プリヤ世界にエミヤ参戦   作:yamabiko

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旅行中の移動時間って絶好の執筆時間ですよね。
ということで30話目、投稿します。

本当はこんなワカメするつもりは無かったんですが、つい広げてしまった捏造設定を詰め込んでしまいまして。

今回は【22】の麻婆の裏話も含んでおります。

間桐家に幸あれ!


【30】

 緑の蔭が次々と流れて行く。木々の間から差し込む陽光が、尾を引いて遠ざかる。

 それは人の駆ける速度より速く、むしろ獣の速度と言っても遜色は無い。

 苔むす岩と生い茂る雑木。枯れ葉の堆積した黒の土。山奥の空気は初夏の陽気を感じさせない。

 風を切る。巌の段差を飛び越える。だがそれに反して振動はほとんど感じることはない。

 身を案じて極力揺らさないよう気を遣ってくれているのか、まるで早回しの映像を見ているようですね、と暢気な感想を抱けるほど、その移動はスムーズだった。時折浮遊感があったり、大岩が間近に迫ったりと、下手な遊具よりはよほどスリルが味わえるが、カレン・オルテンシアにとっては快適な乗り心地であった。

「ミスタ・葛木。私は荷物と同じなのですから、もう少し粗雑に扱ってくださってもかまいせんよ」

 背中越しに声をかける。音は後方へと流れてしまうが、感覚の鋭い彼には届くだろう。もっとも寡黙な性質だから返事はあまり期待していないが。

「……雇い主だ。あと十分ほどで車道に出る。迎えを呼んでおくといい」

 スピードを緩めることもなく男は駆け続ける。息も大して乱れていない。

 地味な配色の背広は山陰に溶け込み、背景と一体化しながら最短の道を進む。

(おじいさまは本当によい拾い物をしましたね)

 腰に巻き付くベルトを調整しながら、カレンは思った。

 鬱蒼とした木々が茂る山の中をゆくスーツ姿の男。背には背負子。それに座るは銀髪のシスター。

 端から見れば何とも珍妙な姿だが、二人にとっては慣れた行軍である。

 元々カレンは冬木で行われた魔術的大儀式の後始末兼監視として聖堂教会から派遣された身である。その大儀式の中枢は円蔵山の懐、この山の奥深くの地下にあり、定期的に様子を見に来る必要があった。

 だがカレンの身体は過去の任務による傷害で、このような山奥での活動に適しているとは言い難い。それを見かねたカレンの祖父である言峰璃正が、葛木を紹介したのだ。

 カレンは葛木の過去は知らない。ただ、教会の埋葬機関の戦闘者とも互角に渡り合えるだけの身体能力と技能を備えているとだけ聞いていた。そして普段は穂群原学園の教師をしている、とも。

 冬木に構える言峰教会の神父である璃正と、どこでどのような経緯で知り合ったかは分からないが、璃正からしばしば教会の『仕事』も任せられるくらいには一定の信頼を得ているようだ。

 カレンは懐から携帯電話を取り出し、教会へと連絡を入れた。

 これはほとんど揺れない葛木の背だからできる芸当であり、彼以外の教会所属のスタッフたちの背であれば振動のあまり舌を噛んでいるだろう。この快適さもかねてカレンはよく葛木を指名するのである。

(彼らには彼らにしかできない仕事もありますし)

 魔術行為の隠蔽に住民への記憶操作や誘眠措置。そういった術を持つ教会スタッフたちは、今日も万が一のため新都で待機している。今回の観測結果を鑑みるに、あと数日と待たずに彼らの出番がくるかもしれない。

 じくじくと熱を持ち始めている己の足先を見ながら、カレンは考える。

 右足の小指及び薬指の付け根にて、血管破裂による内出血を確認。腫れは酷く、通常よりも一回り皮膚が膨れ上がっている。赤紫に染まった足先は針を刺したら破裂しそうな風船のようだ。

(内部では既に浸透している……。外には薄皮一枚でまだ流出せずに済んでいる、と)

