今回思ったよりも大分長くなってしまいました。主にこの世界の第四次についてです。だいぶ捏造してます。これ以上は手を広げません。後は終わりまで畳んでいくんだ!
番外編のフラグ、ここで回収です。
風呂上がり。衝撃的な事実を告げられ、自室のベッドで昼間とは違う理由によりゴロゴロと唸っていたイリヤは、軽いノックの音に顔を上げた。
「やっほー。イリヤちゃん。ちょっとは落ち着いた?」
扉から顔をのぞかせたのは、先ほど色々ぶっちゃけてくれたアイリスフィールである。
「あんまり……。正直、ほんとに『力』があるなんて実感ないし、なんかぐるぐるしてわけわかんないよ」
「あらあら。そういうのは一晩寝れば、すとんと整理されるわよ。今日は早く休んだほうがいいかもしれないわね」
そういう問題かなーと首を傾げるも、パンクしそうな頭では同じ思考をぐるぐる巡るだけであったので、とりあえず寝る支度をする方針に舵を切ることにする。
『力』については自分次第とアイリから告げられていた。錠は外したのだから、あとはイリヤが自分で気付いて理解しなさい、と。
しかしいくら考えても瞑想っぽいことをしようと、全く『力』らしきモノは感じられないのだ。アニメやマンガでは「内から力が漲ってくる」とかそれっぽい閃光やら力の奔流などが描写されるが、イリヤの身に秘められた『力』は今更出て行くのは気恥ずかしいというように、うんとも寸とも反応がない。一緒に聞いていたはずのルビーにも、それらしきものは感知できず「ほんとにあるんですかー? 実はドッキリだったりとかー」とイリヤを茶化すばかりであった。
(……こんな有様でちゃんとミユと一緒に戦えるのかな)
モヤモヤとイリヤの表情は曇ったまま。
その様子にアイリは苦笑を漏らすと、イリヤの手を取り言った。
「大丈夫よ。イリヤが『聖杯(イリヤ)』である限り、『力』が無くなることはないわ。望むと望まないとに関わらず、あなたはそう生まれてきたのだから」
「……そういわれても」
わからないものはわからないのだから、仕方がない。
唇を尖らせるイリヤに、アイリは「とにかく今日はもう寝なさい」とイリヤの額のしわを小突く。
そしてイリヤの手のひらの中にあるモノを滑り込ませた。
「はい、これお守りね。これからは必ず身につけること。お風呂の時でも外しちゃダメよ」
手に触れたのは冷たい金属の感触。視線を落とせば、丸い銀の輝きと同色の細いチェーンが目に入った。
「……コインのペンダント?」
ちょうど百円玉くらいのコインには見知らぬ文字が細かに刻まれ、裏返せば精緻で繊細な文様がびっしりと書き込まれていた。まるで魔法陣みたいと感想を漏らせば、正解、という声が返ってきた。
「イリヤが悪い大人に捕まらないように、っていうおまじないよ。
わたしたちはある人たちから見たら、とっても珍しくて貴重な存在なの。もしもそういうモノだって知られたら、イリヤちゃんがよく読んでるマンガみたいに、闇の組織に誘拐されて人体実験にされたり標本にされたり、あんなことやこんなこともされてしまうの。
だからね。知らぬが仏、だったかしら? 悟られないこと、それが一番の安全策なのよ」
わかった? と、笑顔でとても物騒なことを茶目っ気たっぷりに語るアイリには、ただならぬ迫力があった。
イリヤはコクコクと頷くしかなかった。
「……ハーイ。ワカリマシタ。以後気ヲツケマス」
そうして嵐のようなアイリの訪問の後、イリヤはローテンションなまま部屋を自由に飛び回るルビーに聞いてみた。
「ルビー、ママの言ってたことってほんとにあるのかな? その……誘拐とか人体実験とか標本とか」
「ありますよー。というかまんまです。いや、実際はもっとひどいことになるかもしれませんね~」
