甘菜綴と名乗ったその男を初めて見た時、弱そうだと思った。
両腕は拘束衣によって縛られ、ほっそりとした身体や傷1つ無い顔を見て、矢野はそう判断した。
彼はあの賭場で売られそうになっていたところを助けられた。
呪術師であることによって差別されてきた矢野にとって、あの出来事は光でしか無かった。
「えっと、綴さん……どうして俺を連れて行くんですか?」
「……素人じゃないから」
矢野はこれまで呪術を行使する事態に陥ることが多かった。そのおかげであの日まで逃げおおせることができていたのだが、それを見破られるとは思っておらず僅かに目を見開く。
目的地に行くため、矢野は綴の後ろを着いて歩く。
「危ないと思ったらすぐ逃げろ」
「あ、ありがとうございます……」
綴のことは事前に蟲飼いと名乗った男に聞いていた。
呪術師には優しいから安心していいと言われていたが、まだどこかで信じきれずにいる。
「矢野」
「はい、なんですか?」
「先に目的地に行っといてくれ」
「え?」
矢野はずっと綴に気を取られていたため気が付かなかったが、前に見知らぬ人物がいることに気が付いた。
「あの、でも……今から会うのって、呪霊なんですよね?」
「厳密に言えば、呪物の受肉体だ。呪胎九相図と言って………いや、この話は後にするか。
今、アイツらが俺達を害するとは思えないから安心していいと思う」
そう言うと、綴は矢野の背中を膝で軽く蹴った。早く行け、ということだろう。
矢野は急いで見知らぬ人物の横を通り過ぎた。通り過ぎたところで、彼が人間では無いことに気がついて後ろを振り返るが……綴に睨まれたため、すぐに前を向いて走った。
「で、なに?」
矢野がいなくなったことを確認して、綴は目の前に現れた真人を睨む。
「いや、ちょっと勧誘?」
「は?」
露骨に嫌そうな顔をする綴に苦笑する真人は、言葉を続ける。
「俺達は夏油と協力関係にあるわけなんだけど、やっぱり心底からは信用できなくて」
「それが懸命だな」
「キミも、そうだろ?
むしろ憎くてたまらない、殺してやるってね。でもできないのは夏油の呪霊操術のせいで、夏油の支配下にあるからだ」
綴は子蜘蛛によって半分が人間ではなく呪霊として存在している。
それを夏油の呪霊操術でコントロールしているため、急激に子蜘蛛と成り果てることはなかった。ゆっくりと、亀の歩み寄りもゆっくり子蜘蛛となっていく。
本当ならば既に失っているであろう味覚、消化器官能力も僅かに落ちただけで健在だ。
「でもそんなことはどうでもいい。
夏油を殺せないのは、夏油に抑え込まれるからじゃない?」
どれだけ殺そうとしても、寸前のところで止まってしまう。
「だから俺達と手を組もう。夏油よりは信用出来る」
「人間と呪霊は根本的なところ理解し合うことができない。だから俺はあのメロンパン野郎と同じくらいお前達を信用出来ない」
「でも、ほとんど呪霊だろ?」
「舐めんな、まだ人間だ」
綴のその答えは真人がよそうしていたものと同じだった。
「というか、お前は呪術師を殺してるんだろうが」
「そこ、重要?」
「重要だ。俺は、呪術の存在を知る人間だけの世界を作るのが目的だからな」
「………無理だと思うよ?」
「俺もそう思う」
でも、だからと言って諦めるつもりはない。
そう言った綴の魂は今まで見てきたどんなものよりも力強い。
「俺の共犯者は、あの人だけで充分だ」
綴は真人の隣を通り過ぎる。
彼の目的は、自分達の「呪霊と人間の立場の逆転」という目的よりも途方もない事だ。
その昔、呪術は今よりも一般的なものであったという。それでも1000年以上の時が経ち、呪術師は忘れ去られていった。
もしも綴の目的が達成されても、結局はまた永い時を経て現代に戻ることだろう。
それでもやるのだと言い切った彼は、今後どうなっていくのだろうか。
「ま、邪魔になるなら殺せばいいか」
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矢野のことが心配で早足で向かったのだが、どうやらその心配は必要なかったらしい。
「あ、綴さん!」
矢野は、九相図の1人とババ抜きを楽しんでいた。
「……何やってんだ、お前」