 心臓から遠い末端に顕れたこの症状は、やはり新都の事象に沿っているのだろう。それこそが被虐霊媒体質をもつカレン・オルテンシアの観測方法なのだから。

 対象の状態を我が身に写し盗り、その身体の損傷の具合から考証し情報を得る。

 それは観測対象を見誤ると即、命を落とす可能性もあるのだが、カレンは恐怖などは抱いていなかった。

 痛みは既に身の一部。死するとしてもそれは自身の運命。これも神の祝福と受け入れ聖女は笑う。

「……ああ、間桐の彼にも連絡を入れなくては。せっかくです。またよい練習台になってあげましょう」

 人界と隔絶した山から人通りのある車道まで、あと少し。

 

 *******************

 

 カツカツと不機嫌そうな足音が戻ってくる。

 屋敷に備え付けられた電話が鳴ってから僅かしか経っていない。よほど短い通話だったようだ。

 バタンと乱暴に開けられた扉から予想通りの顔が現れる。眉宇を上げ眉間の皺を深くした甥だ。そこそこ秀麗なはずの面をゆがめたまま、高校生の甥は石造りの地下室に常備されたとある器具一式を揃え始めた。

「その様子だと、また教会へ行くのかい? 慎二」

「ああ、またあの馬鹿シスターがやらかしたらしい。直々の御指名だよ」

 黒い大きめの鞄に詰め込まれるのは、タオルやら脱脂綿、金属製の器具のほかに、間桐が管理する治療向けの蟲を詰めた瓶だ。見た目グロテスクだが、昨今でも民間療法にも蟲を使った治療はある地域では存在している。間桐の蟲はそれの何十倍も強力に改造したものだ。

「……彼女もモノ好きだよね。女の子って普通こういうの苦手じゃないのかな」

「アレが普通に見えてたら、僕は雁夜叔父さんの目を疑うしかなくなるよ。進んで自傷行為を繰り返すとか、まともな奴じゃないことは明白だろ?」

 慎二は当たり前のように言うが、あまりそのシスターとは顔を合わせない雁夜にとって、遠目に見た言峰教会の唯一のシスターは清楚で可憐、華奢で病的に白いという印象しか無い。慎二の話を聞くと内側はとんでもない毒花らしいが、実際に相対したことの無い雁夜にはあまり想像がつかない。

「まあ、お大事にって言うほかないんだけど」

 雁夜は作業を中断して財布を開き、その中で一番高価な一枚を慎二へ差し出す。

「タクシーを使って、できるだけ早く行って帰って来てくれると助かる。正直、今慎二に抜けられるととても困るんだ。冬木の地脈に発生している歪みの影響で、解析が全然終わらないからさ。学校も昼から早退してもらったしホントに申し訳ないんだけど」

 お釣りは好きに使っていいからと、雁夜は頭を下げる。

 時計塔への報告書を制作するには、まず事実確認をしなくては裏付けもとれない。

 監視で置いていった蟲の記録にはノイズが多く、詳細を出すにはマシな部分を抽出するしかない。その記録を一つ一つ確認する作業を、慎二にも手伝ってもらっていた。

 要領がよく頭の回転も早い慎二には雁夜が冬木に不在の間、蟲たちの管理の一部を任せていた。今回の地脈の異常な歪みが魔術協会に感知されたのも、実は慎二からの一報が一因であったりする。

 魔術回路は雁夜よりも少ないが、十年前の戦争の際、慎二は魔術回路を獲得していた。いや、獲得させられた、という方が正しいか。

 多少ひねたところがあるが、ここまで慎二が健全に育ってくれたのは、実は言峰教会のおかげである。

 だからこそ雁夜は教会に対し頭が上がらない。教会からの呼び出しを断れないのもそのためだ。

 

 十年前、あの間桐の執念は最後には慎二をも狙った。アインツベルンの行動が思いの外早かったせいで、慎二を冬木の外へ避難し損ねていたのもあり、また魔術回路が備わっていない慎二が標的になるとは誰も思っていなかったせいで、アレの浸蝕を許してしまった。

 無理矢理に魔術回路の痕跡をこじ開けられ、中身もめちゃくちゃに弄ばれた慎二を救ったのは、聖堂教会所属でありながら魔術師・遠坂時臣に師事していた言峰綺礼神父だった。治癒魔術と霊媒医療に長けていた彼の尽力によって慎二は一命を取り留めた。