――――まじですか。
イリヤは崩れ落ちた。
そう、自分の中に秘められた力があるなんてマンガ的でファンタジーなやったうふふみたいな展開までは良かったのだが、それに伴う現実的で超危険なリスクが身に迫ることなどまるで考慮していなかったというか、いや魔法少女で黒化英霊とか魔術とか危険にはどっぷり浸かっちゃったけどそれは鏡面界の出来事で、こう日常でましてや一般人と思っていた母親からそうデンジャラスな脅しを聞くとは思わなかったというか――――
「ちなみにママさんの言っていた悪い大人だとかある人たちとは、十中八九、凛さんやらルヴィアさんたち魔術師のことですねー。まあその二人はその中でも甘々の甘ちゃんですから、おそらくは見逃してはくれると思いますが、どこから情報が漏れるかわからない世の中ですし? 魔術師のみなさんは自分の研究のためならどんな犠牲も厭わないマッドな方たちばかりなのでー。だいたい凛さんが所属している時計塔という魔術組織でも、稀少と認定されたモノは封印指定として生きたまま脳髄を取り出されて深い地下に標本として飾られるという噂で――――」
「やめ! わかった、わかったから、もう怖い話はしないで!」
ルビーからもたらされる知りたくなかった情報をシャットダウンし、イリヤは懇願の目を向ける。
「ルビー、私の『力』こと、ママのこと、絶対内緒にして! お願い!」
「わかりましたよイリヤさん! イリヤさんは私のマスターですから!」
ルビーの潔い返事に、よかったーと安堵の息を吐くイリヤ。
しかし忘れてはいないか。カレイドステッキ・ルビーはこんなに物わかりのいい性格だったか?
否、ルビーのねじくれっぷりはあの宝石翁でさえ厄介といわしめるもの!
つまりはこういうことで。
「あ、でもマスターを変更したらその限りではありませんので」
「え、ちょっと。ちょっと待ってよルビー!」
それはイリヤがマスターの内は黙ってくれるということ。転じて、秘密を守るにはこの先ずっとイリヤが魔法少女をしていなくてはいけないということで――――
「私、大人になったらさすがに魔法少女なんてやりたくないからね!」
「え、でもイリヤさんとの契約を解除したら、私何かの拍子にイリヤさんの秘密をうっかり漏らしてしまうかもしれないですよ」
それでもいいんですかー? というルビーの悪魔の囁きにイリヤの思考は加速的に追い詰められていく。
(つまり、秘密を守るためにこの先延々ルビーとつきあうか、秘密をバラされる危険を承知でルビーと離れるしかないわけで――――いや、第三の道として何かの交換条件で秘密を永久に守ってもらうとか――――でもどちらにせよ何らかの犠牲はつきもので―――――)
グルグルと混乱の迷宮を何度もさまよった挙句に、イリヤは結論をはじき出した。
将来を守るために犠牲にすべきは、今現在だと。
「ルビー、私、今なら何でも、何でもするから! お願いだからこの先ずっと秘密を守って! お願いします!」
こうしてイリヤの黒歴史が一ページ、追加されたのだった。
*********
じゃあイリヤちゃん、おやすみなさい、と娘の部屋をあとにしたアイリスフィールは、自室の部屋に戻ると、風呂上がりの格好から外出できる服装へと着替えだした。ついでに部屋に魔術痕跡を残さぬよう留意しながら新たな術式を身に纏う。自らの隠蔽の礼装を娘に渡したための、一時的な処置である。
玄関を出ると、セラが車の用意をしていた。
「ありがとうセラ。ちょっと遅くなるかもしれないけど、留守をよろしくね」
セラから鍵を受け取り、愛車に乗り込んでエンジンをかける。城にいた頃から乗り回している愛車の手応えに、アイリは確かな信用を寄せる。
