……うん、ホントに頑張った。えらいよ。
連載を始めて1年が経ってしまいました。当初の予定ではあっという間に一部は終わっているはずなんですがね。書き出してみたら終わらない終わらない。
そして今、連載初期の文章を見返すと、文章の荒さ拙さに火が吹く思いですね。
これからも精進していきたいと思います。
辛い、というにはあまりにも次元が異なるだろう。
視覚的にも毒々しい赤がハレーションを起こし、口に含む前から揮発する辛味成分が鼻孔を刺激する。決死の思いで匙ごと口へ入れれば、脳が焼き切れるばかりの感覚が爆発し、生理的に涙がにじむ。
だが、コレはただ辛いだけでは無いのだ。
擦り切れた筈の記憶の彼方で、とある神父は語った。コレの辛味に使われた香辛料と、具となった野菜や肉や豆腐が、平坦な刺激に奥行きを作り出し、さらに高次元の辛味を味覚に送り込む。この真っ赤な地獄のような、目の前に火花さえ散る感覚の先に、美味いと断言できる味わいを追求した一品。それが、冬木名物・泰山の麻婆豆腐である、と。
本来ならばこの灼熱と激痛の中に、完食できるだけの美味さが有る筈なのだ。
そう、本来ならば。
「くっ」
苦悶の色を滲ませ、アーチャーの手が止まった。
目の前の皿にはまだ半分も中身が残っている。
「あら、まだ折り返し地点なのにもうギブアップですか? 飼い馴らされたペットは最後まできちんと食べるというのに……。今までの苦労が水の泡になりますよ?」
同じ色のモノを食している保険医は平然と、いやむしろ堪能するように咀嚼している。汗をたらし、震える手で食事を再開したアーチャーとはまったく対照的だ。
(なぜこうなった)
意識が朦朧とし、もはや機械的に腕を動かすのみになったアーチャーに対して、穂群原学園の養護教諭・折手死亜華憐は満面の笑みでその食指を進めた。
アーチャーを覚醒させた赤い物体、麻婆豆腐。
それがただの麻婆豆腐で無いことは、その外観、匂いから察することができた。なお且つあの最古の英雄王やアイルランドの光の御子を撃沈させたものとして、幾つもの記録が脳裏で踊っている。
自分がまたもや衛宮士郎の身体の主導権を握っているのだとか、そういう些末なことは脇へ押しやり、まずはこの重大かつ強敵になり得るモノを、目の前に差し出した人物に注意を向けた。
この部屋の主にして、赤い物体に怯むことなく己の分の皿も確保している銀髪の女。
衛宮士郎の知識によれば、この学園の養護教諭を務めているようなのだが、アーチャーは別の名で彼女を知っていた。すなわち聖堂教会所属・毒舌シスターことカレン・オルテンシア。
無論、この世界は並行世界であり、アーチャーの知っている世界とは異なる。イリヤと同様、また違った人生を送り性格さえ変わっているかもしれないと、淡い期待も浮かぶのだが――――
「ご機嫌よう、食べ物に釣られた哀れな子羊さん。起きて早々に私の身体を嘗め回すように見つめるとは。発情期を迎えてお盛んな年頃なようですね」
……やはり彼女の性格は並行世界でも健在なようだ。
アーチャーは一つ咳払いと共に期待の泡を流すと、彼女の発言を訂正した。
「いや、こんな強烈なものを病人の枕元へ持ってくる人物は、いったいどんな神経を持ち合わせているのかと考えていただけだ。……決して下心は無いぞ。ああ、まったく無い」
むしろ眼前の赤い脅威の方が気になってしまうアーチャーである。いや、誰だって危機感を覚える代物だろう、コレは。