 当時、慎二は蟲に蹂躙されたことにトラウマを抱えたようで、回復してからもたびたび間桐の屋敷を飛び出しては隣町の言峰教会に世話になっていたようだ。

 ……ようだ、と伝聞のかたちになってしまうのは、そのころ雁夜は雁夜で数年間療養ベッドの住人になっていたからである。元々が健全であった慎二とは異なり、一年に渡り酷な修行を課せられていた雁夜の身体はボロボロで、回復にはアインツベルンによる人体細胞の甦生から始めなければならなかったのだ。

 その後、魔術回路が蟲なしでまともに動くようになってからは、雁夜の兄である鶴野に社会的な体裁を任せ、雁夜は時計塔に留学した。家事に関しては養子である桜がその頃からくるくると働いてくれたおかげで、アインツベルンのメイドが引き上げることになっても問題はなかった。

 つまり同じ間桐の屋敷に住んでいながらも、雁夜は慎二とはろくに接点を持たなかったのだ。

 だから実のところ、雁夜は慎二との間に微妙な距離感を感じていた。共に暮らす分には問題はないが、ふとした拍子に慎二が何を考えているのか分からなくなってしまう。

 やはり幼年期に慎二とちゃんと触れ合うことなく冬木を離れ、イギリスの時計塔へ行ってしまったためなのか。

 数年後、基礎を修めてやっと冬木に帰省できたときはとても驚いたものだ。

 いつの間にかトラウマであった蟲を克服し、独学で間桐の魔術を学んでいた甥。

 桜によると、教会に綺礼神父の娘が就任してから慎二は劇的に変わっていったそうだ。それはもう、鬱屈としたウジ虫から喧しく飛び回るハエに変わるくらいには。(慎二をこう表現した桜は別の意味で逞しくなったと思う)

 魔術の基礎は綺礼神父から教わったらしい。遠坂仕込みの魔術を勝手に他家の魔術師に広めるなど、現遠坂家当主が聞いたら激怒しそうなものだが、間桐へのリアクションが無いところをみると、認知していないようである。一当主としてそれで大丈夫かという杞憂を抱いてしまうが、バレたら不可侵条約の域を越えて制裁が下るのが目に見えているので、黙っていることにしている。

 雁夜はそれからロンドンと往復しつつ間桐の魔術書を紐解いていった。しかしそれに関しては慎二の方に一日の長があり、逆に年下である慎二に解説を願うこともあった。慎二は数年前から学校に通いながらも、部活動には入らず書庫や工房に入り浸っていたようで、雁夜よりも一歩二歩先を進んでいたのだ。

 いつしか間桐の魔術に関しては雁夜と慎二の二人で研究・編纂をするようになっていた。エルメロイ家に差し出す研究成果も雁夜名義であったが、実質半分は慎二の解析結果である。

 ちなみに桜は間桐の魔術にあまり興味を持たなかったが、雁夜や慎二を軽く上回る魔術回路と潤沢な魔力量に、希少な「虚数」という属性を持つため、自衛目的で魔術の研鑽は重ねていた。基礎はアインツベルンのメイドから教わり、属性の扱い方やそれに派生する術式の構築などは時計塔に籍を置いた雁夜から学んでいる。――――間桐という同じ家にいながらも、三人の魔術師のスタイルはそれぞれ少しずつ違うのだ。

 それでもお互いに反目無く間桐としていられるのは、魔術にそれほどの執着が無いからだろう。

 主軸に置いているのは人としての幸せであって、魔術はあくまでそれを守るための手段である。それは普通の魔術師にとっては唾棄すべき思想であり、時計塔などで吹聴しようものなら袋叩きにされること間違い無い。共感してくれるのが某魔術師殺しの家庭くらいではないだろうか。

「……夕飯には間に合うように帰ってくる。桜には、今日は赤と黄色の料理は作るなって言っておいて」

 慎二は雁夜からのタクシー代をぶっきらぼうに受け取ると、そのまま黒い鞄を引っ提げて部屋の出口へと向かう。

 その粗野な仕草が慎二なりの照れ隠しだと桜に教えられるまで、雁夜は自分に何か落ち度が合ったかと肩を落としたこともあった。今はそれなりに微笑ましいと思えるまでに桜に鍛えられたが。