「こちらのことはお任せください。奥様こそ、どうぞお気を付けて」
律儀にも見送ってくれるメイドに、アイリはサイドブレーキを解除しながら訊ねた。
「そういえばセラは、彼に何かメッセージでもある?」
今夜会いに行く相手は主にセラが世話を焼いていたはず。何か気になることでもあれば、と思ったのだが。
「いえ、特に何も。あれから既に十年も経っているんですよ。彼もいい歳した大人です。私に心配されるような軟弱者に仕立てた覚えはありません」
それに桜さんの様子はシロウから聞いていますから、とセラは澄まし顔で答える。
その様子は見栄を張っているわけでもなくただ当然のことを言ったまでと、アインツベルンのメイドとしての矜持をもって答えているように見えた。
(じゃあ、彼がどんなに立派になっているか、おみやげ話に持ち帰ってあげましょうか)
小さな楽しみを含みつつ、アイリはクラッチを踏み込む。ついでにアクセルもふかし――――
「わかったわ。あとイリヤの封印を外したから、何か聞かれたらあまり誤魔化さないで答えてあげてね」
「…………はい?」
そしてアイリは勢いよく車を発進させた。
「え、ちょっ、奥様、どういうことですかー!?」
セラの叫びは置き去りに、夜の深山町へとアイリは繰り出した。
深山町のとある公園。昼間は子供たちが走り回る場所も、夕食時も過ぎたこの時間では様相を一変させる。
中央部の円形に空いた広場。そこに等間隔に配置された四つの電灯がその場のみを照らし、暗がりはよりいっそう陰を深める。木々が多く植樹されたこの公園は外側からの見通しが悪く、夜の蜜月にはちょうどいい立地であった。
普段であれば、酔っぱらいの中年サラリーマンや、夜のデートとしてカップルの一組や二組がたむろするであろうが、今日に限っては公園内に人影は無く。公園の外縁には時折通行人が行き交うのに、内に入ろうとする者はいない。
そして初夏の月が後少しで天頂へとさしかかるかという頃、一台の高級車が公園の外周部に横付けされた。一般的な住宅地では不釣り合いな車から降り立ったのは、長い銀髪の外国人女性。
人形めいた顔立ちに赤い瞳を持つ彼女は、公園の入り口で立ち止まる。
そこには一見変哲のない蚊柱がたっていた。入り口の中央で無数の虫が密集し飛び交い、何気なく公園に入ろうとした者は気を削がれて回れ右するだろう。
(……うまいやり方。キリツグの教授をちゃんと活用しているようね)
相手に気取られるような結界を張るのは三流のする事。一流の術者は張ったことすら気づかせないものを造りあげる。
今夜必要なのは一般人を寄せ付けない人払いの結界。
なるほど彼は人払いの術式を巡らせるよりも、羽虫を操るほうが得意だ。消費される魔力も微細な量だろう。無理に立ち入る者があれば、その瞬間だけ術を立ち上げればいい。これならば他の魔術師にも気づかれにくい。
(私でさえ、知っていなくては見落とすほど……。いい腕ね)
千年続いた魔術の大家アインツベルン。その研究の粋を凝らして鋳造されたアイリスフィール・フォン・アインツベルンは満足げに笑う。あの雪に閉ざされた城から今までついてきてくれた従者たちによい土産を渡せそうだ。
そうするうちに、密集していた虫たちが一匹、また一匹と離れていく。数秒もせぬ内にアイリの目の前から虫が消え、公園への入り口が開かれた。
「こんばんは。お久しぶりです。アイリスフィールさん」
その男はきわめて普通に挨拶をした。
公園の奥から進み出たのは、一般的なパーカーとズボンにスニーカーを着用した三十代半ばの男性。すれ違っただけでは記憶に残らないであろう様相。ただ唯一左目に当てた医療用の眼帯だけが多少気になるくらいか。
そんな完全に一般人に溶け込んだ男が、今夜のアイリの目的である魔術師だった。