怪しい雲行きを感じながらもアーチャーは果敢に尋ねた。この恐ろしい麻婆豆腐がなぜ彼の前にあるのかを。
「二日も続けて保健室へ運ばれてきたので。さぞかし疲労が溜まっているのでしょう。ならばこの学園の養護教諭として、生徒には美味しいものを食べて元気になってもらいませんと」
見事に建前とわかる理屈を述べるカレン。このいかにも身体に悪そうなラー油たっぷりの麻婆豆腐で本当に元気になれると思っているのか。
彼女の口の端が歪んでいるのを、アーチャーは見逃したりはしなかった。
「もっともこの麻婆豆腐はあくまでオマケ。私の昼食のついでに頼んだだけなので。メインはこちら」
カレンが取り出したのは、無色の液体が入った小瓶。表には堂々と聖堂教会の十字架が彫り込まれている。
「私の実家でよく使われている霊験あらたかな疲労回復薬です。私は口にしたことはありませんが、効果は抜群だそうですよ」
アーチャーは半眼になってその小瓶を睨みつけた。
――――明らかに怪しい。
彼女の実家が聖堂教会なのは明白であり、効能も、まあ信憑性はある。
しかし、何故彼女がこうまで厚意を示してくれるのかが分からない。目的の分からない親切は心底恐ろしい。特に彼女の場合は。
「……そこまで気に掛けてもらわなくでも大丈夫だ。もう少し休ませてもらうだけでいい。あまり贔屓にしてもらったら、他の生徒にも悪いだろう」
カレンに背を向けるようにベッドに身を横たえる。もう彼女との接触は極力控えることにする。あまり長く接すれば、この異常な状態のことも全て見透かされてしまいそうだ。
そんな拒絶の意思を示す背中に、カレンは一言、投げつけた。
「――――必要でしょう? あなたたちには」
アーチャーは目を見開いた。
――あなたたち?
アーチャーは一呼吸おくと、ゆっくりと身を起こし改めて彼女と向かい合う。
「君は―――どこまで知っている?」
幼さの残る少年の顔立ちに浮かぶは、平凡な高校生『衛宮士郎』の範疇から外れた表情。
鷹の目と称された鋭い目で、アーチャーはカレン・オルテンシアに問うた。
「さあ?」
鋭い言葉の切っ先を、たおやかな笑みで華麗に受け流すカレン。
二人の間の空気が、弓に張った弦のように張り詰めた。外は穏やかな日差しの下、生徒の賑わう声が聞こえるが、この部屋の内はまさしく異空間だ。
日常風景からの乖離。
表の保健医を謳歌する聖女と、平凡な学生の皮を被った魔術師。
束の間の緊張は、魔術師の男が折れたことで霧散する。
(流石は聖堂教会の人間だな)
先の問いにかけた圧力は尋常では無かった筈だが、やはりちょっとやそっとのことでは動じる気配も無い。また彼女相手に気を張り続けても糠に釘、暖簾に腕押しだと、いつぞやの記録が囁いていた。
「できれば黙っていてほしいのだが」
教会へ報告などされたら、厄介なだけでは済まされない。
アーチャーの要請に、カレンは片目を軽く閉じた。
「ええ。あなたが何者であろうと、私の自由を侵さない限り、詮索や吹聴をするつもりはありません」
白衣を着たシスターは、机の上の湯呑に砂糖の塊を入れながら言う。
隣の急須からは中身が入っているだろう、湯気が漂い出ている。
「ただ、アレの不始末の尻拭いは面倒だから、進んで汚物処理をしてくれる忠義な誰かさんをバックアップしたくなった。それだけのことです」
そして彼女は急須を手に取り、緑の液体を砂糖入りの湯呑に注ぎいれた。
……ちょっと待て。
あれは察するに一般的な緑茶に見えたが。
(いったいいくつ角砂糖を入れた!?)