 出て行く慎二を見送っていると、一度だけ慎二は振り向いた。

「そうそう、僕がさっきまで解析を担当していた群体には触らないでよ。違う術者に干渉されたら後々厄介だからさ」

「あー、了解。俺は別エリアの群体を見るよ。それでいいだろ?」

 蟲の解析には殊更気を使う。解析が中途半端な状態で放置されているのは気になってしまうが、同じ術者が再開させた方がスムーズに進むだろう。慎二が担当していた蟲の群体は、歪み近くに潜ませていた特にノイズが酷いものばかりだ。確実に処理するには慎二の帰りを待った方がいい。

 一人と蟲ばかりになった部屋の中で雁夜は、さあ頑張るぞと気合いを入れる。

 甥ばかりに負担を押しつけてはいられない。それにアイリスフィールとの約束もある。

 雁夜は勇んで記録をため込んだ蟲をつまみ、解析用の針を構えるのだった。

 

 ****************

 

「――――終わりだ」

 赤い斜陽が染め上げる部屋の中。夕焼けよりも更に赤いモノを丁寧に拭い、慎二は告げた。

 教会の居住区にあたる一室。ベッドの上、敷布の上に投げ出された白い足に橙のコントラストが映える。腫れ上がり異形と化していた輪郭は元の形のよい小振りな足形に復元されていた。

「まだ感覚が戻りませんが」

 足の持ち主であるカレンは何の感慨もなく言う。右足を揺らすが足首より先はぴくりとも動かなかった。

「いったい痛み止めに何匹使ったと思う? ほんと厄介な体質だよな。麻酔が効きにくいなんて」

「痛みは主から賜った祝福なので。……痛みを消すなど、御心に背くことは心苦しいですが、これも若く青臭い魔術師の研鑽のため。私は喜んで身を捧げましょう」

「……そう思っているんだったら、もっと神妙な顔して言えよ。相変わらず気持ち悪いな」

 慎二は眉間に深い皺を刻んで、後片付けを始める。使い潰した蟲の死骸を一つの瓶にまとめ、残りのまだカサカサと動く余裕のある個体は元の瓶へと放り込む。

「麻酔に使ったのが十匹、血を抜くのに六匹、中を繋ぐのに三匹、表層を塞ぐのに二匹。……いくら宝石よりは安くつくと言っても、育成にはそれなりに時間と手間はかかっているんだけどな」

 魔導で調整を施した蟲の繁殖は、質を揃えるのに苦労する。治療に使えるほど基準値に収まる個数がどれだけ一度の産卵で産まれるか。これが投薬量を気にしなくてもよい攻撃種であったら、そこまで厳しく選別する必要はないのだが。

 労働に見合う対価を請求したいところを、銀髪のシスターはどこ吹く風と受け流す。

「凡庸なあなたが未熟な技術を押し上げるには、数をこなすしかないと思うのだけれど。無償で練習台を提供しているのに、金を無心するような男はもてませんよ? それに――――」

 カレンは含みを持たせ言う。これが慎二の着火点だと分かっているように。

「このような傷、あの男にかかれば数分で処置を終えるでしょうに」

「……分かってるさ。そんなの」

 片付けの手は止まらないものの、慎二の背は強ばり、内心でジリジリと焦燥と劣等感が渦巻く。

 いくら表面を綺麗に仕上げても、こう時間がかかっては、いつか全てに手が回らないほどの大怪我に直面したとき、むざむざとその命を取りこぼすかもしれない。一人は救えても別の誰かはその間に死んでしまうかもしれない。それが例えば――――であったなら。

(ちっ。だからそうならないために、研究と研鑽を継続しているんじゃないか)

 あれほど恐怖の対象と認識していた蟲を、弄ばれる側に貶め、体のよい道具として利用する。

 それが非凡な才を持たない慎二の僅かに残ったプライドが選んだ選択だ。

 慎二は頭に過ぎった不吉なイメージを散らした。陽は既に大半が山際に沈んでいる。用事は早く済ませないと、夕飯に間に合わないかもしれない。

 治療道具は既にあらかた鞄へ仕舞い終え、間桐の蟲も余人の目に届かぬよう奥の方へ突っ込む。後は目の前のシスターに問い質すだけだ。

「で、昼間のアレは何なんだ。なんで聖堂教会御用達の薬を渡す必要があったんだよ。衛宮――衛宮士郎はこっちには全く関係ない一般人のはずだよな」

 彼の少年の両親はどっぷりこちら側に浸かっているが、あの一家の息子娘は一般人として育てる方針だと聞いていた。下手にちょっかいを出そうものなら、魔術師殺しの矛先はこちらに向くだろう。