「こんばんは。思ったよりも随分真っ当に動くようになったわね。あの頃からすると見違えるようだわ、カリヤ。ウェイバー君の下で良い研鑽を積んできたのね」
アイリの忌憚のない称賛に、男――――現間桐家当主、間桐雁夜は、首を横に振りながら答えた。
「いえ、俺なんてまだまだです。表面上は小奇麗にしていますが、中身は修復に時間がかかっています。動きにもまだ少しぎこちない部分が残っていますよ」
そう雁夜は言うが、ホムンクルスを人体に模して鋳造してきたアインツベルンの目からすれば、よくぞあのボロボロの身体からここまで回復したと思う。
「髪も染めているのかしら? なんだか若返って年相応に見えるわ」
「ええ、やっぱり白い髪は目立ちますからね。――――あのときは棺桶に片足突っ込んでいたので、まあ、二十代の若々しさとは無縁でしたよ」
と、照れ笑いする雁夜は、若白髪を隠そうとする一般男性と変わらない。
魔術師であれば魔術の代償で変化した外見など誇ることはあっても、世間の目を気にすることは無い。自分の研究を追及することこそが至上の魔術師が、手間暇をかけてまで外見を取り繕うことなど無いのである。魔導に一度背を向けた雁夜は、魔術師の大学とも言われる時計塔へ留学し魔術世界に混じっても、どうも一般人の感覚が抜けきらなかったようだ。
雁夜は左半身不随だったことも感じさせない動きで、アイリをベンチの方へ誘った。
立ち話で終わらない用件なのは薄々感じていたので、アイリは差し出された手を取って敷き布が用意されたベンチへと腰を下ろした。
アイリが雁夜と会うのは幾年ぶりだろうか。
十年前の聖杯戦争はほぼ不発に終わったとはいえ、死傷者は出た。
その主な原因は当時、間桐を取り仕切っていた間桐臓硯の異様な執着だった。
聖杯戦争の創始者の一人にしてサーヴァントシステムや英霊を律する令呪の考案者。第四次聖杯戦争を始まる前に終わらせる――――そのことに大いに反発し、聖杯戦争に参戦するために集まった魔術師全てを敵に回し、抗った。当時の遠坂家の当主――遠坂時臣が間桐臓硯と相討ちとなり、五百年の執念も途絶えたが、残された間桐の者たちの傷は深かった。
間桐家はその後、アインツベルンの仲介で、間桐家の魔術研究の成果を全て差し出す代わりにエルメロイ家の庇護下に置かれた。また雁夜がある程度身動きが取れるようになるまで、魔術の心得のあるメイドが派遣され、アインツベルンに大きな貸しを作ることになったのである。
だがアイリスフィール自身はあまり間桐家に顔を出すことは無かった。
聖杯戦争の後始末が盛大に残っていたということも一因である。
アインツベルンの城から赤子だったイリヤスフィールを迎えに行き、民間に出てしまった被害の中で唯一生き残った男の子を引き取り、そして夢みた日本家屋での生活を始めるも、長くは続かず。
アイリと切嗣は聖杯戦争の要となる大聖杯の機能は停止させたものの、完全な解体には至らなかった。柳洞寺地下の空間に溜まった魔力を無理なくガス抜きさせるには数十年規模の時間がかかる。そのことを嗅ぎ付けた多くの魔術師が、『根源』へと辿り着けるであろうその大魔術の術式をかすめ取るべく、暗躍を開始したのだ。
切嗣は『魔術師殺し』時代に構築したネットワークを頼りに敵を特定し次々と駆除していった。時計塔に戻ったケイネス・エルメロイ・アーチボルトとウェイバー・ベルベットにも協力を仰ぎ、聖杯戦争に関する情報の消去を進めた。アインツベルン、間桐と並ぶ御三家である遠坂は、跡継ぎが幼いということで、昔から親交があったという監督役の言峰教会に任せ、セカンドオーナーとして冬木の守護の任についてもらった。