顔を引き攣らせるアーチャーの前で、カレンはじょりじょりという音が聞こえそうな緑茶を呷る。
「……やはりお茶はこれくらい甘くなくては、味わうこともできませんね。まあ、こちらの小瓶の中身も相当な味わいだと伺っていますが」
埋葬機関の代行者でも小一時間は悶絶するレベル、と彼女はのたまった。
全てを飲み干さないと効果は半減だとも。
「……そんな代物を飲ませようとしたのか」
カレン・オルテンシア。彼女の好意は悪意と表裏一体である。
だが、彼女の思いやりの悪質さはアーチャーの想像を超えていた。
「いえ、さすがに直接飲んで頂くのはきついだろうと、私は思いました。なので――――」
彼女はそう言うと、おもむろに小瓶の蓋を開けひっくり返した。
目の前の麻婆豆腐、その上で。
「…………」
そのまま匙を差し入れグルグルとかき回す。
「さあ、どうぞ召し上がれ。これで少しは味が誤魔化されたことでしょう」
そこには聖女の微笑みを浮かべた悪魔がいた。
いや、どう見ても誤魔化されたとかそういうレベルでは無い。
不用意な合体事故とか、放射能汚染のような、あってはならない融合がなされてしまったような。一見、少し水っぽくなった麻婆豆腐という様相なのだが、味がどんな改変を受けているか想像の埒外だ。
(コレを口に入れるのか)
アーチャーは真剣に悩んだ。
今すぐ本能的な危機感に従い、この部屋からの離脱を計るか、この悪魔的な食べ物を胃に収めるか。
しかし今後のことを考えれば、ここで聖堂教会お墨付きの薬を摂取することは、これからの戦いにおいてへっぽこ魔術師の限界領域ギリギリまで力を発揮できることに繋がる。マイナス要素は出来るだけ排除しておきたいところではある。
(支払うべき代償は私の精神的苦痛だけ、か)
額に手をやり、視線を横に逸らす。
その拍子に視界に入り込んだのは、鏡に映る少年の顔。
健康的とは言い難い血の気の無い顔に、薄らと目の下にかかる隈。
それを数秒見つめ、アーチャーは覚悟を決めた。
例え己の魂が改悪麻婆によって摩滅しようとも、コレを完食する覚悟を。
「……いただきます」
***********
「ずいぶんと根性あるお人好しが憑いていること」
カレンはそう感想を洩らして、ベッドの上で目を回す赤毛の少年に対し、適当に毛布を掛けた。
皿を空にし、律儀にも申し訳程度に置いた水も飲み込んでからベッドに倒れこんだ少年。
『彼』の苦悩と苦悶と、悲愴漂う食事タイムを眺めるのは中々に愉快だったのだが、まさか本当に完食するとは。
必死で口に運んだにも関わらず途中で力尽き薬の効果は半減、という悲劇的な展開も期待していたカレンである。見事、食べ尽されたサイドテーブル上の皿を見て、残念、と呟いた。
(それにしても、こうも穏やかな感触は初めてですね)
カレン・オルテンシア。聖堂教会所属のシスターであり、ある魔術的儀式の監視者としてこの地に派遣され、今はここ数週間に発生した歪みの原因であるカード回収のバックアップを兼任。どこぞのカレー魔人のような超人的戦闘能力を有していないが、『被虐霊媒体質』という非常に便利な体質のため、代行者という大変ありがたい役職を頂戴していた。
(拒絶反応が無い……。馴染みやすい波長、相似の性質。もしくは元々同じ――――?)
その体質故に、憑依された人間と同じ霊障を、カレンはその身に体現してきた。今までにこなした任務の勲章として、五感は低下し、右目の視力は完全に失われ、走ることさえ困難なほど肉体に損傷を受けている。今回の任務ではどのような負傷を負うか、と待ち構えていたのだが。
(身体が重い、怠い。それから妙な圧迫感くらいかしら)
この赤毛の少年に憑いているモノはよほど、カレンを労わってくれているようだ。
生傷・流血もなにも無いとは、平穏すぎて逆に退屈を感じてしまう。
(まあいいでしょう。今回はあの男に至宝と言わしめたものを冒瀆しつつ、『彼』がなんとも魅力的な顔で召し上がってくれましたから)
カレンは食べ終えた己の皿を重ねると、愉悦が滲む金の瞳を眠る少年に向け、言った。
「ごちそうさまでした」
***************
衛宮士郎が目を覚ましたのは、既に夕暮れの赤が差し込む時間帯だった。
二日続けて見る天井である。潔く状況を理解した士郎は、起き上がって常駐しているはずの保健医の姿が無いことに気付いた。
(おいアーチャー。ここの先生がどこに行ったか知ってるか?)
