やはり俺のゾンビ・サバイバル生活はまちがっている。   作:砂粒

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1. I love you baby

 

 ──それはゆったりと始まった。

 メディアで報道され始めたのは、人が人を喰らい始める奇病が世界各地で発生している様子だった。詳しくはわからないが、"発症者"に噛まれると"感染"し、皮膚が腐り、脳が壊れ、次第に人を襲い始めるという。

 誰が最初に言い始めたか、連中は「ゾンビ」と呼称されるようになっていた。

 

「怖いね……お兄ちゃん」

「そうだな……」

 

 そんな会話をしたのが懐かしい。あの時はまだ、事の深刻さを理解していなかったのだ。いや、していたとしても、どうしようもできなかっただろう。一市民に何ができる? それも、右も左も分からない高校生の自分が……己の無力さを察していたからこそ、理解すること、考えることを拒んだのかもしれない。

 今となっては全てが間違っていたように思える。

 感染が流行する中で、世界はパニックに陥った。人々は疑心暗鬼になり、攻撃的になり、分断された。多くが物資の独占や利権の保全に走った。協調という言葉を誰もが忘れていくうちに、大規模な政治運動や無理のある掃討作戦、我慢の限界を迎えた民衆の暴動が世界各地で勃発した。堂々たる町々が黒煙に包まれていく中で、国連の安全保障理事会は道を示せないまま機能を失った。厳重に警戒していた筈の重要な機関で次々と「ゾンビ・パニック」が発生し、事態は収拾がつかなくなっていた。

 世界は終わったのだ。

 日本列島。俺の住む土地でも、例に違わず。政府や自治体といったものは、文字通り死んだ。政府の記者会見場をゾンビが襲い、現場が大パニックに陥るのを家族全員テレビで見守ったのが覚えている最後だ。その後、日に日に、電力や水道、通信など社会インフラが壊れ、情報は流れなくなり、流通や賃金、行政といったものは意味を失っていった。現代社会の特権が一つ、また一つと消えていく中で、ここは原始的な社会に戻りつつあった。いや、それよりなお悪いだろう。ゾンビが我が物顔で通りを歩いているおかげで、おちおちと外にも出かけられないのだから……

 人々が実際にどう暮らしているのか、もはや俺にはわからない。

 通信手段が全て遮断され、通りがゾンビで溢れているのを窓から見た時、もはや頼りになるのは「自分たち」だけだとようやく悟った。比企谷家は有り合わせの物資で敷地にバリケードを築き、その後は一歩も外に出ていない。俺と小町、両親の四人、猫のカマクラさえも。俺たちは家の中で、固まって、ただ静かに、世界の終焉を過ごしていた。

 あれからどれくらい経っただろう。長い時が流れたようにも、意外と短かったようにも思う。けれど……

 

 けれど、今日こそは。

 

 俺は、覚悟を決めなければならないと感じていた。

 

 顔を上げると、横になっている家族が目に入った。少しでも体力を削らないように、動かずにいるのだ。そばには、最後のカロリイ・メイト(ハニー味)のパッケージが破られて捨てられている。

 食糧は底を尽いた。もはや一日も保ちそうにない。

 

「……俺が」

「八幡! やめろ……」

 

 俺の声に、親父が厳しく反応した。

 この問題は、すでに何度も家族間で話し合われていた。

 食糧を調達しに、外に出かける……

 危険なのは承知している。だが、このままでは飢えて死ぬということも、みんなわかってる。事態を少しでも改善するための議案だったが、家族会議は毎回行き詰まりで終わっていた。俺は何度も調達しに行くべきだと主張したが、両親が厳しく反対した。ゾンビが街中に溢れている。比企谷家の周りは数が少ない方かもしれない。だが多いかもしれない。何しろ情報がまるで取れず、住宅地は視界も悪い。確かなのは危険に溢れているということだけ。

 両親は、俺がむざむざとゾンビに食い破られることを良しとはしなかった。俺たちがひきこもってから、近隣で悲鳴が聞こえたのも一度や二度ではない。「それ」は確かに存在する。テレビの向こうの話ではないのだ。

 

「何回も言っただろう! 行くな! 俺たちは、人間として、尊厳を保って……死を選ぶべきだ」

「八幡。仮に何か見つけても、悪あがきにしかならないと、わかっているでしょう? ここまできたら、潔く、諦めることにしない?」

 

 親父は、部屋の片隅を指差した。そこにはドアの取っ手に括り付けられた紐があった。実は俺は一度自殺を試みたが、その時は小町の猛反対により断念していた。その紐は、それ以降触られていない。しかし、飢えて頭がおかしくなるくらいなら、その前に死を選ぶという選択肢は、依然として残されていた。

 親父と母は、ゾンビに食い破られるくらいなら、もしくは、世の法・人の掟を破るくらいなら、高潔な死を望むという論調を崩さなかった。自分たちだけでなく、俺や小町が、これ以上めちゃくちゃな目に遭うことを懸念しているのは明らかだった。

 家族もそろそろ"潮時"だと察しているだろう。これまで一家心中の踏ん切りはつかなかったが、その時はきっと……

 

「俺は……」

 

 ずたずたと、足音が聞こえる。小町がカマクラを撫でるのをやめて、俺の正面に立った。

 

「小町……」

「お兄ちゃん……私もお母さんたちの意見に賛成だよ」

 

 小町の状態は悪い。シャワーも浴びれず、充分な食事もできていない。髪はボサボサで、少し痩せた。持ち前の明るさも鳴りを潜め、一言も発しない日もあった。こうなる前にはよく見られた兄妹感ののほほんとしたやりとりも、あまりなされなくなった。それでも家族の和を乱したりはしない。小町は俺を見上げ、うるんだ目で訴えている。行くな、と。

 