だが、十年経った今でも聖杯戦争をめぐる裏の戦いは終結の気配を見せない。また第三次聖杯戦争の時代、第二次世界大戦前のごたごたで術式の一部が流出している可能性があることも、最近になって発覚したのだ。
聖杯の管理を司ったアインツベルン家に注目が集まることはまだいい。その本拠地は既に潰えているのだから。しかし鍵の一つである小聖杯として生まれたイリヤスフィールの存在が露見してしまえば、狙われるのは必定。それ故、切嗣やアイリが世界中を飛び回ることになり、イリヤや士郎のいる冬木の家に中々帰れない状況なのである。
「それで? わざわざ桜ちゃんやシロウ、セラを経由してまで私たちに連絡をとって、知らせたかった要件は一体なんなのかしら?」
アイリは厳しい目で雁夜に問う。切嗣とアイリ直通の連絡先を知っているのはセラとリズ、そして今はロード・エイルメロイ二世と名乗っているウェイバー・ベルベットのみ。魔術との関わりを徹底的に排除しているため、魔術師が冬木の自宅に近づくことは禁止している。自衛と制御のために魔術を習ってはいるが一般人として学校に通っている間桐桜はギリギリのラインだ。
本来であれば直属の上司であるウェイバーを経由すべきだったのだが、この案件はウェイバーにさえ秘密にせざるを得ない事情があったのだ。
雁夜は唇を湿らせると、胸中で整理していた事柄を語り出した。
「俺は今――――冬木で確認された霊脈の歪みの調査に来ています。大本の原因には留学中の遠坂家当主ともう一人、宝石翁の系譜の魔術師が当たっていて、俺はバックアップ兼報告の検証・裏付けのために派遣されました。なので現場の二人には俺のことは知らされていません」
雁夜の魔術師としての能力は低い方である。衰退へ向かっていた間桐家の最後の出涸らしと言っていいほどだ。だが仮にも五百年は続いた魔術師の系譜。残された資料の上澄みだけでも精度の高い術式となっている。
間桐の魔術は蟲を媒介または使役して展開する魔術である。蟲は生命力・繁殖力が強いが抵抗力は弱く術式によっては魔力消費も極端に少なくて済み、雁夜の魔力量でも充分運用することが可能だ。
雁夜は魔術師にとって悲願である『根源』を目指すことも、間桐の家を存続させることにも興味は無いが、『間桐』という家名が魔術世界で一種のステータス(盾)となっていることを時計塔留学中に理解した。雁夜が『間桐』として成果をあげれば、それだけ実兄や甥、義理の姪を守れる。
雁夜は本腰をいれて魔術を学んだ。魔術師に対抗するための魔術の習得だったから、雁夜も某魔術師殺しではないが、魔術師というよりは魔術使いといったほうがいいだろう。
「俺の得意とする魔術は、蟲を使った偵察と監視です。群れとして蟲を扱うので広範囲にわたる索敵と長期間にわたる記録(ログ)の集積もできます。冬木を離れる前にも、霊脈の要所には監視用で設置していったんですけど……」
情報収集は作戦行動の要。正しい状況判断をするためには、多くの記録を統合し多角的な視点で解析する必要がある。これはルポライターとして世界中を渡り歩いてきた経験と、衛宮切嗣の教授から学んだことだ。
冬木の地を、ひいては残された間桐の家族を守るため、雁夜が設置していった魔術は霊脈から漏れる僅かな魔力によって半永久的に作動する術式だったのだが――――
「俺は上層部のごたごたで、現場の二人より五日ほど遅れて冬木に到着しました。一昨日のことです。すぐに設置していた蟲たちの記録の解析を始めたのですが、霊脈の歪みのせいでノイズのひどいものと成り果てていました」
「――――それがどうして私を呼ぶことに繋がるの? 大聖杯は機能を停止しているし入り口だって厳重に封印してある。土地については遠坂の管轄でしょう?」