ダメ元で内側の住人に問いかける。自分が寝ている間は、アーチャーも外のことは分からないだろうが、念のため。
(……アーチャー? おーい)
再度呼び掛けるが返事が無い。まるで屍のようだ。
まあ、息はあるようだし、存在している感じはあるので、放っておくことにする。
時刻を確認すれば、部活動の終了間際の時間だった。
(……今日が弓道部の休みの日でよかった)
無断で休んだら部活仲間に申し訳ない。
「おっと、こうしちゃいられない」
いつまでもここに居座っていると、施錠されて閉じ込められてしまう。
幸いにして着替えや荷物などは、親切な誰かが保健室まで運んでくれたようである。
士郎は身支度を整えると、とりあえず隣の部屋にいた馴染みの用務員のおじさんに声をかけた。
「あの美人の先生なら早々と帰られたよ」
折手死亜先生の所在を尋ねた返答がこれだ。
……生徒が寝ているのに先に帰るって。
絶句した士郎の前で、用務のおじさんは懐から鍵を取り出し、保健室の施錠をした。一応、戸締りに関しては彼に任せていたらしい。
「じゃ、お大事に」
士郎の肩にポンと軽く手を置いて、そんな言葉と共に用務のおじさんは去っていった。
(……俺が起きるのを待っていてくれたのか)
士郎が漸く気付いた時には、彼の姿はもう視界には無く。
ただ彼が消えた方向へ、士郎は頭を下げた。
(いろんな人に世話になってるな)
帰り道、士郎は自転車を走らせながら考えた。
(朝はセラのサンドイッチで午前の授業を乗り切れたし、葛木のおかげで藤ねえと一成に贈り物は出来たし、藤ねえには道場の確保をお願いしたし)
ペダルを漕ぐ足は力強く、今朝のヘロヘロ具合が嘘のようだ。
(体育のときは誰かに運んでもらったし。荷物も一緒だったから助かった。用務のおじさんもギリギリまで寝かせてくれたんだよな)
夕焼けの空は山際から群青へと移行している。家についたらすぐ夕食の時間になるだろう。
(身体の調子もバカみたいにいい。折手死亜先生のおかげか?)
あの銀髪の先生が無償で何かをしてくれる姿はあまり想像できないのだが、数時間の睡眠でここまで体調がよくなるわけがない。
なにより。
(なんか口の中がヒリヒリして麻痺しているみたいだし、胃も若干もたれてる感じがするんだよなー)
一体どんな薬を処方されたかは知らないが、体調は万全なのだ。あまり深く考えても仕方ないかもしれない。
それに仮にも学校の先生。生徒に対し、変なものを盛るはずが無い。きっと。
しばらくして、いつも通りのわが家が見えてきた。自転車を止めドアを開ければ、昔から一緒に暮らしているセラとリズ、妹のイリヤの「おかえり」の声が出迎える。
(いろんな人に手を貸してもらえて、俺は幸せ者だ)
人並みの幸せはもう手に入れている。周りの人間がそうであれと願い、守り、力を貸してくれているからだ。皆で囲む食卓の風景は、何よりも得難い平穏な日常の象徴だろう。
しかし。
士郎がこれからすることは、その人たち全てに対する裏切りだ。
彼らは士郎の充実した平穏で安全な学園生活を望んでくれている。けれど士郎の望む魔術なんてものは安全とはほど遠いもので。――――死ぬ危険性すらある。
それでも。
「俺はイリヤを守るって、家族を守るって決めた」
いつまでも甘えて守られる側にはいられない。
守る、守られるの切り替えの時期など、誰にも決められるものでは無い。
その意志さえあれば、誰だって守る側に立つことは出来る。
「だけど、俺の力なんてちっぽけだ」
守る力が無い者は、結局は守られる側になってしまう。それどころか足を引っ張ったり、害を齎してしまうかもしれない。
「だから俺を鍛えてくれ、アーチャー。イリヤの巻き込まれた世界で、じいさんが戦っている世界で通用する力を、俺に教えてくれ」
シンッと静まり返った道場。
冴え冴えと輝く月の光が一人、士郎だけを照らしている。
本格的な日本家屋の一角。板張りの道場で正座する士郎の前に、人の姿は無い。
しかし士郎には見えていた。
夜に溶け込む褐色の肌と、対照的に浮かび上がる白の短髪。
一切無駄のない鍛え抜かれた長躯は、黒の軽鎧と月夜にも鮮やかな赤の外套に包まれ。
鋼色の鷹の目は、険しく鋭く士郎を射抜く。
「精々、原初の思いを見失わぬことだな、衛宮士郎。
でなければ――――叶わぬ理想に溺死するだけだ」
アーチャー、このために頑張って復活。