 遠坂凛が巻き込んだ娘の方は雁夜がアイリスフィールから了解を得てきたからいいものの、息子の方はまだ保護すべき一般人の枠の内のはずだ。わざわざ聖堂教会が干渉する理由はない。

 それに個人的な理由により、衛宮士郎はこちら側に来て欲しくない人物なのだが―――― 

「あら、私が何者で何をする者か、その矮小な脳みそからはすっかり抜け落ちてしまったようですね。残念なことに」

 窓からの赤い残照に銀髪を染めて、教会の修道女は薄く微笑む。

 纏う衣装は黒と白のコントラストが映える修道服。神に仕え、神の教えを説き、それに反する存在、異端を排す者。

 そう、カレン・オルテンシアは聖堂教会所属のシスターであり代行者。つまり彼女の本職は。

「悪魔祓い(エクソシスト)。……なんだよそれ。じゃあ衛宮は、悪魔にでも憑かれてたってことか? とてもそんな風には見えなかったけどな」

 昼間校内接した衛宮士郎は何ら変わりがなかったように思える。しかしその様が悪魔の擬態だとしたら、それは――――

 顔色を変える慎二に、カレンは涼やかに告げた。その憶測は杞憂だというように。

「正しくは『悪魔のようなもの』と言ったところでしょう。今まで相手にしてきた悪魔と毛色が違いましたから。それに彼は稀にみるお人好しなようです。なにせ進んでこの冬木で起こっている異変を解決しようと動いていますし」

 諭すような本職の修道女の言葉も、しかし慎二には信じられなかった。

「お人好しの悪魔がこの異変を解決する? はっ、冗談はやめてくれよ。こんな厄介事に首突っ込んで、いったい悪魔に何のメリットがあるっていうんだ。そもそもお人好しの悪魔ってものが信じられないね。

 悪魔は憑りついた奴の内面を崩壊させて、自分を現界させるんだろ。そのためには何だってやる。宿主を唆して願いを叶えてやったりとかな!」

 悪魔は霊障の一種だ。人の苦悩を理解し、取り除こうとする架空要素。

 その理由と基準は不明だが、人間の願いによって呼びだされる受動的な存在と言われている。

「……それともあれか? 憑りつかれた衛宮の願いが、この事態の解決だっていうのか? 狂った地脈を戻して一都市を救う? 平和ボケした一般人がそんな大層な願いを抱くなんて考えられないけどな!」

 慎二は手近にあったテーブルに拳を振り下ろした。空になっていた金属質のコップがカタカタと揺れる。

 悪魔が憑りついた時期はさっぱり分からないが、衛宮士郎がこの異変を把握しているはずが無い。魔術に関係ない者には感知できない地脈の歪みだ。多少、勘の良い者なら違和感を覚えるだろうが、それでも表世界の一般人、ましてや平凡な高校生が根本的な問題に行き着くことはない。

 慎二にとって衛宮士郎は妹の桜を通したただの知り合いでしかないのだが、こちらの世界に関わってもらっては困るのだ。

「当たらずとも遠からず、かしら」

 カレンは慎二の激昂を冷静に見据えていた。なぜ慎二が衛宮士郎に過剰に反応するか、その理由をカレンは十分承知していたからだ。

「衛宮少年は自らの意志で、この異変に関わっている。衛宮少年に憑りついている『彼』もそれはやぶさかではない――――。それは彼らのこれまでの行動が物語っているわ」

 『彼』の目は頑なで錠の下ろされた鉄の扉であったが、そこに悪趣味な色は無かった。あんなモノを口にしてまで宿主に気を遣っていた『彼』が、悪意を持ってこの異変に臨むことはないだろう。ましてや宿主の精神を殺しその身体を乗っ取ることは、本意ではないはずだ。過去に何体もの悪魔と対峙してきたカレンはそう判断を下していた。