アイリスフィールの困惑に、雁夜は力なく首を振った。
「わずかに解析できた記録に映りこんでいたんですよ。――――遠坂凛と共に、宝石翁秘蔵の魔術礼装を手にしたイリヤスフィール・フォン・アインツベルンの姿が」
「まさか、遠坂がイリヤを聖杯として利用を――――?」
焦燥の念を浮かべるアイリ。聖杯の器であるイリヤには大容量の魔力を行使するスペックがある。それに目を付けたのか。
実の娘イリヤスフィールが聖杯であることは、始まりの御三家だけの秘密であり、第四次戦争後世話になっているウェイバーには、イリヤはただの人間と同じように成長するだけのホムンクルスと伝えている。だからこそ雁夜はウェイバーを通すことなく、何も知らない桜に頼んでまでアイリに連絡を取ったのだ。
しかしここにはおかしな点がある。これも遠坂のうっかりの一つかもしれないのだが。
「いえ、実は凛ちゃんはイリヤちゃんが聖杯だということを知らないようなんです。昨日今日と蟲を使って様子を伺っていたんですけど、どうやら普通の小学生を巻き込んでしまったと思っているようで」
遠坂家の情報の継承はどうなっているのか。
そのことに気付いたときは、思わず優雅にかっこよく散っていった男の背を遠くに見ながら天を仰いでしまった。よもやここにも遠坂のうっかりが存在したとは。よく今までボロがでなかったな!
ちなみに雁夜は遠坂凛とは顔なじみであり、彼女の性情はある程度把握している。
遠坂凛の性格からして、一般人の中で生活する小学生を無下に利用しようとはしないだろう。そこまで魔術師として冷徹にはなりきれていないはずであり、そこが彼女の人の好さでもある。
もっとも、雁夜に対しては仲良く接してくれたのは幼少期のみ。成長してからは碌に目も合わせてもらえず同じ時計塔で学んでいても露骨に避けられていた。
(俺が一度、間桐から出奔したからかな……。まあ俺の今のスタンスも生粋の魔術師からすれば、眉を顰められるようなものだし)
実を言うと凛のそうした態度は過去遠坂家と間桐家の結んだ不可侵条約に基づいているのだが、これも遠坂家伝来のうっかりのせいでそれが有名無実化している事実を彼女が見逃しているだけである。うっかり仕事し過ぎ。
「……どうして魔術師の任務に普通の小学生が巻き込まれるのかしら?」
アイリは不審というか、心の底から理解できないというように疑問を零した。
通常、魔術師の活動というのは神秘の漏洩防止のため、一般人の関わりを厳しく制限している。表社会で普通に暮らしているイリヤとの接点はあり得るはずが無い。
「それに関しては……まあ、その、不幸な事故があったんだと思います。
――――遠坂凛と、同じく本件を任されたエーデルフェルト嬢の確執は時計塔内でもその名を轟かせていまして……、さらに今回、任務の依頼主である宝石翁から特別貸与された魔術礼装の性質を加味して考えると、ホント、天文学的な確率で今回のような事態が発生したんじゃないかと……」
雁夜は歯切れ悪く己の推測を述べていく。まったくもって外聞の悪い話なのだが、こう、実際の様子が生々しく想像できるくらいに過去の実績が脳内再生されるのだ。あの二人の険悪な空気に愛想尽かす某ステッキが目に浮かぶようである。
「よく分からないけど、イリヤをただの小学生として扱っているのならいいわ。ただ、任務ってことは、報告を協会にするわよね。……余計な注目が集まらなければいいのだけど」
「あ、それに関しては大丈夫です」
アイリの懸念を雁夜はあっさり一蹴する。
「俺は現場担当の二人の提出する報告書の検証と、裏付けの調査を任された人間です。当然、中間報告書にも目を通しています。やはり一般人を巻き込んだのが後ろめたいのか、今のところ書類にはイリヤちゃんのことは何一つ書かれていませんでした。最悪、書かれていたとしても、俺が添削しておきますよ」