「小町……絶対に、お前を死なせはしない」

 

 その言葉は空虚に響いた。だが、紛れもなく、俺の本心から絞り出した言葉だった。小町を死なせたくない。いや、"見たくない"のか。ともかく、その気持ちだけが、俺を支えている。

 小町だけは、何としても……限界を迎えたこの状況で、その感情がだんだん強くなっていく。

 だが、俺が外に出たいのは、食糧調達が必要だから、という差し迫った理由だけでもなかった。正直、よこしまな気持ちが含まれていることも、自覚していた。認めたくはないが……

 

「まだ……」

 

 会いたい奴らが、いる。

 世界の終わりに、そばにいてほしい奴らが……

 きっと会えないだろう。食糧をどこかで調達したら、すぐに家に戻る。その過程で、あいつらに会えるなんてありえない……だが、わかっていても、もし、一縷の望みがあるのなら──…

 

「まだ、俺は──…!」

 

 笑い声が、聞こえた気がした。俺は正面を向き直す。小町が、優しい眼差しで俺を見ていた。

 

「わかったよ、お兄ちゃん。小町、もう止めない。その代わり、私も行くから」

 

 その流れは、予測していた。

 俺は小町の頭に手を置いた。

 

「だめだ。ここに残っててほしい」

「お兄ちゃんを一人で行かせるわけ──「やめろ」

 

 俺は、小町の口に人差し指を押し当てた。小町が硬直する。

 

「すぐに帰る。待っててくれ」

 

 有無を言わさぬ雰囲気を感じたのか、小町は目を伏せて頷いた。正直、もっと反対されると思ったので、言いくるめるための材料を頭の中でこねくり回していたのだが、必要なかったらしい。まあ小町がいくら行くと言っても、俺より親父が許さないだろうが……

 

「もう、何も言わないよ……でも一つ約束して」

「なんだ?」

「帰ってきて。絶対」

 

 ああ……

 俺は、こういうこと、言われたかったんだろうな。

 胸が満たされるのを感じる。

 

「安心しろ。死んでも帰ってきてやる」

「うん。お願い」

「いや突っ込むところだろ。死んだらゾンビになってるかもしれねえってことだぞ」

「いいよ、別に。それに、どうせ食べられるならお兄ちゃんに食べられたいかな……はは、これ、小町的にポイント高いね……」

「お前それ普段なら多分めちゃくちゃ気持ち悪いこと言ってるってわかると思うわ……」

 

 きっと、限界なんだろう。栄養失調で、頭もまわらない。自棄になりそうなところを、小町はよく抑えている。小町には、見習うところしかないな……

 

「もう……冗談だよ! 絶・対! 死なないでね! 死んだら許さないから! 地獄の果てまで怒りにいくから」

「せめて天国に行かせてくれ。……まあ、すぐに戻ってくるが、小町も絶対に死ぬんじゃねえぞ。何かあったらちゃんと隠れろよ。決めたことを守って──…」

 

 ここまで俺たちのやりとりを黙って眺めていた親父が、慌て始めた。

 

「ま、待て! 俺たちはまだ承諾してないぞ……!」

「親父……頼む。生涯の頼みだ」

「ぐっ……!」

 

 親父が狼狽えていると、母が諦めたように目を細め、親父の肩に手を掛けた。それから俺を見て、優しく微笑む。

 

「成長したわね、八幡。あなたの決意がそこまで固いなら、私たちには止められないわ……でも小町と同じだけど、約束。生きて帰ってきなさい」

「ああ、わかってる」

 

 小町と母が折れるのを見て、親父もようやく折れたようだ。歯を強く噛みながら、何かを堪えるように力強くウンウンと頷いている。とうとう、俺は家族の許しを得たらしい。ようやく、旅立てる。まあすぐ戻ってくる予定なんだが……

 

 俺は休校以来一度も着ていなかった制服に身を包んだ。なんとなく、身が引き締まる思いがしたからだ。玄関に向かい、靴を履く。固く靴紐を結び、金属バットを装備する。もしゾンビが襲ってきた時のために。俺なんかに抵抗できるかわからないが、それでもないよりはマシだろう……

 背後に、家族の気配を感じる。

 

「八幡……お前は、俺の誇りだ」

「何も見つからなくても、すぐにでも、帰ってきていいんだからね」

 

 少し、目頭が熱くなった。

 

「ちっ。あのさ、死亡フラグ立てるようなこと言わないでくんね? つーか普通に恥ずかしいんだが……余計帰り辛くなるだろ……だがまあ、俺も……一度しか言わねーぞ……その、ありがとう」

「ははは。八幡がそんなに照れてるのを見るのは、久しぶりだな……本当に……」

「うるせぇ。じゃあもう行くから」

 

 まず覗き穴から慎重に玄関の外の様子を見て、ゾンビがいないことを確認する。扉を開けると、外の空気が入り込んでくる。足が竦む。だが、力強く一歩目を踏み出す。俺は覚悟を決めなければならないのだ。

 ぽすん。背中に、熱を感じる。小町だ。耳元で「月がのぼったら、お兄ちゃんを探しに行くから」と囁かれた。俺は振り返り、返事の代わりに小町の頭を撫でる。

 

「お兄ちゃん! 私、私──…」

「おう。愛してるぜ、小町」

 

 言いたいことだけ言って、もう振り返らない。背を向け、扉を閉める。

 すすり泣く声が聞こえた気がした。

 バットを握る力が強くなる。

 

 深呼吸をして、外の空気を感じる。

 わかってる。

 世界は、終わったのだ。

 この先に待っているのは、辛く、険しい道。

 だが、簡単に死ぬわけにはいかない。

 待っている奴らがいるから。

 

 比企谷八幡、覚悟完了──…

 

 1. I love you baby

 

 

 


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