 一方、慎二はカレンの発言に引っかかりを覚えていた。

「……教会側は事実関係は押さえているのか」

「優秀なスタッフのおかげで。……それを魔術協会側の人間にわざわざ教えて差し上げる義理はありませんけど」

 ちっ、と慎二は舌打ちする。間桐の屋敷に籠もって穴だらけの記録を拾い上げるのに、慎二と雁夜がどれだけ苦労していることか。カレンは魔術師である慎二を呼びつけるくせに、聖堂教会と魔術協会の対立を盾にそういう情報は寄越さないのだ。

「それで? 僕らの知らない情報を元に、お前はどうするんだ? 教会はどう動く?」

「どうもこうもしませんよ。この度の騒動はそちらの領分でしょう。教会は監視と万が一の場合の隠蔽を担うだけです。あなた方が手ひどい失敗をして情けなくもこちらに助けを乞うまで、私たちが手を差し伸べることはありません」

「……衛宮の件はどうなるんだよ。あいつはあの魔術師殺しの息子だ。どう見たって魔術側に教会が肩入れしたかたちになるぞ」

 カレンの言うことが本当ならば、衛宮士郎は時計塔から派遣された遠坂凛とルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと鉢合わせしているはずだ。だが、今日までに衛宮士郎のことは報告に上がってきてはいない。雁夜の仕事を手伝っている慎二も、二人からの報告に目を通しているから、それは確実だ。

「衛宮少年は『悪魔のようなもの』に憑かれていた――――それはこちらの領分です。私は己の職務の本分に乗っ取り正しく対処をしただけです。その後、彼がどう動こうと私の知ったことではありません。そしてこの事実を知るそちら側の人間は慎二、あなただけしかいませんね」

「僕に黙秘していろと?」

「衛宮少年が一般人でいられるかは、あなたの匙加減一つということです」

 まるで悪魔の囁きのようなカレンの甘言に、慎二は再度舌打ちを鳴らすしかなかった。

 だから自身の行動原理を知る人間は嫌なのだ。結局、相手の手の上で道化の如く振る舞うしかないのだから。

「従順な犬は面白味が無いけれど、単純一途な指針に傾倒する姿は愚かで、同時に尊くもある。

 ――――おかしな相似ね。衛宮士郎はただ兄として妹のイリヤスフィール・フォン・アインツベルンを守りたい。彼の目的と動機はおそらくそれだけのことなのでしょう。それは、あなたには十分共感できる理由ではないかしら? 間桐慎二」

 赤の残照が夜の帳に覆われる。灯りを点す前の部屋は青の薄闇の中。カレンの金の瞳だけが猫のように細められる。

 肯定も否定も慎二はしなかった。ただ盛大に顔をしかめただけだ。

 どうせ胸の内も何もかも見透かされているのだから、不快感を示すだけで十分だろう。ここ数年のつき合いで慎二はそう学習していた。ここで怒りを爆発させても、ただ相手を喜ばすだけだ。

 冷静に、と慎二は自分に言い聞かせる。馬鹿なことを喚き散らしても暖簾に腕押し、無駄にエネルギーを持って行かれるだけだ。

「……衛宮に憑いている悪魔はもう大丈夫なんだろうな? 僕の渡したアレが、お前のいう悪魔祓いとして『正しい対処』なんだろ」

 爆発を押さえ、そう問いかけた慎二だが、カレンの優勢は崩れることはなかった。

「ええ。アレは服用者の心身を健全とするもの。昨日もあの神父の好物と合わせて摂取してもらいました。――――アレの味が酷いのは知れ渡っていましたから、ちょっとした親切心ですよ?」