力強く断言する雁夜。魔術協会からすれば監査として送り込んだ意味がまるでないのだが、上層部は腐敗が蔓延している御時世であり、多少の私情が入っても大した問題にはならないだろう。
「それはとても頼もしいことだけど……その魔術協会からの任務でイリヤは危険なことをさせられているのかしら?」
親としてはそこが気になるところである。さらにイリヤに掛けられていた封印が二度も解けた痕跡を見た後である。イリヤが対処できないほどの事態であれば、魔術師としてのアイリの存在を晒してでも止めに入らなければいけないが――――
「それはたぶん大丈夫……だと思います。
実際の様子は鏡面界という別次元の空間に移転して行っているので、俺には何をしているのか分からないんですが、執行者一名でも充分達成できる任務ですし、時計塔主席候補の魔術師二名、そして魔法使い謹製の最高位の魔術礼装が揃っているので、よほどのことが無い限り、身の危険は無いかと」
雁夜の認識では、魔術工房に攻め入っても殲滅してお釣りが出るくらいの戦力という認識である。特に二人の火力が生半可なものではないことは常日頃から分かっていることだ。
――――雁夜は知らない。世の中には想像を上回る怪物が、現実とすぐ隣り合わせに存在していることを。
「それに今回、特別に貸し出された魔術礼装には個人的に面識があって――――」
「魔術礼装に面識?」
たかが道具である魔術礼装に面識があるとは妙な言い回しである。
首を傾げたアイリに、雁夜は何故か目を泳がせながら返答した。
「……えっと、その魔術礼装にはなかなか愉快な性格の人工精霊が組み込まれていて、なんというか、そう、絶対シリアスにならないというか、……精神的に玩ばれるだけで、大して身体的害はないというか、とにかく、アレがイリヤちゃんを気に入っているのなら、身の安全は確実です。アレの礼装としての能力は最高位ですから」
アイリを安心させるような言葉を選びながらも、遠い昔の友(犠牲者)に背を向け必死に当時の悪夢を忘却の彼方へ追いやろうとする雁夜であった。
「まあ、そんな感じでイリヤちゃんが魔術師の世界に足を突っ込んじゃっているんですが、これからどうしますか? 俺が手を回して凛ちゃんたちに勧告することもできますけど」
これが雁夜の今日の本題である。
下手にイリヤを引き離そうとすれば下種の勘繰りも釣れてしまう可能性もあるため、一度保護者であるアイリと切嗣に判断を仰いだのだ。
アイリは雁夜の情報と、セラとリズからのイリヤの近況、そして家を出る直前のイリヤの決意(こたえ)、その全てが繋がったことを自覚した。その上で、アイリは裁決を下さなくてはいけない。
「そうね。――――キリツグだったら、問答無用であの子を表世界に引き戻したでしょうね」
「……アイリさん?」
誰ともに聞かせるつもりのないアイリの独白に、雁夜は眉を顰める。その言い方ではまるで――――
「私もキリツグも、イリヤと士郎を守るために今まで世界中で頑張ってきたわ。あの子たちに私たちの負の遺産なんて残したくないから、一緒にいる時間を削ってまで闘ってきた。
けれど、それにも限界があるようなのよね」
アイリはその白皙の美貌に憂いを浮かべた。
冬木の聖杯戦争は、当時学生であったウェイバーが時計塔で容易に調べられるほど有名になってしまった儀式である。万能の願望器という表向きの題目は儀式に必要な魔術師を釣る餌であり、優秀な魔術師を集めるためにもある程度の情報の拡散は必要であった。