「血塗君とババ抜きです!」
「見たらわかんだよ」
まさかこんなにも短時間で打ち解けてしまうとは思っても見なかった。
矢野と血塗は真剣な表情をしてトランプとにらめっこをしている。
「貴方が甘菜綴ですね?」
「……そうだけど。アンタが脹相?」
「いえ、私は壊相と申します」
裸体の上に蝶ネクタイと女性物のボディハーネス、Tバックを着用した奇抜な壊相だが、性格には問題はなさそうだ。
「この度は我々の監視をすると聞いていますが………」
壊相が見たのは、弟の血塗とババ抜きを楽しみ、負けたことを悔しがってもうひと勝負しようとする矢野だ。
「貴方を待つ間、暇つぶしに何故かこうなってしまって。これで通算4度目です」
「あの短時間で4回もババ抜きできんのかよ」
「2人は楽しんでいるようなので、我々だけで打ち合わせをしましょう」
「わかった」
矢野はこれまでまともに生活出来なことがないことを綴は聞いていた。
だから、心の底から笑って楽しむ矢野の邪魔をしてはいけないと、綴は壊相の後ろをついて行く。
「…………なんでこっちを見る?」
「背中は、あまり見られたくありませんから」
「………」
後ろ向きで歩く壊相の後ろ(?)をついて行くと、壊相や血塗よりも強いと分かる男が立っていた。
「受胎九相図長男・脹相、で間違いないな?」
「ああ、そうだ」
正直、綴は呪霊達と同じように彼らを信用していない。ここで一悶着あることも織り込み済み。それだけ彼らにとって監視者は面倒なものだろうと、踏んでいる。
矢野は問題ないだろう。例え深手を負わされても、即死しなければ彼の術式でなんとかなる。
「弟が済まないな」
「は?」
まさかそんなことを言われるとは思っておらず、綴は困惑する。
「いや……うちの部下こそ、済まない」
弟、おそらく血塗のことだろう。
しかし矢野が楽しんでいるのなら、別に綴は何も思わない。むしろ、新しい一面も知れてよかった。
「血塗が、友人ができたと言っていた」
呪胎九相図は兄弟だと聞いている。
脹相の血塗を思うその表情は、どこか見覚えのあるものだった。
そんな眼差しを向けられていたような気がする。師であった夏油もそうだが……もっと別の……。
「甘菜綴?」
「いや、何でもない。
あと名字の方はあまり呼ばないでくれ」
捨てた家の家名を名乗りたくはないが諸事情により改名できずにいる綴は、酷く嫌悪した顔をして吐き捨てるようにそう言った。
「矢野が、誰かと仲良くすることはこちらとしても好ましい」
まるで、これまでの生活を取り戻すかのように遊ぶ矢野を見て、綴は安心していた。
矢野は強い子だ。その強さが、今回矢野を選んだもうひとつの理由である。
「気を許した奴には人懐っこいから、多分今後もこんなことがあると思う。
そちらが良ければ受け入れてやって欲しい」
「わかった」
話してみればなんてことは無い。むしろ呪霊達よりはだいぶ付き合い安い。
それがお互いがお互いに抱く印象だった。
監視され、監視する立場であるが良い関係を築いていけるだろう。
「事情があって、表立っては味方できんがな」
「事情、ですか?」
「……夏油傑と名乗った男がいただろう?」
「あの男か」
綴はわざと、わかりやすい溜息を吐く。
「アイツの皮は、俺の兄貴分であり師である夏油傑の物だ」
兄の皮を被っている何者か、それを聞いた脹相と壊相の顔に嫌悪が現れる。
兄弟を大切にする彼らにとって、なんとも酷い話のように聞こえてしまっていた。
「アイツは夏油傑の術式も扱える。呪霊操術と呼ばれる物で、呪霊を操ることができる。
俺が子蜘蛛であることは聞いているな?」
「つまり、下手に裏切ればお前の身が危ないと、そういうことだな?」
「ざっくり言えば。
でも俺の目的はアイツを傑兄ちゃんの身体から追い出して殺すことだ。
その後は、呪術を知る人間のみの世界を作る」
綴は胸を張ってそう宣言する。彼ならばその宣言通りの世界を作ってしまうのではないかと錯覚してしまいそうな程、堂々としたものだ。
だが、それが容易なものでないということは脹相も壊相もすぐに気が付いた。
「難しいだろうな」
「俺もそう思う」
芥見先生の健康を祈って折り紙で鶴折ってみる。