 慎二は一瞬、カレンが何を言っているのか分からなかった。昨日も? 摂取? なにより――――

「……神父の好物ってあの泰山の麻婆だよな? それに酷い味と評判の教会謹製の薬を混ぜた? うわ。えげつないぞ、それ。衛宮もよく食ったなそんなもの」

 カレンに付き合わされてあの麻婆を口にしたことは実は数え切れないくらいあったりするが、それに得体の知れない薬品が混ぜるなど、狂気の沙汰ではない。

「完食してくれたのは例の悪魔の方ですよ? 心身弱り切った宿主の為に頑張ってくれましたね。だからこそお人好しの悪魔と呼んでいるのですが」

「悪魔の方が食ったのかよ! まあ、それは確かにお人好しと言わざるを得ないな……同情するよ」

 そいつもカレンの愉悦の餌食にされたかと思うと、妙な親近感さえ沸いてくるような気がした。

「って待てよ。悪魔が自分から口にしたのか? 悪魔祓い用の薬を?」

「そういうことになりますね。悪魔は憑依した対象の心を病ませ浸蝕してゆくものだから、対象者を健全な状態にして免疫を上げてやれば、それは弱まる。そういう意図の薬ですから」

 悪魔祓いといっても、カレンはその特性から悪魔探知機として運用される兵装として扱われてきた。悪魔と戦い祓うのは他の誰かの役目であり、立場的には助手のようなものだったりする。

 故に、カレンができるのはその場限りの対症療法だけだ。今回の場合はそれが『正しい対処』だったが。

「浸蝕を弱める、だけか。根本的な解決には至らないってことだよな? それ」

「時間稼ぎのようなものですね。悪魔の『彼』が宿主を押しつぶしてしまわぬよう、本職の悪魔祓いの方が到着するまでの。……もっとも『彼』もこの異変の解決に手を貸してくださっているようなので、ある程度は放置しますけど」

 勝手にこの冬木の危機を救ってもらう分には一向に構わない。どうぞ上手く立ち回って、教会の手を煩わせないよう頑張ってもらいたい、ということだ。

「……冬木の黒幕だよな。お前は、ほんとに」

「私はしがない一修道女にすぎませんよ。ただ平穏な日々を願っているだけです」

 いけしゃあしゃあと宣うカレンに、慎二は両腕をあげるしかなかった。

(昔はもうちょっと可愛気もあったような気がするんだけどな。……どうしてこうなった)

 すっかり暗くなった部屋で、慎二のため息だけが響いた。

 

 

 ******************

 

 間桐の屋敷の前でタクシーを降り、料金を支払う。往復合わせても三分の一は手元に残るようだ。

(雁夜叔父さんは悪い人じゃないっていうのは分かってるんだけど……)

 残った札と小銭を慎二はポケットにねじり込む。

 どうにも十年前の瀕死の重病人の印象が強すぎて、問題を共有するには少々頼りなく感じられてしまう。変人奇人の巣窟である時計塔へ留学しても一般人の気質が抜けない雁夜に、権謀術数の波の中で上手く舵をとれるか、不安に思ってしまうのだ。

 故に、雁夜へ余計な負担をかけないよう、慎二の手の届く範囲の厄介ごとは自分で処理してきた。

(カレンも面倒くさいことを押しつけてきやがって)

 門から屋敷までは思いの外距離がある。様々な種類の蟲の繁殖を円滑に行うため庭の植物に手を入れ、独自の生態系を作り上げるのに庭園の面積を増やしたからだ。

 植生の管理は主に桜が担っている。蟲の世話は遠慮するくせに、植物のほうは存外好きでやっているようで、毎日の水やりや草むしり、木々の剪定は進んで行っている。

 ……だからこそ慎二も庭の拡大に尽力したわけだが。

 屋敷の半分は十年前に焼け落ちていたので、その分の敷地をそっくり庭に当てている。

 玄関はかろうじて焼け残り、重厚な扉は創建当時のそのままだ。所々黒ずんでいるのはご愛敬だ。

「……ただいま。帰ったぞ」

 中へ入ると、とある海産物の独特の匂いが漂っていた。

 台所の主である義妹はちゃんと慎二の要望を叶えてくれたらしい。

(衛宮とお人好しの悪魔ができることなんて、どうせそんなに大したことはないと思うけど――――)

 自分から異変に関わっている以上、何があろうと自己責任の範疇であり、慎二の知ったことではない。

 だが彼らの関係のないところで教会や魔術側の人間に目を付けられるのは、後々面倒なことに成りかねないだろうから――――

(せいぜい後腐れ無いようにはしてやるか)

 ダイニングから顔を出した義妹の顔を見ながら、慎二はそう妥協する事にしたのだった。




本当は邪魔な虫を排除したいお兄ちゃん

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