ところが冬木の聖杯は第三次聖杯戦争時に人間の悪性の象徴ともいうべきサーヴァントが原因で聖杯は汚染されてしまった。聖杯戦争に勝利したとしても願いは悪意によって歪められた形で成就してしまう。
それを知ったが故に、アイリと切嗣は冬木の聖杯を解体することを決めたのだ。衛宮切嗣の願いであった全人類の救済も諦め、二人は互いの幸せを、家族の幸せを選んだ。
しかし拡散された情報を全て消去することは困難を極める。聖杯を巡るこの儀式は『根源』へ至るための道に限りなく近く、聖杯が破棄されたと告知しようが、多くの魔術師がその断片だけでも手に入れようとするのだ。
「どれだけ情報を潰しても、聖杯を狙う魔術師の計画を阻止しようと、キリがないの。さらに第三次のときにナチスと帝国軍のいざこざの中で術式が一部流出したとかで、補完のためにアインツベルンを狙う勢力もあるみたいで。キリツグがアメリカから動けないのもそのせい」
愚痴っぽくなってしまうが、今の状況が厳しいせいで休みも碌に取れないのである。今回の急な雁夜の呼び出しにアイリだけでも帰国できたのが奇跡的なくらいだ。
「キリツグは昔ずっと一人で活動してきたせいか、なんでも一人でこなそうとするのよ。部下の人はいるんだけどね、肝心な部分は一人で抱え込む癖があって……。
今はまだいいわ。私もいるし、身体も支障なく動いてる。でも子供たち二人を守りながら、終わりの見えない闘いをいつまで続けていけるかしら?」
「それは……」
雁夜は言葉が出なかった。それは雁夜も抱える問題だからだ。
『間桐』を存続させるつもりは無い。桜にも甥の慎二にも継がせるつもりは無い。だが雁夜の死後どうやって彼らを守ればよいのか。
渋面になる雁夜に、アイリは言う。
「私ね。今回のイリヤの件は、いい機会だと思うことにしたの」
「はい?」
雁夜はアイリの発言に目を丸くする。普通、危険なところには近寄らせないのが一番ではないだろうか。
「将来、いつになるか分からないけれど、私とキリツグ、セラとリズで守り切れなくなる時がやって来るわ。その時のために、やっぱりある程度自衛できた方がいいでしょう?
イリヤの様子を見る限り、魔術の世界に触れても忌避したり臆した様子では無かったわ。寧ろちゃんと自分の意志で、友達と一緒にやり遂げるって決めていた。逃げずに前に進んでいたの。――――もう守られるだけの子供ではないのね」
「アイリさん、イリヤちゃんのこと知ってたんですか!?」
「なんとなくね。何か大きな壁を乗り越えようとしていることは本人からそれとなく聞いていたから。まさか魔術の任務についてだとは思わなかったけれど」
開いた口が塞がらないとはこのことか。
雁夜は乗り出していた上半身を戻すと、かくっと首を落とした。
「大丈夫よ、カリヤ。子供たちは私たちが思っているよりもずっと逞しいわ。桜ちゃんだって魔術の勉強、頑張っているんでしょう? 私たちも子供たちを信じて、負の遺産を減らすだけじゃなく、後に残す遺産も考えていった方がいいかもしれないわ」
前向きなアイリの言葉に励まされるよう、雁夜もゆるゆると顔を上げる。
「そうですね……。俺たちだけで全部背負おうとして潰れてしまったら、それこそ本末転倒ですから、できる限りのことはしていかないと。……情報の継承っていうのも大事ですよね」
遠坂の二の舞を演じる訳にはいかない。
雁夜は力強く立ち上がるとアイリに向かって言った。
「それじゃあ、イリヤちゃんのことは現状維持ってことでいいですか? もしイリヤちゃんが小聖杯ってことがバレそうだったら、俺がフォローに回る感じで」
「ええ、それでお願いするわ。よろしくね、カリヤ」
アイリは雁夜に右手を差し出す。その手を取り、雁夜はアインツベルンからの借りはここで返すと誓ったのだった。
影から見守るおじさん参戦。