中から様子を見守っていた。

 

 それで、ようやく周囲も、何かがおかしいことに気づき始めたのだろう。

 疑いの視線は一斉に、クリスタから男の方に移っていく。

 しかし、最後の抵抗のように、男は無様に叫んだ。

 

「き、君はっ、大貴族でありながら、下級貴族である彼女の身分を乏しめるつもりかっ!?」

 

 男が盾にしたのは、被害者だと名乗る女貴族であった。

 もはや言い訳にもなっていない。自分が手詰まりであると、そう言っているような愚かな主張だ。

 しかしそれを聞いたクリスタは、今度こそ、勝ち誇った表情を浮かべた。

 

「あら、そういうことでしたら、ちょうど貴方に会わせたい相手がいますのよ」

「はぁ!? 一体何の話を……」

 

 だが、入り口から姿を表した金髪の少女を見て、男は完全に血の気を失った。

 その金髪の少女のことを、学園の誰もが知っていた。

 平民でありながら侯爵令嬢のもとで魔法を学び、輝かしい未来を約束されるに至った少女だ。

 

「さあ、アリス。私の傍に来なさい」

 

 クリスタに近づいた彼女を見て、何人かが察したように、唾を飲んだ。

 

「入学した時に、貴女を排除しようとした首謀者の一人は、彼で間違いありませんわね」

「……はい、この人です」

 

 連れてこられた最初こそ少し申し訳なさげであった。

 しかし、尋ねられたアリスは、はっきりと答えてみせた。自分を虐めた相手の顔を、忘れるはずがなかったのだ。

 男は否定しようとした。

 ――だがその前に、ようやく自分の周囲から、人が避けていることに気付いた。

 

「なっ、お、お前たちっ……!?」

 

 彼を取り巻いていた貴族も、一緒にアリスを虐めていた者達だった。

 

 今、この場で、絶対に糾弾されたくない。

 そんな想いは共通していたのか、男を守るどころか、次々に人混みに逃げていく。ずっと泣くふりをしていた証人の女でさえ、人混みに姿を消そうとしていた。

 それが、決定的であった。

 全員から見放された男は、愕然と立ち尽くした。

 

「もう一度、貴方に尋ねましょう」

 

 今この瞬間、完全に、立場は逆転した。

 私欲で侯爵令嬢を貶めようとした男は、びくりと体を震わせる。

 

「私が犯したと主張する、的外れな罪への言い逃れは、これで十分でしょう」

 

 証拠がなければ、クリスタの言葉を信じる者はいなかった。

 しかし配下である三人は、クリスタの無実を確信しており、そして守り抜いた。

 

 夢で見た景色は、起こり得ない現実となった。

 そして男の犯した罪も、クリスタは全て知っており、証拠も握っている。 

 

「さあ……次は貴方の犯した罪について、聞かせてもらおうかしら」

 

 三人の配下の信頼を受けた侯爵令嬢は、自らを貶めようとした男を見下ろす。

 そして、今までにないほどに悪辣な笑みを浮かべたのだった。

 

 ――今こそ、反撃の時だ。 

 




ここまで読んでいただきありがとうございました!!
小説家になろう様で、『悪役令嬢クリスタは、破滅と没落の夢を見る』という名前の連載版を投稿させていただいています。
全く伸びなくて辛いので、よろしければ応援していただけると嬉しいです...!


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